中前結花
ほぼ日の塾◉第4期生
イラスト◉ちえ ちひろ
おひさしぶりです。
「ほぼ日の塾」の第4期生、中前です。
マンションの管理人である父に会いに行ったり、
ペットボトルのキャップを床一面に並べて数えたり‥‥。
なんだかおかしな読みものを書かせてもらってから、
早いもので2年近くが経ちました。
あいかわらず、こうしてチマチマと
文章を書いていますが、今年は、いつになく
机と向き合っている時間がとても長いです。
自由に出歩くことが叶わない日々の中、
自宅で過ごしていた数ヶ月間のこと。
(こんなに「ひとり」になったのは、はじめてでした)
街に少しずつ日常が戻りはじめた今、
「こんなやつもいたのかあ」と
気楽に読んでいただけたら、うれしいです。
(2020年6月1日記)
違う、そうじゃないけれど
強力粉と、賞味期限の怪しいドライイースト見つけた。
まさか、
「キッチンでひとり、“人肌”をつくろう」
だなんて、そんなことは思っていない。
そんなのは、ホラーにも近い気味の悪さだ。
違う、そうじゃない。
もちろん、わたしがつくりたいのは「パン」であって、
やわらかなものに触れてほっとしたり、
丁寧に何かを完成させたいだけなのだ。
粉に砂糖や食塩を混ぜていく。
水を流し込めば、徐々にかたまりになってくるから、
混ぜるのをゴムベラから右手に切り替える。
「ああ…やわらかい……」
違う違う、そうじゃ、そうじゃない。
焼き菓子をつくるときの、この工程が、
わたしはもうずいぶん前から好きなのだ。
丁寧に手の中でこねていくと、ダマがなくなって、
なめらかになっていく。
パンのタネは、しっとりとやわらかいけれど、
手のひらの体温をそっと奪っていくほど、
ひんやりとしていた。
もう少し、あたたかならなあ。
「これじゃあ、おばあちゃんの手じゃないか」と
ひとり思った。
そして2ヶ月ほど前のある日のことを、
ぼんやりと思い出している。
実はこの期間、1日だけ、わたしは遠出をしていた。
4月の自分を考えた
今から6年前の桜がひらひら降るころ、
奈良県の小さな病院で母は亡くなった。
ちょうど春の改変のタイミングで、
テレビでは「懐かしのメロディ」の特番が流れていて、
もうすぐこんな時間が、ロウソクの火が
ふっと消えるみたいに無くなることを知っていて、
わたしは病室のテレビから流れてくる
小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を一緒に口ずさんでいた。
握り返してくれていた母の手から
ゆっくりと力が無くなって、
そして、そんな辛い春が終わった。
今年の2月に入って、わたしが一番心配したことは、
母の「七回忌」の法要だった。
4月に、足腰の悪いおばあちゃんを連れて、
父と兵庫県の山奥のお寺に行くことになっていた。
わたしは海外のニュースをとにかくたくさん見て、
4月に自分が関西へ移動することなどできるか、
そしてその前に、自分が無事でいられるのかを考えていた。
無理だと思った。
2月当時の状況は、全国でも感染は10名にも満たなくて、
移動や外出についても誰も特に気にしていなかった。
だけど、海外のニュースを毎日気にしていたわたしは、
何もわからないなりに、このあとの状況は
きっと楽観視できないのだろうなと思っていた。
父に電話し
「お願いだから、今週末にしてほしい」と頼んだけれど、
父は「2ヶ月も前倒しの法要なんて聞いたことがない」
「新幹線が止まるはずがない。大丈夫や」と言った。
わたしはどうしても、とあきらめられず、
「お供え物いっぱい持ってたら、わたしがいないと、
おばあちゃんと手を繋ぐ人がいないから。お願い……」
と泣いた。
根負けした父が、お寺に頼んで、
2月の半ばに法要をすることになった。
わたしは東京の自宅から喪服を着てマスクをつけ、
人の少ない始発で移動した。
父の家にもおばあちゃんの家にも寄らず、
