サムライ闘牛士登場?! スペインに闘牛士になりに行った男。 |
ピカソに『ゲルニカ』を描かせ、 ヘミングウェイに『日はまた昇る』を描かせた闘牛。 闘牛って、なんで、情熱的な人を次々に吸いよせるの? 日本人も、観に行く人はいっぱいいますが、 闘牛士になろうと海を渡った人の話は、あまり聞かない。 でも、いたんです、そういう人が! 「テレビを見たら、いても立ってもいられなくなって…」 現在、見習闘牛士としてスペインで活躍中の濃野平さん。 日本人初のマタドール・デ・トロス(正闘牛士)を目指す、 情熱的でハンサムな濃野さんに、闘牛を語ってもらいます! |
降りしきる雨の中、 午後12時に入場行進の曲が華やかに演奏されます。 そしてぼくと他の4人のライバルたちが 砂場へと姿を現すのでした。 観客たちの拍手がぼくたち闘牛士の心を掻きたてます。 念願かなって闘牛場の砂場に立った瞬間に ぼくが思ったことは、 観客たちはぼくを観に来てくれたのだ。 雨に打たれながらも ぼくの闘牛を楽しみにしてくれているのだ。 こうして砂場に立つことが出来て本当によかった。 最後の最後まで諦めずにいて本当によかった。 闘牛士なんて星の数程いる・・ でもこの日、この瞬間、この場所に、 このぼくの代わりを勤められる闘牛士なんて 世界中のどこにもいないのだ。 観客は日本生まれの闘牛士、 このぼくを観に集まって来てくれたのだから。 そう思うと圧倒的な誇りと決意が沸いてきたのです。 ぼくの出番は4頭目の牛。 入場行進を終えると直ちにホアキンと共に ヒメネス医師の待つ医務室へと向かいました。 そして痛み止めの注射を右肩に2、3発! 注射後しばらくすると、あーら不思議! 痛みが急激に消えていきます。 多少痺れのような違和感は残りましたが、 右腕は不自由なく動きます!よーし! ぼくが再び砂場に姿を現すと同時に観客たちから、 応援のリズムを刻む手拍手が。 皆さん、お待たせしました・・いきます! その午後4頭目の牛・・ぼくの出番が回ってきました。 嘘みたいな事なのですが・・ぼくの演技開始直前に、 それまで降り続いていた雨が突然降り止んだかと思うと、 青空とまではいきませんが、うっすらとした 明るい光が闘牛場上空にあらわれるのでした。 まるでぼくのデビューを祝福するかのように・・ だから・・ぼくはカポテ(ピンク色の大きな布)を抱えると 牛の飛び出してくる扉に向かって歩き出すのでした。 闘牛学校校長の 「おーい!タイラどこへ行くんだー?! 戻ってこーい!何するつもりだー!?」 という叫び声が背後に聞こえています。 皆の見守る中、砂場を横切って扉へと近づいてゆくぼくに、 観客は拍手とそして驚きにも似た声援をもって 応えてくれるのでした。 「ポルタ・ガジョーラ」・・ この日の闘牛でこの大技に挑んだのはぼく一人だけ。 前日の試合でそれに挑んだのも、 ぼくの友人でありライバルでもあった ヘスス・マルケスの一人だけでした。 「ポルタ・ガジョーラ」はテクニックよりも 度胸一発な危険度の高い大技。 闘牛士が勇敢さや決意を誇示する際に オープニング・セレモニーよろしく、 行われることの多い技。 牛の飛び出してくる扉の前、 数メートルの所で地面に 両膝を着いたまま牛を待ち受け、 荒々しく飛び出して来る牛の動きに応じて 右か左に瞬時に牛を流すのです。 もちろん両膝は地面に着けたまま行わなければならない・・ 成功すると、その派手さもあり大変な演出効果が! 逆にタイミングを間違えたらア・ウ・ト。 ・・正面衝突となるとかなり悲惨なのです! きっとその日、ぼくの親しい人たち、 そしてライバルたちの誰一人として 負傷したぼくがそれに挑むとは 考えすらしなかったでしょう。 でも・・ぼくは今日まで草闘牛だろうがなんだろうが、 いつだってこの「ポルタ・ガジョーラ」から 演技を開始してきた。 