「八ヶ岳倶楽部」編 今回の先生/柳生真吾さん
名前その54 コアジサイ
『八ヶ岳倶楽部』の雑木林を散策する、
柳生真吾さんと吉本由美さん。
林の入り口でたくさんのみちくさに出会い
まだ数メートルしか進んでいないおふたりは、
ほんのすこしだけ急いで歩を進めることにしました。
雑木林の深くへ。
木々が一気にふたりを包み込みます。
吉本 はあー(深呼吸)、気持ちいいなぁー。
柳生 ねえ。
毎日のように歩いているんですけど、
それでもやっぱり気持ちがいいです。
吉本 みちくさを探してると
下ばっかりみちゃうけど、
上もみなきゃもったいないですね。
‥‥あれは? 鳥の巣箱?
柳生 ええ。
この前、巣立っていきました。
シジュウカラがいたんですよ。
吉本 へえーー。
柳生 あ、これ(歩をとめる)。
吉本さん、ここにもヤマアジサイが。
吉本 ほんとだ。
柳生 そしてこっちには、
またおもしろいアジサイがあるんですよ。
これなんですけど。
吉本 これもアジサイ。
柳生 ヤマアジサイの系統で、
たぶんご覧になったことのない
アジサイだと思います。
吉本 ええ、みたことがないです。
柳生 これはね、コアジサイっていいます。
吉本 コアジサイ。
柳生 花は終わっちゃってますけど。
吉本 散ったあとなんですね。
柳生 これはねぇ、たぶんこれからも
みることがないくらい
珍しいアジサイだと思います。
なぜならすごい暑がりで、
都会に持っていくと、夏に枯れちゃう。
吉本 繊細なんですね。
柳生 繊細ですね。
ここではこんなに元気ですけど。
吉本 ねえ、何株もありますよね。
柳生 はい。
ちなみにアジサイの花って、
花に見える部分はただの飾りっていうこと
知ってました?
吉本 それ、聞いたことがあるような‥‥。
柳生 花に見える部分は、飾りなんですよ。
アジサイはあまりにも自分の花が地味なので
考えたわけです、飾りをつけようと。
吉本 虫を呼び込むために?
柳生 そうそう、
虫に来てもらうために飾りをつけたんです。
吉本 アクセサリーなわけだ。
柳生 ところが、コアジサイはその飾りも脱ぎ捨てた。
虫を呼ぶために、別のことを考えたんですよ。
どういう方法を選んだと思います?
吉本 なんだろう‥‥。
揺れる? 揺れて誘う?
柳生 残念、ちがいます。
でも吉本さんの答えはおもしろいなぁ、
揺れて「ここよ」って誘う(笑)。
吉本 そんなわけないですよね(笑)。
柳生 さあ、答えはなんでしょう。
吉本 なんだろうなぁ‥‥
そうなると、やっぱり‥‥匂い?
柳生 正解が出ました。
匂いで呼ぶんです。
吉本 へええー。
ちょっと匂ってみよう。
柳生 どうです?
吉本 あ、うん、匂います。
柳生 ね?
ちょっと甘くて、スパイシーな。
吉本 これ、私の好きな匂いかもしれない。
おもしろいなぁ、コアジサイ。
アクセサリーじゃなく、香りで呼び込むんですね。
柳生 そう。
裸で香水をつけて勝負(笑)。
吉本 裸で勝負(笑)。
あー、満開のときにみたかったなぁー。
柳生 でもほら、みてください。
花が散ったあともきれいなんですよ。
吉本 わ、ほんとだ、よくみると。
柳生 紫なんです、透き通るような。
うすーいレンゲ色。
吉本 あぁー、美しいー。
珊瑚みたい。
柳生 そうですね、珊瑚みたい。
コアジサイ。
ふつうに出会えるみちくさではなさそうですが、
こういうアジサイもあるということを
知っているのって、いいですよね。

おふたりはまた、雑木林を進みます。

次の「みちくさ」は、木曜日に。
「八ヶ岳倶楽部でみちくさ」編は、
火・木・土の更新でお届けいたします。
 
吉本由美さんの「コアジサイ」
 

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感のうち
満足できる感覚は何だろう、と考えると、
私の場合、
目が悪いのでまず視覚が消え、
料理がヘタなので味覚も落ちる。
さらにマージャンの盲パイというものもできないので
触覚も鈍いのではないか。
で、残るは聴覚・嗅覚だけど、
この2つにはちょっと自信がある。