母へのお供えや花だけを全部持って、
「お父さんが、おばあちゃんと手を繋いで」と託して、
離れて山奥をひとりで歩いた。
手を繋ぎたかったけれど、繋ぐのはわたしじゃない。
家からほとんど出ていないのだから、わたしが誰かに
移してしまう可能性は極めて低いのだけど、
それでも万が一がある。
どんな小さな可能性もわたしには恐ろしかった。
「あの子は、あんたに似て心配性やなあ」
とおばあちゃんは、父に向かって笑い、
「そんなにせんでも大丈夫よ。せっかく帰ってきとんのに」
と言ってくれたけれど、
「東京から来てるから」
と、わたしはおばあちゃんに触れられなかった。
ひと気の無いひんやりとした山奥の道は、小さいころ、
虫やヘビを見つけては
いつも泣き叫んでいた思い出ばかりで、
大人になった今でも相変わらず苦手な場所だ。
「だいじょうぶよ」と手をひいてくれた母のことを
思い出しながら、大きな花束を持って、大股で歩く。
マスクの中で「瀬戸の花嫁」を小さく口ずさんで、
父たちとはすこし離れて山道を進んだ。
こういうときにマスクは便利だ。
パンプスの足先に、ぬかるんだ泥の汚れが
じんわりと染みていくのを見ながら、
わたしは「これから」のことを考えていた。
これまでと、今と、これから
それから1ヶ月ほど経てば徐々に県外への移動が
制限されはじめ、2ヶ月後、予定していた法要の日に
「緊急事態宣言」が出たのだ。
父からは「お前が、のんびりしてないのは初めてやった」
と言われた。
誰にも触れず東京に戻り、
忙しなく窓辺の椅子で仕事をしていたら、
すっかり春は見ぬ間に走り去ってしまって、
5月はどこへ行ってしまったのか、
蒸し暑ささえ感じる6月を迎えていた。
そうして徐々に日常が、なんだか息吹のようなものが、
今すこしずつあちらこちらに戻りはじめているような
気配がある。
窓から覗くと、駅前には人が連れ立って歩いている様子が
いくつも見えた。
「このまま、日常を戻してしまっていいのだろうか」と
不安にも思う。
けれど、「念のため」とこのまま、
じっと堪えるような暮らしを続けるには、
具合の悪い箇所があまりにも多すぎるのはたしかなのだ。
好きだった喫茶店も、よく通っていたマッサージ店も
閉店してしまった。
お店や娯楽施設や観光業の問題はもちろん、
自宅で過ごす小さな子どもたちもさぞ辛かろうなあと思う。
スポーツ選手や高校球児、大切な機会を失ってしまった人も
たくさんいる。
これ以上、時を止めるのは限界がある、というのは
とてもとてもよくわかる。
「いつ」訪れるかわからないものを、じっとじっと
待ち続けるのは、本当にくたびれてしまうのだ。
「ひとり」が好きだと思っていた。
気楽で、なにを気にすることもない。
こんな贅沢はないと感じていた。
だけれど数ヶ月間、ひとりで食べ続ける食事は、
こんなにも味気ない。
大好きな焼きそばもチャーハンだって、
前ほどにはおいしく感じないのだ。
顔を見て笑い合うこともない、
「なにを食べようか」「どれにしようか」と
他愛もないことを人に相談することもない。
たまにカメラで繋がれた四分割の画面で
代わる代わる近況を話して、「ふふふ」と笑い合いながら、
「じゃあね。無事でね。ありがとう」と画面を閉じる。
途端に静寂が降りてきて、1LDKの小宇宙の中で
また、ひとりぽっちになる。
四次元ポケットのような画面は、いつでもわたしたちを
繋いでくれるけれど、「だいじょうぶよ」と
手に触れてもらうときの安心感とはほど遠い。
誰もが「当事者」なのに、誰もが寄り添えない。
思えば、わたしは幼いころに
兵庫県で阪神大震災を経験して、
東京に出てくると間もなく東日本大震災が起きた。
それだけじゃない。どんなときだって、駆けつけたり、
誰かに駆けつけてもらって、
いろんなことを乗り越えてきた。
ガスも電気も使えぬ夜は、家族3人で身を寄せ合って、