だからこの状況においても、ぼくが 「ポルタ・ガジョーラ」から演技を開始するのは 自然なことだったのです。 好もうが好まかろうが、 それがぼくの闘牛スタイルなのだから。 飛び出してくる黒い肉の塊、 そしてポルタ・ガジョーラ炸裂! ぼくはそれを怪我を負っている右腕でやってみせたのです。 見事成功! 「ランセ」と呼ばれるカポテの技をみせる場、 そしてバンデリージャ(銛打ち)の場が終わり、 いよいよぼくの演技のクライマックス、 最大の見せ場となる「ファエナ」 (ムレタと呼ばれる赤い布と剣を用いて行う場) が始まろうとしています。 この「ファエナ」の前に、 時として闘牛士たちは観客全員もしくは 特定の個人へと牛を捧げることがある・・ ずっと以前から・・ぼくにとっての初めての牛は ホアキンに捧げようと固く心に決めていました。 このスペインで彼程ぼくを助けてくれた人はいなかった。 親友のビクトルだって他の誰よりもぼくを助けてくれた。 でもホアキンがいなかったら、 ぼくは闘牛士免許を取得出来なかったし、 今日というデビューの日を迎えることも 決して出来なかっただろうから。 皆の見守る中、ホアキンに牛を献呈すると ぼくは「ファエナ」を開始しました。 ・・演技中2、3回は牛による 派手な「引っかけ」にもあいました。 地面に強く叩きつけられたり、 とんぼ返りまでさせられたり。 それでも当時のぼくが持っていた 能力の限界まで攻め続け、必死の演技を続けたのです・・ そして牛を仕留めるまでの間、 ほんの短い時間ながらも、闘牛場の観客たちと 一体になった充足感・幸福感を感じることが出来ました。 演技終了後、ぼくは「牛の耳」を獲得しました。 闘牛士が良い演技、観客の心を掴む感動的な闘牛を行うと、 勝利の証として「牛の耳」が闘牛士に贈られるのです。 二日間に渡り、合計10人の闘牛士によって行われた 今回の闘牛で、この「牛の耳」を与えられた者は ぼくを含めて4人だけでした。 今思えば・・その午後、 ぼくの演技自体は技術的・経験的にみて、 ひどいものであったことは否定出来ません。 しかし、もっと大切な・・ 観客の心を掴んだという点において、 きっとぼく以上の者はいなかった、と。 ぼくは贈られた「牛の耳」を握り締めて、 勝利の場内行進を行います。 雨が・・また降りはじめてくる。 観客たちの温かい声援と喝采の中、 雨に打たれながら砂場を行進するぼく。 闘牛場の楽隊は、ぼくを勝利者として称える パソ・ドブレ(闘牛用の二拍子の音楽)を演奏します。 あ、この「曲」は・・・ このスペイン闘牛界において、 闘牛収入だけで生計を立てられる 剣士(主役の闘牛士・マタドール)は、 スペイン全土でも数十人程度であるといわれます。 闘牛士は大勢いるけれど・・ 闘牛の試合数には限りがあります。 よって試合に出るのは 大変な競争とならざるを得ないのです。 だからほとんどの闘牛士はお金を払って 試合出場機会を購入することになるのです。 そうして試合に出て才能を発揮し、 いつの日か有力な 闘牛代理人(兼パトロンであることも)の 目に留まることを夢みながら・・ 見習闘牛士から始めて、 正闘牛士であるマタドール・デ・トロスに到達するまで、 少なくとも3500万円位の 経費がかかるといわれています。 しかも正闘牛士になって ある程度活躍出来るようになるまで、 ギャラなんてほとんど入らない。 それだけのお金を工面出来たとしても・・ 自力でか闘牛代理人の援助によってかはともかくも・・ 正闘牛士に到達後、数多くの試合出場に恵まれなければ、 生活すら成り立たないのがこの世界の現実なのです。 もちろん、いわゆるスーパースターと呼ばれる人たちは 大変なお金を稼ぎ出しますけど・・ そんなのはほんの一握りの者だけ。 正闘牛士になるのは、大変な犠牲と幸運、 そして闘牛への献身が求められます。 