3年前。
座布団が一枚だけ敷かれた
撮影スタジオの真っ白い空間で、
落語家の柳家権太楼さんが、
現代では、
なかなか演じられることのない
「心眼」という噺を、やった。
お客さんは、ひとりもなし。
その一部始終を、
写真家の大森克己さんが撮った。
2年半後、
それは一冊の写真集に結実した。
どうしてそんな、
めずらしい出来事が起きたのか。
お二人に話していただきました。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>柳家権太楼さんのプロフィール

柳家権太楼(やなぎやごんたろう)

本名、梅原健治(うめはらけんじ)。昭和22年(1947年)1月24日、東京都出身。紋、くくり猿。出囃子、金毘羅(こんぴら)。昭和45年4月、明治学院大学法学部卒業。故柳家つばめ入門、前座名ほたる。昭和49年9月、師匠他界のため柳家小さん門下となる。昭和50年11月、二ッ目昇進、柳家さん光と改名。昭和53年11月、NHK新人落語コンクール優秀賞受賞。昭和55年1月、54年度日本演芸大賞ホープ賞受賞。昭和57年9月、真打昇進、三代目柳家権太楼襲名。昭和62年2月61年度若手演芸大賞、大賞受賞。平成6年12月、社団法人落語協会功労賞受賞。平成13年11月、社団法人落語協会理事就任。平成14年3月、浅草演芸大賞・奨励賞受賞。平成18年3月、社団法人落語協会常任理事就任。平成24年3月、23年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。平成25年3月、24年度板橋区区民文化栄誉賞受賞。平成25年6月、社団法人落語協会監事就任。平成25年11月、紫綬褒章受章。令和2年8月、社団法人落語協会監事を退任し相談役に就任。著作に『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫)、『権太楼の大落語論』(彩流社)、『落語家魂!-爆笑派・柳家権太楼の了見』(中央公論新社)『心眼 柳家権太楼』(平凡社)がある。

>大森克己さんのプロフィール

大森克己(おおもりかつみ)

写真家。1994年『GOOD TRIPS,BAD TRIPS』で第3回写真新世紀優秀賞(ロバート・フランク、飯沢耕太郎選)を受賞。近年の主な個展「sounds and things」(MEM 2014)「when the memory leaves you」(MEM 2015)「山の音」(テラススクエア 2018)など。主な参加グループ展に東京都写真美術館「路上から世界を変えていく」(東京都写真美術館 2013)「GARDENS OF THE WORLD 」(Museum Rietberg, Zurich 2016)などがある。主な作品集に『サナヨラ』(愛育社 2006)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー 2011)『心眼 柳家権太楼』(平凡社 2020)など。YUKI『まばたき』、サニーデイ・サービス『the CITY』などのジャケット写真や「BRUTUS」「MUSICA」「花椿」などのエディトリアルでも多くの撮影を行っている。またweb dancyu の連載「山の音」など、エッセイの仕事も多数。

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第1回 寄席という「宝庫」。

──
今ではなかなか聞くことのできない
「心眼」という噺を、
権太楼師匠が高座でやってらしたと。
大森
ええ。
──
それを偶然、大森さんが聞かれて。
大森
はい。
──
そのことが「発端」だったんですね。
今回のプロジェクトの。
大森
そうなんです。
──
今日は、そのあたりの経緯について、
撮った大森さんと、
撮られた権太楼師匠に、
いろいろおうかがいしたいのですが。
権太楼
ええ、何でもどうぞ。
──
まずは、そもそもの話なんですけど、
大森さんは、
昔から落語がお好きだったんですか。
大森
ぼくが、今ほど頻繁に
東京の寄席に通うようになったのは、
2012年の初席がきっかけです。
──
そこまでハッキリ覚えてるんですか。
大森
落語好きの友人に、連れて行かれて。
池袋演芸場だったんですが。
それまでは、ぼく、もちろん
落語を聞く機会はありましたけど、
そこまでのめりこんでなくて。
──
ええ、ええ。
大森
正月初席というのは、
ひとりひとりの持ち時間が短いぶん、
噺家さんが、
たくさん出てきてくれるんですよ。
そのきらびやかさというかなあ、
楽しさに圧倒されてしまって。
「寄席」という、
こんなにもおもしろいものの宝庫が、
自分のすぐ身近にあったんだ‥‥と。

