日比野克彦さんと糸井重里は10歳違い。
ふたりは1980年代に出会いました。
現代美術家、コピーライターとして、
互いにさまざまなメディアで活躍しましたが、
その後の足取りをいま開封してみると、
呼応しているような動きがあることがわかりました。
バブル経済崩壊、震災、コロナウイルスなど、
さまざまなことがあった40年の時間は、
ふたりの目にどう写っていたのでしょうか。
この対話は2021年10月、姫路市立美術館で開催された
日比野克彦展「明後日のアート」のトークイベントで収録しました。
司会:平林恵
(横尾忠則現代美術館学芸課副課長/
2007-08年、
「日比野克彦アートプロジェクト『ホーム→
主催:姫路市立美術館
日比野克彦(ひびの かつひこ)
1958年岐阜市生まれ。1984年東京藝術大学大学院修了。1982年日本グラフィック展大賞受賞。平成27 年度芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)。地域性を生かしたアート活動を展開。「明後日新聞社 文化事業部/明後日朝顔」(2003~現在)「アジア代表」(2006年~現在)「瀬戸内海底探査船美術館」 (2010年~現在)「種は船航海プロジェクト」(2012年~現在)等。2014年より異なる背景を持った人たちの交流をはかるアートプログラム「TURN」を監修。現在、東京藝術大学美術学部長、先端芸術表現科教授。岐阜県美術館長、熊本市現代美術館長、日本サッカー協会理事。
- 平林
- 本日司会をつとめます、平林です。
よろしくお願いいたします。
糸井さんと日比野さん、
おふたりのつながりとして挙げたいのが、まず、
1983年、雑誌「小学1年生」の
糸井さんの詩と日比野さんの絵で構成された連載です。
これは『おめでとうのいちねんせい』という本にも
なったものです。
1983年といえば、日比野さんが
アート界に華々しくデビューした年でしたが‥‥。
- 日比野
- これは糸井さんからお誘いいただいて
はじめた連載だったんだけど、
どうして「ぼく」だったのか、
そのきっかけを教えていただけますでしょうか?
- 糸井
- えっ。
日比野くんに絵を描いてもらおうと
思った理由、ですか?
‥‥そうだなぁ、やっぱりね、
日比野くんは新鮮さが「とびきり」だったんですよ。
デビューしたのはまだ学生のときでしたよね?
ぼくはたしか30を過ぎてた。 - 当時のぼくは、
日比野くんのもっていたフレッシュさに、
ものすごく憧れたんです。
自分よりも年下の人に憧れるってこと、
ぼくはいまでもあんがい多くて、
そんな人に声をかけるときにはいつも
プロポーズするみたいな気持ちになるの(笑)。
日比野くんを見ていて「いいな」と思ったのは、
いまもつづくその気持ちの、
ごく初期の現象だったと思います。
- 日比野
- 糸井さんがこういう
「小学1年生むけ」の詩を書こうと思った
きっかけが、たしか、ありましたよね。
- 糸井
- はい、はい、
日比野くんには話したと思うんだけど──、
ぼくにはひとり、娘がいます。
当時、その子が5~6歳になって、
「もうすぐ学校に行くんだ」
なんてことになりました。 - 小学生になるということは、
家族にはとってなかなか大変なイベントです。
けれどもなんだか型どおりの祝い方しかできず、
「ランドセル」に象徴されることで終わってしまう、
さみしさがありました。 - ぼくとしては
「もうちょっとできないかな?」と思ってた。
「自分自身もあとで読みたくなるような
言葉を書いておきたいな」
そう思っていると「小学1年生」の編集部から
依頼があったのです。
「まだ1年生じゃないけどね」なんて言いながら、
詩を書きはじめたのがきっかけです。
- 日比野
- 糸井さんにさきほど
「フレッシュ」と言っていただきましたが、
1983年というと、
さきほども平林さんがおっしゃったように、
ぼくがメディアでいろんな作品を
発表しはじめた頃なんです。
- 平林
- 日比野さんは1982年に
日本グラフィック展大賞を獲り、
それからお仕事がどんどん増えていって、