しかし、真の闘牛士・・つまりお金を稼げる 真のプロフェッショナルとなることは・・ 限りなく困難な事なのです。 大金を稼ぎだすスーパースターとなることは・・ ほとんど「奇跡」に近い事・・・ 「この闘牛界は俺達みたいに 気持ちだけで頑張っている者を肥やしにして、 ほんの僅かな連中だけが甘い汁を吸うんだよ。 だから・・スター闘牛士たちは異常に輝いているんだ。 まるで、あだ花のようにね・・」 これは元見習闘牛士である友人の言葉です。 1999年10月17日のデビュー後、 ぼくは右肩の負傷もあって 翌年2000年のシーズンを 棒に振らざるを得ませんでした。 続く2001年のシーズンはヨーロッパ全土を襲った 「狂牛病」がスペイン闘牛界にまで猛威をふるい、 ぼくが出るような小さな町での 見習闘牛の開催数がスペイン中で激減。 出場が予定されていたぼくの試合も そのすべてが開催中止となるのでした。 現在のぼくは・・闘牛代理人はいない。 お金はまったくない。 この状態で試合出場機会を得ることは、 スペイン人の若者であっても かなり厳しいものがあるのです。 このスペインで、 ぼくは農場の日雇労働者として働いては、 なんとか生計を立てているのですが、 闘牛活動資金を稼ぎ出すことは事実上の不能状態。 毎日の農作業と練習、そして試合出場チャンスを待つ・・ 来る日も来る年も。 闘牛ひとすじに生きてるつもりなのですが、 なかなかこれが報われないものなのです(笑)。 そして2002年・・デビューして3年、 その後1試合すら 出場機会を得ることが出来ないでいたぼくは・・ 完全に忘れ去られたぼくは起死回生を図って 「命懸けの売名行為」に挑戦するのでした。 「飛び入り」とは、闘牛の試合中に 観客席からムレタ(闘牛に使う赤い布)を持って 砂場に飛び降りて、強引に牛を奪って演技すること。 もちろん御法度な行為ですし、 それに大変危険な行為でもあるのです。 しかし、ものすごく低い可能性ではあるけれども、 有力な闘牛代理人の目に 留まることが出来るかもしれない・・ そのほんのわずかな可能性の為に文字通り全てを懸ける・・ ある意味でとんでもない行為なのです。 ひと昔前にはほとんど「流行」のごとく、盛んに この「飛び入り」が行われた時代もあったそうですが、 現代では年に1、2回あるかないかの希有な出来事。 ある意味においてこの「飛び入り」は、 ぼくのような環境に置かれた者にとって 当然の帰結であったのかもしれません。 日本人のぼくがそれをやってしまった・・ それも両膝を地面に着いたまま牛をパセするという、 思い切り派手なやり方で。 東洋人であるぼくの「飛び入り」事件はスペイン闘牛史上、 前代未聞の出来事となり、 スペイン中のマス・メデイアが 連日盛んにぼくのニュースを取り上げるのでした。 しかし、それも束の間の出来事・・肝心の 闘牛代理人候補と出会うことの出来なかったぼくは、 この大チャンスを失うことを、 指を咥えたまま見逃すほかなかったのです。 でも、チャンスはまた来ると思っています。 ぼくがそれを望み、 諦めずに常に前進を心掛けている限り、 きっとまた必ず。 今、ぼくは・・今年の夏(来月?)に ウエルバ県内の某町で行われる 闘牛フェステイバル試合へ出場することが 濃厚となっています。 ぼくの友人ビクトルが6年前の1997年・・ ぼくが初めてスペインに来た年なのだけれど・・ にデビューし大成功を収めたのがこの町の試合。 この試合、出される牛は1頭・闘牛士(主役の剣士)も 一人だけという異色のフェステイバル試合なのです。 その町の1年間の豊饒を祈願して・・ 毎年、伝統的な行事として行われている 闘牛フェステイバル。 試合の日、その町に到着した闘牛士は トラへ・コルトと呼ばれる 上着の短いアンダルシア風乗馬服を身にまとい、 2名の銛打ち士(助手)を引き連れ、 まず町の教会へと向かいビルへン(聖母)に 無事と試合の成功を祈ります。 