作家・エッセイストの阿川佐和子さんを
「ほぼ日の學校」にお迎えして、
糸井重里と対談していただきました。
聞き上手、話し上手な阿川さんですから、
ボールがあちこち弾むように、
自由気ままなおしゃべりがつづきます。
どんなときも「おもしろがる力」で
人生をめいっぱいたのしんできた阿川さん。
たくさんの経験から学んできたことを、
思い出話といっしょに語ってくださいました。

>阿川佐和子さんのプロフィール

阿川佐和子(あがわ・さわこ)

作家、エッセイスト、小説家、女優(かもね)。

1953年東京生まれ。
慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。
報道番組のキャスターを務めた後に渡米。
帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。
1999年『ああ言えばこう食う』(檀ふみとの共著)で
講談社エッセイ賞。
2000年『ウメ子』で坪田譲治文学賞、
2008年『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。
2012年『聞く力――心をひらく35のヒント』が
年間ベストセラー第1位でミリオンセラーとなった。
2014年第六十二回菊池寛賞を受賞。

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05 しょうがねえじゃねえか。

阿川
またまた話は変わるんですけど。
糸井
はい。
阿川
わたしが大学生だったとき、
ろくに勉強してなかったんですけど、
ひとつ言語学の先生の話で
よく覚えていることがあるんです。
それは日本語というのは
「じぶん」というものが基本的になくて、
「二人称によって一人称が決まる」と。
糸井
ほう。
阿川
例えば、わたしと話すとき、
糸井さんは「ぼく」とおっしゃいますけど、
100歳ぐらいの尊敬している方の前だと
「わたくし」ってなるかもしれない。
急に子どもに道を聞かれたら、
「おじさんが駅まで連れてってあげよう」
となるかもしれない。
つまり、二人称が誰かによって、
じぶんの一人称を決めるような傾向がある。
糸井
うん。
阿川
それ聞いて思ったのは、
常に人は「対二人称」を演じるわけだから、
ほんとうはじぶんがどうかなんて、
そんなに強く持っていなくてもいいんだなと。
糸井
でも、阿川さんはそれ苦手でしょう?
阿川
こんなに人に添うて
生きてるじゃないですか(笑)。
糸井
でも事実としては、
そういう役割をする時間って、
ほんとうはとてもすくないんじゃない?
阿川
‥‥えぇ、そう?
糸井
ぼくもそうですよ。
阿川
そうですか?
糸井
うん。
阿川
そういわれると‥‥まあ、そうかも。
糸井
ほとんどなくて
済んでるんじゃないですか。
阿川
こんなに尽くしてるのに、二人称に(笑)。

糸井
もちろんお仕事で、カメラがあって、
「その役です」というのは別ですよ。
阿川
そういわれたら
組織に勤めたこともないですから、
そういうストレスはないのかも。
糸井
だから、その言語学者の先生が、
「日本の社会はそういう特徴があります」
というところにも「はぐれ者」はいるんですよ。
落語の中の人たちがそうですよね。
「どうもうまくいかねえんだよなあ」って。
阿川
あぁ、なるほど。
糸井
「するってえと、あっしが」ってね。
どこにでも「あっし」がいるんですよ。
阿川
だから落語が好きなのかな、わたし。
糸井
落語は素晴らしいですよ。
阿川
あの「金魚」っていう
立川談春さんが書いたエッセイ。
糸井
『赤めだか』のこと?
阿川
金魚じゃないか(笑)。
糸井
はははは。

阿川
こうやっていい加減に生きてるんです(笑)。
糸井
いやいや、いま素晴らしいと思いました。
阿川
ええと、『赤めだか』ですね。
その談春さんのエッセイの中で、
師匠の立川談志さんが「赤穂四十七士」について、
こんなふうに語るシーンがあるんです。
「あれは赤穂の殿様のために、
命を捨ててがんばろうと思った
47人の立派な武士の話だ。
だけど正直いって、
そいつはちょっと勘弁してほしいつって
逃げたやつらが山のようにいる。
英雄になれなくて落ちぶれたのがいっぱいいた。
落語っていうのはそういうやつらの話なんだ」って。
わたし、それを読みながら、
「おぉー、なるほどぉ」って思ったんです。
糸井
談志さんはずっと、
「落語というのは業(ごう)の肯定だ」
といういい方をしてますよね。
つまり「業」っていうのは、
「やむにやまれぬけれどやってしまう」
という仏教用語です。
人にはそういう「業」があって、
それは「しょうがねえじゃねえか」ってのが、
立川談志の落語論の大もとにあります。
いまの四十七士の話も同じで、
「しょうがねえじゃねえか」っていうのと、
「いやあ、立派なもんだねえ」
ということばが交じってますよね。
「俺もそっちに行きてえんだけれども」
「いや、おまえさんはそんな人間じゃないよ」
「まあ、それはそうだけどなぁ」みたいな。
このクルクル入れ替わるあたりで
人って生きてるよねっていう、
そういう世界を描いている気がしますよね。
憧れもあるし、できねえものはできねえし。
そこを行ったり来たりしてるところに、
ぼくの生きてる本筋があるっていうか(笑)。
阿川
はぁぁ。
糸井
じぶんのことじゃなければ
そうしたいよっていうのもあるし、
じぶんのことのように考えてるけど
全然じぶんのことじゃないこともあるし。
そういうのがグシャグシャになって
みんなで生きてるっていうのが、
ぼくの一種の人間理解なんですよね。
阿川
辻褄が合わないこともありますよね。
人間なんだから。

糸井
ワイドショーとかって、
みんなで本音をいい合ってるかのようだけど、
ある種の嘘をみんなでいいあってますよね。
阿川
うん、あれはね。
糸井
ワイドショーを見てる人も
番組に出てる人といっしょになって、
「そうそう」って怒ったりしてますけど。
「あんなことしやがって。旦那もいたのに」とか。
阿川
ほんとそう。
糸井
『北の国から』ってドラマがありますけど、
あれは恋愛という嵐が、
ひとつの村をダメにしていく話ですよね。
恋さえしなければ、
あそこは平和だったはずで。
阿川
そういう解釈?
糸井
恋愛があの悲劇をつくってますよ。
田中邦衛さん演じる
五郎が北海道に行ったのも、
五郎の妻の不倫が原因なんですから。
それを螢が見てしまって‥‥。
そこからはじまる物語ですから。
阿川
螢もそうだし、純もそうか‥‥。
糸井
だから、ろくでもない恋愛の嵐に
どんどん巻き込まれていく人たちに対して、
「しょうがねえじゃねえか」
っていうドラマだと思うんです。あれは。
阿川
まあ、いわれてみれば。
糸井
あれで「螢かわいそう」とか、
「螢ちゃん、そんなことしちゃダメ」とか。
そうやってあのドラマを見てる人は、
ワイドショー見てるじぶんとはちがいますよね。
人を裁いてないと思う。
阿川
物語のなかの人物には、
「しょうがねえじゃねえか」って
同情して涙まで流すというのに、
現実にした人がいたら、もう叩く叩く‥‥。
糸井
叩く叩く。
阿川
それで若い頃に散々叩かれた人が、
100歳近くになると、
今度は神様のように尊敬されて(笑)。
糸井
うん(笑)。

阿川
この矛盾をどう納得すれば
いいのだろうといつも思います。
糸井
それはもう、その人も落語の登場人物だと
思うしかないんじゃないかな。
阿川
人生経験豊かになると尊敬されて、
現在進行形についてはすごく叩かれる。
糸井
なんなんでしょうね。
阿川
なんなんでしょうね。

(つづきます)

写真:鈴木拓也

2022-01-30-SUN

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