ラジオから流れてくる
SMAPの「がんばりましょう」を聞いた。
数日後にはおばあちゃんやおじいちゃんが来てくれ、
「大丈夫やった?」と抱きしめてくれる。
母の葬儀には仲のいい友人が駆けつけてくれ、
涙で濡れた手でふっと手を握って
「一緒にがんばろう」と言ってくれた。
辛いことが起きて苦しいときは、みんな肌を寄せ合って
「集まる」「触れ合う」ことで、なんとかかんとか超えて
きたのに、今は「ねえねえ」と触れることさえ叶わない。
オンラインに活路を見出したって、
リモートワークの生産性がうなぎのぼりになったって。
取って代われないものがきっとある。
取って代われないもので、わたしたちはこれまで
救われてきたのだ。
すこしずつ日常に近いものが訪れても、
これからは大きくなにかが変わる。
良い変化や、新しい楽しみもきっとあるだろう。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた電車の中には
少しゆとりができたり。
関西に住む友人たちとも、もっと距離を感じなく
なるかもしれない。
無駄や、距離や時間のせいで叶わなかったことが、
どんどん少なくなっていく気がする。
それはいいことだなあ、ととても思う。
快適な未来を思うと、ぱっと嬉しい気持ちになったり
するものだ。
けれど、大事なものは。本当に大事なものは、
どうかどうか残りますように。
そんなことを願いながら、なぜだかわたしは
ひとりパンをこねている。
「だめだ。もっと、しっとりとしてて、
あったかいんだよなあ…」
卵を混ぜて、ほんの少しだけレンジにかけるのは
どうだろうか。
わたしはやっぱり、あたたかな誰かに早く触れたい。
なんだこれは。
違う、こんなのじゃあないんだよなあ。
触れたときのあたたかさって。
ようやく馬鹿馬鹿しくなって、
もう「発酵」させてしまうことにする。
自分のために料理をつくる。
これまではすこし面倒だったけれど、この数ヶ月間で
ようやく「作って食べること」を
楽しめるようになったのは、
この期間の中で得た、数少ない良いことのひとつだった。
食べることは生きること、とは誰が最初に言ったのか、
本当にその通りだと思った。
元気でいなければいけない。
わたしには会いたい人がたくさんいるのだ。
余計なことばかりしていたから、できあがったパンは
ふにゃふにゃとあんまりおいしくなかった。
「パンのやわらかさって、こういうんじゃないんだよなあ」
なんだかもの足りないもので、そろそろいっぱいなのだ。
そういえば。手さえ握れなかったけれど、
おばあちゃん元気にしているだろうか。
短い手紙を書いて、ポストまで出しにいくことに決めた。
今日からお店も開いているから、焼きたてのパンを
覗きにいくのもいいかもしれない。
夜遅くに、ゴミ捨てに出たり、コンビニで食料を
買い足すことはあったけれど、
こんなに陽の照った日中に、きちんとした洋服を着て
外に出るのは久々のことだった。
なにしろ4ヶ月もこうして過ごしてきた。
日常は、ちゃんとわたしを迎え入れてくれるだろうか。
雨が上がったばかりの道路に足を踏み出すと、
アスファルトからはふんわりと、なんだかまるで
「夏」みたいな匂いがした。
足元に目をやると、洗ったばっかりのスニーカーの足先には
シミのひとつもない。
匂いを嗅いでいたいけれど、仕方なくマスクの鼻上まで
引っ張り上げる。
じんわりと汗が滲んで、「そうか、こんな上着は
もう要らないのか」と服装を後悔した。
去年とそっくりな夏が、
今年もまたやって来ようとしているのだ。
友人たちと触れ合い、笑い合うのはいつになるだろうか。
「本当に大切なのはきっとこれから」
去年とは違う夏になることを知っていて、
わたしはスニーカーの足裏でしっかりとアスファルトに
触れるようにして、ようやく一歩一歩と歩きはじめた。
(おしまい)
2020-06-19-FRI