──
おお。
大森
そのときは師匠、ご病気された後で。
寄席には、
もう、復帰なさっていましたよね?
権太楼
いつ?
大森
2012年、震災の翌年です。
権太楼
寄席には出てたと思いますよ。
ただ、患ってるさなかというかなあ、
癌で闘病生活でね。
アレをやってたころだ、抗癌剤治療。
病院と寄席を行ったり来たりの時期。
──
ああ、そうでしたか。
大森
とにかく、そのころに、
寄席ってすごいなと感動したんです。
それからもうすぐに、
ひとりで通うようになったんですが。
──
ハマってしまわれた、と。
大森
最初は誰が目当てってわけでもなく、
落語の魅力にシビれたんですね。
その後、
二人会や三人会みたいな落語会にも、
顔を出すようになりました。
ただやっぱり、寄席の空間が好きで。
なんとも言えない‥‥。
権太楼
寄席のさ、あの雰囲気っていうの?
独特のよさって、あるよね。
大森
何ですかね、
あの、幸せなお腹いっぱい感。
色物さんも含めて、おいしいものが
ずらずらっとならんでいて‥‥
幕の内弁当というより、
むしろコース料理っていうのかなあ。
権太楼
そう、そう思う。コース料理だよね。
新宿の末廣亭って、
家と通ってた高校の中間にあって、
高校生のとき、
コッペパンと牛乳なんか持ってさ、
昼席くらいから、入れ替えなしで。
──
ええ。通ってらした。
権太楼
当時は文楽めあてに行ってたのね。
大森
桂文楽師匠。
権太楼
文楽の前には、文治さんも出てた。
俺の前の席に若いカップルがいて、
あるときにね。文治さん見ながら
「かわいそうよねえ」
「なんで?」
「あんな年寄りになってまで、
はたらかされてさ」
なんてことを、言ってるんだよね。
──
へええ。
権太楼
いやいやそうじゃない、
これこそが味なんじゃないかとか、
心の中では思いながらも、
舞台の上では、
わけのわからない樽を
ぐるぐる回すオジサンがいたりね。
──
色物さん。
権太楼
東富士夫って人なんだけど、
今の、漫才だとか太神楽なんかの
色物さんとはまたちがう、
ただ単に、黙って樽を回してね、
途中で帽子をサッとかぶる、
ジャグリングの原始的な芸とかさ。
そういうのが、
ものすごくおもしろかったんです。
大森
高校生の権太楼師匠には。
権太楼
だから、俺も寄席が好きなんだよ。
60とか70を越した年寄りがさ、
くっだらねえ噺して、
バカなんじゃねえかなんて思うよ。
──
当時、寄席には、おひとりで?
権太楼
ずっとひとり。
寄席というのは博打とおんなじで、
つるんで行っちゃあいけない。

──
そんなものですか。
権太楼
博打ったって
海外のカジノみたいなとこだけど、
つまり、どっちも、
自分のペースで楽しむもんでしょ。
他のまわりの人とおんなじ思いで
「ああ、おもしろいね」
ってことだって当然あるけど、
「俺はコイツ好きだなあ」
ってさ、必ずあると思うんだよね。
大森
ありますね、はい。人によって。
権太楼
どっちかっていうと、
俺はこっちのほうが好きだよなあ、
っていうふうなね、
それはもう、その人の感性だから。
──
そうやって、自分自身で楽しむ場。
大森
思いもよらない落語に出会ったり、
それも寄席の良さですよね。
権太楼
そう。
大森
聞いたときはピンとこなくても、
あとから
妙に感じ入っちゃう噺とか、
知らない若い人でも、
なんかスゲぇなあと思ってたら、
数年後には、
すっかり人気者になったりとか。
権太楼
うん、うん。
大森
しかも、その「数年」って、
3年とか4年の速度なんですよね。
自分の趣味嗜好とか思惑とかを
スッと超えるような、
そういう何かに、
寄席という場では出会えるんです。
──
まさしく「宝庫」ですね。
大森
ほんと、そうなんです。
そのことに、
だんだん、気づいていったんです。
2012年の初席をきっかけに。

(つづきます)

2020-11-24-TUE

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