オタク研究者シリーズ第5弾!
ゲストは物理学者の石原安野さんです。
石原さんは2012年、
南極点にある観測施設で、
宇宙の謎にせまる大発見をしました。
早野フェローが聞き手となり、
そのときのこと、これからのこと、
いろいろな話をうかがってきました。
勉強パートと対談パートをあわせた
特別2部構成にておとどけします。
宇宙の話って、やっぱりおもしろい!

>石原安野さんのプロフィール

石原安野 プロフィール画像

石原安野(いしはら・あや)

物理学者
千葉大学・大学院理学研究院・
グローバルプロミネント研究基幹 教授

1974年生まれ。
1998年、東京理科大学卒業、
2004年、テキサス大学大学院博士課程修了。
2005年より南極点の国際共同ニュートリノ観測施設
「アイスキューブ(IceCube)」に中心メンバーとして参加。
2012年、世界で初めて
「高エネルギー宇宙ニュートリノ事象」
を同定することに成功。
翌年に宇宙線・粒子天文物理学分野では
日本人初の国際純粋・応用物理学連合の若手賞受賞。
2017年、猿橋賞を受賞。
2019年、共同研究者の吉田滋教授と共に、
仁科記念賞を受賞。

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もっと物理を知りたかった。 石原安野さんとの対談(4)

早野
石原さんは、子どものときから
物理に興味があったんですか?
石原
子どものころは、
すごく本を読んでいた記憶があります。
なので、どちらかと言うと、
自分は文系だと思っていたくらいで。
ただ、好きで読んでいた本の中には
「ブルーバックス」のような
物理の啓蒙書も含まれていたので、
そういうのから物理の世界に
興味をもっていったように思います。
早野
高校のときは? 
理系や文系がなかったとか?
石原
そういうのがなかったんです。
私が中高で通っていたのが、
埼玉にある「自由の森学園」という、
すごく自由な学校でした。
そこは校則もなくて、定期試験もない。
理系や文系もわけない。
それで興味のままに物理の授業を受けたら、
すごくおもしろかったんです。
早野
あー、なるほどね。
石原
それで高校生のときに
アメリカに留学したときがあったんですが、
向こうで受けた物理の授業も
やっぱりおもしろかった。
英語で理解できたのもうれしかったし、
やっぱり物理とか数学って、
本当に国境を問わないというか、
あらゆる人種に公平な学問だなって、
そのときすごく感じましたね。

早野
それで、進路を物理に?
石原
そうですね。
いまいちばんやりたいのが物理だから、
物理の大学に行きたいって。
それで東京理科大学の二部、
物理学科に入りました。
早野
二部なんですよね。
石原
はい。
早野
大学の二部って、
物理学者になる人では
けっこう珍しいキャリアだと思うんです。
石原
そのときは物理学者になるつもりはなくて、
もっと物理のことが知りたかっただけなんです。
で、なぜ二部にしたかというと、
物理はすごく勉強したいんだけど、
他の受験勉強はまったくしたくなかった(笑)。
早野
徹底してますね(笑)。
じゃあ、二部に入って、
それ以外の時間っていうのは
何をしておられたんですか?
石原
フランス料理屋さんで
アルバイトをしていました。
生活費のためでもあるのですが、
門前仲町にあるフランス料理屋さんで
ずっと料理をつくってました。
早野
つくるほうですか?
石原
私、料理がすごく好きで、
ケーキを焼くのもすごく好きなんです。
ケーキづくりってすごく実験と
似ているところもあるので。
早野
じゃあ、昼はそこで料理をつくって。
石原
朝、9時から3時くらいまで
キッチンの中ではたらいていました。
それから大学の授業を夕方4時くらいから
9時くらいまで受けてという、
当時はそういう生活でしたね。
早野
ずっとそういう生活をしていたのに、
大学院はアメリカですよね?
石原
はい。
3年生まで二部にいたんですが、
おもしろそうな一部の授業は、
ときどき聴講させてもらっていました。
そのとき量子力学を教えていた
鈴木公先生の講義が、
いままで受けた物理の中で
いちばんおもしろかったんです。
それで4年生のときに
研究室に入りたいとお願いをしたら、
快く受け入れてもらえました。
それで4年生のときに一部の研究室に所属して、
バイトも辞めて、そのまま卒研生活に
入っていったという感じなんです。
早野
物理って非常に大きく分けると、
理論と実験のふたつがありますが、
「実験がしたい」と思うようになったのは
そのころからですか?
石原
そうですね。
やっぱり昔から何かをつくるのが、
すごく好きだったんですよね。
小学校のときは工作クラブにも入ってましたし、
電化製品を分解するのも好きでした。
分解するだけで戻せなくなるんですが(笑)。
早野
ぼくと同じですね(笑)。
石原
なので実験で大学院に行きたいというのは、
4年生のはじめごろには固まっていた気がします。
早野
アメリカ留学の話は、
どうやって決まったんですか?
石原
当時、鈴木先生は大学院生をとらない
ポリシーをもっていたんですが、
学生の性格なんかを見て、
「この先生が合っているんじゃない?」
とかは教えてくれていたんです。
それで私はテキサスの大学院を勧められました。
「あなたはアメリカが合ってるかもね」って(笑)。
早野
ご両親はどういう反応でしたか?
石原
私の母は、ものすごく心配性なんです。
高校生のときも一人旅に出るとか言えないから、
何も言わずに黙って行くしかないくらいで。
早野
(笑)
石原
それで、帰ってきてから、
「じつはこの前‥‥」って(笑)。
早野
じゃあ、アメリカ留学のことも相談せずに?
石原
相談はしてないです。
ぜんぶ決めてから
「ここにサインをお願い」って。
早野
豪快だね(笑)。
石原
そうですよね(笑)。
まあ、そうでもしないと、
どこにも行けないくらい心配性だったので。
早野
アメリカではどういう生活を?
石原
1年目の授業の終わりに、
どこかの研究室に所属したいと思って、
はじめの夏だけニューヨークの
「ブルックヘブン国立研究所」というところの
「STAR実験」にいました。
500人ぐらいが所属するグループでした。
早野
あそこのうたい文句は、
「初期の宇宙の状態を実験室でつくる」
というものでしたよね。
石原
まさにそうです。
そのころから宇宙の高エネルギー現象というのは、
私の大きなテーマというか、
いちばんの興味になっていました。
早野
ちなみに、ぼくはその「STAR実験」の
ライバルグループにいたことがあります。
同じ施設内の(笑)。

石原
ああ、そうでしたか(笑)。
早野
あそこで500人規模ということは、
トップに大将がいて、次に将軍クラスがいて、
という感じのわりと大きな縦組織だと思うんです。
そのいちばん下に、一兵卒として入るわけですね。
大学院生の石原さんが。
石原
そうです。
早野
そういう大きなグループの中で、
自分に何ができるかっていうのは、
けっこう考えたんじゃないですか。
石原
それはやっぱりありますね。
ただ、そういう部分もありますが、
500人いるからこその可能性や醍醐味というのも、
そこですごく感じたんです。
早野
それはありますよね。
石原
500人の実験グループの中に自分がいて、
何らかのかたちで貢献もできて、
実験装置もちゃんと動くようになるというのは、
ものすごくたのしい経験でした。
こういう生活をもっとつづけたいって、
そのころから思うようになりましたね。

(つづきます)

2020-10-05-MON

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