びっくり箱の仕掛けかた
ランマという場所に舞台が移り、
キャラクターは長老にうながされて山頂で修行する。
短いイベントだったが、僕はびっくりしてしまった。
なんだ、これは? という気分になった。
怖かったし、混乱したし、迷ったし、
底知れない深さのようなものを垣間見た。
そして、びっくりしているあいだに、
そのイベントは、しゅっ、と終わってしまった。
しゅっ、と終わってしまったから、しばし呆然とした。
そのイベントで、プレイヤーは選択を突きつけられる。
あいかわらず選べる選択肢はたったふたつである。
つまり、「はい」と「いいえ」のどちらかしかない。
日本のロールプレイングゲームが持つ伝統的な様式だ。
このゲームはそこからいたずらにはみ出したりしない。
けれど、『MOTHER2』では
その「はい」と「いいえ」に込められる意味が
他のゲームとは完全に一線を画する。
『MOTHER2』のそれは圧倒的に異質である。
山頂でのイベントはそれを痛感するようなものだった。
「はい」と「いいえ」だけで
ここまでのことができるのかと僕は感じ入った。
と同時に、そこまでのことをしながらも、
イベント自体はあくまで飄々としていることにうなった。
だからこそ、そのイベントが強く心に残る。
なんとも『MOTHER2』らしい話だと思う。
極端を承知でいえば、
その「はい」と「いいえ」は哲学や宇宙を含む。
そしてそれを作り手が大マジでやれば
きっとプレイヤーは鼻白んでしまうのだけれど、
このゲームはプレイヤーの隙をつく。
「ちょっとしたお遊びですよ」という笑顔を残す。
腕のいいシェフが「こんなものも作ってみたんですよ」と
言いながら小皿に盛る風変わりなデザートのように、
受け手に一瞬の驚きをもたらしておいてさっさと去る。
それはこのイベントに限らないことで、
だからこそ『MOTHER2』のイベントは
独特のしみこみかたをする。
いつの間にか始まって、びっくりさせて、
しゅっ、と終わってしまう。
お説教もしないし、笑わせようと力むこともないし、
泣けと強制しないし、媚びない。
重要なのは、仕掛けそのものよりも、そういった、
状況への配慮ではないかと僕は思う。
『MOTHER2』の思い出を語るとき、
人はしばしばそこにあったびっくり箱の話をする。
あれはすごかったね、という話をする。
たしかに、そのびっくり箱の仕組みは見事だ。
けれど、ほんとうに重要なのは、
そのびっくり箱がどこに置かれていて、
人がそのびっくり箱をどんなふうに
開けるのかということなのだ。
優秀な人が集まって、
びっくり箱の仕掛けについて延々と考えていけば、
きっとそれは思いつくことができる。
けれど、それが開かれるときのことについて
しつこくしつこく考えていく人は少ない。
僕はいま糸井重里という人のそばにいるので
そこでの経験をこの日記に反映させるのは
基本的に反則であると思っているのだけれど、
それを承知であえて書かせてもらうと、
『MOTHER2』をつくった糸井重里という人は、
びっくり箱の仕掛けを思いついたと同時に、
それが開かれるときのことを考えている。
むしろ、そっちの丁寧さと慎重さが希有である。
『MOTHER1+2』の発売を控えて
開発者・糸井重里に長いインタビューをしたとき、
僕は「仕掛けをふんだんに入れ込んで、
なぜゲームが破綻しないのか」と訊いたことがある。
彼はそこで「注意深くやるからだ」と答えた。
即答された正論にひどく驚いた。
でも、やっぱり答えはそれしかないのだと思う。
注意深くやるのだ。しつこく、慎重に、
びっくり箱が開けられるときのことを考えるのだ。
ちょうどいい言葉を思いついた。
そういうふうに注意深く考えられているから、
『MOTHER2』に仕掛けられたものは
びっくりするようなものではあるけれども、
「野暮じゃない」のだ。「粋」なのだ。
それが開発者が落語好きであることと関係するかどうかは
僕の知ったことではない。