「小学1年生」の連載があった1983年に
日本イラストレーショングランプリを獲って
メディアへの露出が増加しました。 - 糸井さんは、もうすでに
たいへんなご活躍をなさっていて、
その頃のお仕事といえば、例えば、
私が個人的に印象に残っている
湯村輝彦さんとの『情熱のペンギンごはん』です。 - 1980年代、日本は「ヘタウマ」という
独特の価値観が生まれていましたが、
そのど真ん中に、
糸井さんと湯村さんがいらっしゃって。
- 日比野
- 『情熱のペンギンごはん』は
1976年から連載してたんですね。
もうほんとうに、ぼくら学生からは
ピカピカ光って見えてましたよ。
糸井さんと湯村さんとの出会いはこの
もっと前ですか。
- 糸井
- 前です。
ぼくは湯村さんに、ほんとうに
何者でもない頃に会ってるんですよ。
たぶん1974年ぐらいかなぁ。
勤めていた広告会社がなくなっちゃって、
そこで受けてたジーパン屋さんの
広告の仕事をぼくが引き継いだんです。
その絵を湯村さんにお願いした関係で、
毎月1回は会ってました。 - 『情熱のペンギンごはん』を
連載することになった漫画雑誌「ガロ」は、
当時、南伸坊が編集をしていました。 - 「漫画やんない?」と声かけられて、
ふたりとも「やりたい」って返事しました。
伸坊は「好きにやってください」なんて
言うわけです。
ぼくが日比野くんを新鮮だと思ったのと同じように、
漫画の世界からは、ぼくらがやってることが
新鮮に見えたんでしょうね。
- 日比野
- ええ、そうでしょうね。
- 糸井
- 「なかったものを作る人」に見えていた人が、
また別の「なかったものを作る人」を見つける。
そんな人びとがまじりあっていた時代です。
演劇のアングラもそうだし、
写真の世界でいうと荒木経惟さんがいたし、
ロマンポルノからたくさん映画監督が出たりもしてさ。
メインジャンルじゃない場所から
新鮮なものが出てくるという、
メディアがものすごくかきまわされた時代でしたね。
- 日比野
- ニューヨークなんかでも、
キース・へリングやバスキアなど、
メインじゃない、
街の中の「ストリート」から
アートが出てくる空気感がありました。
日本も、東京の公園通りあたりから
いろんなものが出現しました。
昔「ビックリハウス」もあそこにありましたもんね。
- 糸井
- 「ビックリハウス」という雑誌は、
パルコがスポンサーをしていたこともあり、
それほど必死になって
売れ行きを考えなくてもよかったんですよ。
作品やアイデアって、なんといっても
「メディア」がないと実現できないんです。
大昔だったらパトロンがいたわけですが、
1980年代は、それが
「雑誌」と「お店」と「コマーシャル」でした。
- 日比野
- うん。あとは「流通」もそうですよね。
- 糸井
- そうですね。「テレビ」もその舞台のひとつでした。
「ダメもとでやったほうがいいよ」といって
はじめたことが全員の利益になる、
組み合わせの循環がはじまったのがこの時期で。
- 日比野
- NHKで糸井さんが司会した
『YOU』は、何年でした?
- 平林
- 1982年開始です。
1980年に糸井さんは沢田研二さんの歌う
「TOKIO」を作詞し、話題になりました。
1982年には西武のコピー
「不思議、大好き。」を書かれて。
- 日比野
- ほとんど重なっているわけね。
- 糸井
- あの時期はね、ほんとうに
いろんな場所があったんですよ。 - ものを作るとか書くとか、表現するということは、
さっきも言ったように、
場所がないとできないわけです。
表現は見せる場所とくっついているのです。
しかし、それには変遷があります。 - いま、テレビ番組や雑誌で、
なくなってしまったものがいくつかあります。
そのうちにどの媒体も、マーケティングして
「当たるに決まってるもの」を
「経費安く」やりたがるようになった。
そうすると、どうしても
「そういう表現」になっていってしまう。
じつは、表現者の表現以上に、
絶えずメディアのほうが変化してきたんだな、
ということを、いま、あらためて思います。
(明日につづきます)
2022-01-11-TUE