その後、町の人たちと闘牛場まで歩いていくのですが、 後ろからは闘牛場の楽隊が華やかな音楽を奏でながら ついてくる・・最初から最後まで実に美しい1日。 ぼくはこの試合への出場を実に6年間待っていて・・ ついに今年その夢に手が届こうとしています。 山の中の小さな町、入場料無料のフェステイバル試合で 闘牛場の観客収容可能数はせいぜい800人程度・・ それでもぼくにとっては セビリアやマドリッドの格式高き大闘牛場に出場するのと 同じくらい・・ひょっとしたら心情的には もっと大事なのかも・・意味のあることなのです。 ぼくはそれを大いに楽しんでやりたいと思っています。 あの日、デビュー戦の時もぼくは大いに楽しんだものです。 演技終了後、贈られた「牛の耳」を握り締め、 場内を行進するぼくに闘牛場の楽隊が音楽を演奏する。 この曲は・・ 「Mi Huelva tiene una ria 我がウエルバには川がある」 だ・・ウエルバ産の パソ・ドブレで、ウエルバで最も人気があり、 また最も有名な曲でもある。 普段この曲はウエルバ出身の闘牛士を称える為に、 このウエルバの闘牛場で演奏されるものだ。 この曲がウエルバ出身の若者たちを差し置いて、 このぼくを称える為に演奏されたってこと・・ これはちょっと自慢したって 良いことなんじゃないだろうか? ・・・ 誰に頼まれた訳でも、期待された訳でもなく、 ただ思い込みだけで スペインへやって来て闘牛を始めてしまったぼく。 元々、ぼくが闘牛士になる 何の必然性がある訳でもないし・・ スペイン闘牛界は日本人闘牛士なんかいなくても、 ちゃんとやってゆけるのだ(笑)。 ぼくなりに・・様々な事を犠牲にして 闘牛士を目指しているのは、 ぼくが自分で勝手に好きでやっていることであって、 それ以外の何物でもない。 簡単に達成出来るものだったら、 きっとぼくはこんなにも夢中にならなかっただろうし、 負け惜しみでは決してなく・・ どうせなら嬉しいことも辛いことも、 全部ひっくるめて楽しみたいものですよね。 けれども・・ 「なかなか試合にも出れないし、ド貧乏なだけの 毎日だけれど好きな事やって生きてるから、 ぼくはとってもハッピーなのさ♪」 なんて言うつもりはこれっぽちもありません(笑)。 今、ぼくのがやっている事を 他の何物とも取り替えるつもりは もちろんないけれど・・現状に満足してはいませんし、 満足してもいけないと思っています。 それでは決して上に上がれないから。 あくまで「過渡期」なのだ、ぼくの置かれている現状は・・ それにしてはいささか長いのだけれども(笑)。 知り合いの正闘牛士の言葉なのですが、 「この世界、この闘牛界では現実に金を稼ぐことだけが 唯一の真実なんだ。それ以外の事は全部嘘っぱちなんだ。 たとえどんなきれい事を言ってみたところでね・・」 ぼく自身、この言葉に反発する部分もありましたが、 今ではこの言葉を正しいものと受けとめています。 決してお金の為に始めたことじゃないけれど・・ この世界で生きていく以上、どうしても お金を稼げるプロフェッショナルになりたい。 それでもいつの日か・・ ぼくが資金難その他の問題を解決し、 史上初の日本人正闘牛士・・・スペイン人であっても 到達困難であるマタドール・デ・トロスへとなる日が 来るのならば・・ひとりの、ごく普通の・・ 宿でシャワーのお湯すら 出せなかったこのぼくがですよ?(笑) ・・一個人の限りなき可能性のようなものを 考えてみた場合、それはそれでまた 充分素晴らしいことなのではないかと思っています。 (おわりです。ご愛読、ありがとうございました!) |
|
濃野平さんへの、激励や感想などは、
メールの表題に「濃野さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2003-06-11-WED
ホーム |