ある日キッチンの流し台の下の奥から
ピチ、ピチ という音が聞こえた。
庭の向こうで蚊の鳴く程度の音だった。
それで水道工事の業者さんに来宅願った。
初め業者さんは耳をそばだて
「何にも聞こえませんけどねえ」といぶかり顔。
しかし流し下の棚の奥の壁に聴診器をあてたのち、
「ああー、うんうん、ほんとだ、ピチョピチョ聞こえる!」
と叫んだ。
築30数年の古い建物の内部に走る水道管の一部腐食が
水漏れを生んでいたのだ。
配管取り替えの工事になったが、
「こんな音がよく聞こえたなあ、
 奥さん、耳いいですねえ−」と業者さんしきりに褒めた。
(ちなみに娘さん以外の女性すべてを
 このテの人は“奥さん”と呼ぶ)。
水道漏れの修復工事に携わるとき、
いちばん大切なのが音を聞き分けること、なのだそうだ。
何度も「いい耳だ」と言ってくれた。
だから聴覚に自信がついた。
つき過ぎて空耳、
つまり聞こえた気がする失敗もしょっちゅうだけれど、
背後に迫る車や自転車や人から身を守ることにおいては、
目の悪い私は、
座頭市ほどではないにしても、
耳の頑張りでずいぶん助けられていると思う。

では嗅覚はというと、
嗅覚は意識して使えば使うほど
研ぎ澄まされていくそうなので、
何でもかんでもクンクンと匂いを嗅いで
日々鍛錬を貫いているけれど、
日常雑事のなかに鼻の頑張りで助かることは、
耳ほどにはない。
取りあえず食べ物の賞味期限の判断くらいだろうか。
しかし癒しや好みの面から言えば嗅覚侮りがたし。
好きな匂いを嗅いだときの至福の思いは
ちょっと他に代わるものはない。

どこからともなく
キンモクセイやクチナシやゼラニュームやアカシアなどの
花の匂いが漂ってくる夜は、
部屋でじっとはしていられずに、
匂いを頼りに探し歩く。
いろんなところでクンクンするので怪しまれないよう、
いかにも近所の者らしい恰好でいるのが
匂い探し散歩の秘訣だ。
夏場はウチワなど持っているとよろし。
匂いの発生地であるお宅を見つけたら、
その庭の前にひっそりと立ち、
鼻から胸にかけて深々と香しい外気をゆっくり吸い込む。
これだけで充分アロマテラピーになってるぞ、と、
アロマテラピー教室の授業料が払えず我慢の自分に
言い聞かせながら。

(ちなみにその吸い込み方)
まず吸い込む前に、
肺のなかの空気をゆっくり口からぜんぶ吐き出そう。
つぎに軽く鼻から吸って、
ゆっくりと口からぜんぶ吐き続ける。
今度は鼻から目を通し頭の奥へ向かって
ゆっくりと吸い込んでいき、
ゆっくりとぜんぶ吐く。
さらに鼻から胸の奥、背中、腰のまわりまで行きわたるよう
横隔膜をたっぷり広げゆっくりゆっくり吸い込んでいく。
そしてゆっくりとぜんぶ吐く。
この繰り返しを5分ほど。

しだいに生まれてくる陶酔感。
気がついたら
深呼吸と匂いの粒子が心を解きほぐしている。
お風呂から上がったときのようになっている。
アロマテラピーとはこのことよ!
ありがたいものをいただきました、と
心の中で礼を述べて静かに立ち去る。

コアジサイの柔らかく甘い匂いは
そういうなかの一夜に出会った何かの匂いを思い出させる。
何だったかな。
タイサンボク?
スイカズラかな?
鍛錬を積み重ねた鼻を心地良く刺激する。
チキショ、思い出したい。
それにしても花の咲き終わりにこれだけいい匂い。
ということは、
満開時にはどんなだったか・・・わくわくしてきた。
植物図鑑でコアジサイの満開時の写真を見たら、
ぷちぷちした白い可憐な両性花がびっしり集まり
花火のように咲いていた。
これは、もう、
来年6月、
八ヶ岳に行くしかないかな。

 
2010-09-07-TUE
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(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN