2020年の年末、ほぼ日は
神田の町に引っ越してきました。
はじめてのこの町をもっと知りたいし、
もっと知ってほしいと思っています。
そこで、日本全国のすべての市町村を回った
若き写真家、かつおさんこと仁科勝介さんに
神田の町を撮ってもらうことにしました。
自由にやってください、かつおさん。
かつお|仁科勝介(にしなかつすけ)
写真家。1996年岡山県生まれ。
広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2020年の8月には旅の記録をまとめた本、
『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)を出版。
写真館勤務を経て2020年9月に独立。
2021年10月から2022年8月にかけて、
東京23区の490ある全て駅を巡る
プロジェクト「23区駅一周の旅」を完遂。
そこで撮影した、東京のささやかな日々を
まとめた写真集『どこで暮らしても』を
2022年11月に自費出版。
2023年春から新プロジェクト始動予定。
#182
石川編集長と、おさんぽ神保町(前編)
第174回と第175回のときに、
神保町がとっても好きだという
三人の女性の方々に話を伺った。
本を探そうと訪れてまちが好きになったこと、
ラジオドラマで憧れていたこと、
大学院の研究として出会ったこと‥‥
と動機はさまざまだった。
ただ、実はその三人のうち二人が
制作に携わっているタウン誌がある。
神保町を知る人で、知らない人はいないであろう
『おさんぽ神保町』だ。
古書店、カレー屋さん、居酒屋にとどまらず、
神田、神保町に関わる様々な方々やお店にフォーカスし、
ファンが愛してやまない地域限定のフリーペーパーである。
ぼくも神田や神保町を巡るようになったとき、
『おさんぽ神保町』を自然に見かけていた。
フリーペーパーかな、雑誌かな。
詳しくまでは気にしていなかった。
でも、可愛らしいA5サイズの冊子が
とてもまちに馴染んでいる、
というより、あたりまえに存在している。
落ち着いた表紙、不思議な存在感。
だからぼくは、
まちに特化した情報誌があるんだなあと、
徐々に徐々に認識していた。
『おさんぽ神保町』の創刊は、
2006年である。
直近の2022年10月に発行された34号まで、
毎年2回ずつ発行されている。
そして、2006年の立ち上げから現在に至るまで、
おさんぽ神保町を支え続けている立役者がいる。
編集長の石川恵子さんだ。
石川さんと出会ったのは、
ぼくが大和屋履物店さんで油を売っていたときだった。
石川さんが買い物にやって来たのだ。
お店の方がぼくに、
「おさんぽ神保町の編集長さんだよ」と。
耳がピクッ、と反応する(えっ、おさんぽ神保町の、
編集長‥‥すごい‥‥でも‥‥ご挨拶すべきかな‥‥
いやいや、俺なんて新参者、とんでもねぇ‥‥)。
それからの記憶は曖昧である。
だが結果的に、
ぼくは失礼ながらもご挨拶をさせていただいた。
そして、石川さんは優しい方なので、
「写真を撮っている人ですかね」と認識(?)
してくださっていたのだ。
ああ、ああ‥‥。
慌てふためき、
いつかお話を伺いたいとお伝えした。
という流れである。
前置きが長くなったが、
たちまち10月の半ば、
石川さんのご自宅兼事務所に伺った。
「今日はありがとうございます。
どうぞよろしくお願いいたします」
石川さんが、『おさんぽ神保町』を立ち上げた話は、
ネットでもいくつか記事が掲載されている。
かつて九段下の印刷会社に勤めていらっしゃっていて、
毎年5月に開催される「神田すずらんまつり」の
会議に会社で参加した際、
おまつりを運営する近隣出版社の、
労働組合の方々の熱意を知り、魅了された。
「私が会議に参加した頃は、
神田すずらんまつりが20周年で、
立ち上げから携わっていた方々は、
定年を迎える年齢になられていました。
なので、そろそろおまつりも終わらせたい、
という話があったんですね。
でも、会議を見ていて、
それはすごくもったいないと思った。
みなさんは活字文化を愛していて、
まちを誇りに思っていて。
愛情も溢れていました。
だからそのことを引き継ぎたい、
って勝手に思ったんです。
みなさんはおまつりを終わらせたいのに、
なんだこの小娘は、
って思われたはずなんですけれど。
それで、会社の立場で神保町の
フリーペーパーを作ることになりました。
それがおさんぽ神保町の始まりです」
やがて、石川さんは会社を転職されるが、
その際におさんぽ神保町の制作は、
石川さんが個人で受け持つことになった。
「なので、おさんぽ神保町はNPO法人でもなく、
任意団体です」
ただ、『おさんぽ神保町』を創刊して
7年ほど経ったタイミングで、
石川さんはまちを離れ地元の群馬へ一度戻ったことがある。
お子さんを授かった時、
ひとりで子育てしながら、
仕事とおさんぽ神保町は続けられられないと思ったのだ。
しかし、神保町のすずらん通り商店街の方が
引き留めようと考えて、
関係の深かったボランティア団体
「神保町応援隊」の隊長が、
直接群馬まで会いに来て説得してくれた。
「おさんぽ神保町は、
私が好きでつくらせてもらっていました。
ですが娘を授かった時、
ひとりで子育てしながら仕事と
おさんぽ神保町の三足のわらじは、
いくらなんでも履けないと思った。
『私が終わらせるのなら、それでいいでしょう?』って。
でも、そうじゃなかった。
地域の方に、戻ってきてと声をかけてもらいました。
だから、私自身とても助けられたんです。
そして神保町に戻ってきて、今に至ります」
神保町に戻ってきたときは、
娘さんもまだ幼かった。
おんぶしたり、カートに乗せたりしながら、
取材を再開したそうだ。
そして、まちの方々は戻ってきた石川さんを、
温かく迎えてくださった。
あらためて、石川さんはまちの方に愛されていたのだなあ。
と、ぼくは眉間に皺を寄せて頷いた。
すると石川さんが
「ちょっといいですか」
と、娘さんを呼びに行った。
「習い事の時間でしょうー!」
お伺いした場所は事務所であり、
ご自宅でもある。
石川さんは編集長でもあり、
そしてやっぱりお母さんなのだ。
娘さんはまもなく、
元気に玄関を飛び出していった。
「神保町で暮らすことはいかがですか?」
「憧れていたまちなので。
初めて神保町に住んだ日は、
寝付けなかったです。
『私は今、神保町の上で寝ている?』
と思って(笑)」
それからあっという間に、
10年近く経つ。
おさんぽ神保町と、
たくさんのつながりと、
ささやかな日常とともに。
(後編へ続く)
2022-11-07-MON