自分の名前で文章を書きはじめたら
どんどん仕事が舞い込むようになった‥‥。
そんな岸田奈美さんは、はっきり自覚しないうちに
いつの間にか文筆家と呼ばれるようになり、
結果的にあちこちで忙しく活動されています。
車椅子利用者のお母さんと
ダウン症の弟さんとの日常をつづったエッセイを、
みなさんもどこかで読んだことがあるかもしれません。
そして岸田さんがいつか絶対に書くと決めていたのが、
中学2年のときに亡くなったお父さんのことでした。
ある日、突然、いなくなってしまったお父さんは、
いまもずっと、岸田さんのなかにいるのです。
過去のお父さんに、お父さんの見た未来に、
岸田さんは向き合うことにしました。
長い連載になるのか、そうでもないのか、
岸田さん自身にもわからないまま、はじめます。
イラスト|くぼあやこ
岸田奈美(きしだなみ)
1991年、神戸出身。100文字で済むことを2000文字で書く作家。
車いすの母、ダウン症の弟、亡くなった父のことなど、
家族のことや身の回りのことなどをよく題材にされています。
家族で一番消費する海苔は海大臣。文藝春秋2020年1月号巻頭随筆、講談社小説現代連載など。noteはこちら。
第一回
「おもろい」を、探す旅へ。
かつて「魚の絵を描け」と言われて、
横からではなく、正面から見た魚を描いた子どもがいた。
私の父だ。
画用紙のど真ん中に突如として現れた、
鋭利な縦長の何かを見た幼稚園の先生は、驚いた。
祖父母は、さらに驚いた。
その後も父は、子どもの知能をはかるテストで
「暑いの反対語は?」と聞かれ「暑くない」と答え
「寒いの反対語は?」と聞かれ「寒くない」と答えた。
頑なに、答え続けた。
驚きが一周回って心配になってきた祖父母は、
嫌がる父の手を引き、病院へ連れていった。
検査の結果、異常はなかった。
30年近く経ち、父が大人になっても。
ことあるごとに、祖父母が笑い草として語る昔話だ。
昔話の最後はいつも、父の憤慨で終わった。
「ものごとを多面的に捉えて、なにが悪いねん」
「俺がおかしいんとちゃう、
周りが俺についてこれてないだけや」
「世間がおもんないわ」
その自負の通り、確かに、父はおもしろかった。
大手不動産会社を早々に辞め、
当時はめずらしかった“ベンチャー起業家”になった。
古いアパートを次々に父がリノベーションして生まれた、
オシャレでぬくもりのある物件は、人気を博した。
思えば、父が私に与えるものも、
ちょっと、いや、かなり変わっていた。
育ててしゃべるおもちゃ・ファービーが大流行した時。
父はなぜか私に英語版ファービーを買い与えた。
「これで遊べば、英語も学べて一石二鳥や」と言っていた。
そんなわけがないのである。
ファービーを育てる里親は私なのだ。
里親が言語を理解できていないのは、致命的なのだ。
思ってたんと全然違うファービーは、
大味すぎて笑えないアメリカンジョークを飛ばし、
親しみのわかないメロディーを爆唱していた。
5歳になった頃、父は私にパソコンを買い与えた。
パソコンの家庭普及率は7%。
そのほとんどが、Windowsだった時代に。
なぜかAppleの初代iMacだった。
「一人だけパソコンできたら、かっこええぞ」
「しかもオシャレなiMacやぞ」
と、父は自慢げに言った。
そういうとこやぞ、と私は思った。
ろくに操作方法を教えてもらわないまま、
パソコンを我流でたしなむことになった私は、
今も人差し指一本でタイピングする癖がある。
ちなみにこの一本指打法でタイピングコンテストに挑戦し、
10歳で県優勝の成績を納めた。
パソコンの野生児とは私のことである。
ドラえもんの映画と騙されて連れて行かれた映画は、
クリント・イーストウッドが老体にムチ打って宇宙へ飛ぶ
スペース・カウボーイだった。
テーマパークと騙されて連れて行かれた場所は
建築様式が美しいと父が惚れ惚れする
関西学院大学のキャンパスだった。
思ってたんと違うが、それはそれで、おもしろかった。
父はよく、憤慨していた。
「世間がおもんない」と。
父の思いつくおもしろいことが、
世間に受け入れられない度に、
そう言っていた。
受け入れられないというか、早すぎるのだ。
思い返せば、父がそのとき興味を持っていたことは、
すべてその5年後くらいに流行していた。
私は、憤慨する父を見るのが、おもしろかった。
それはもう、むちゃくちゃな文句を言い散らかすのだが、
それを畳み掛ける勢いが、むちゃくちゃ面白かった。
落語か漫才のネタを見ているようだった。
父の文句で、印象的なものがある。
「世の中がおもろくないなら、
世の中をおもしろくすることは諦めろ」
世間がおもんない、と言っていた父は、私に教えた。
そして、こう続けた。
「自分がおもろいと思うことを、世の中に送り続けろ」
父は、そう言って、父自身に言い聞かせていたように思う。
父の行動は、父の言葉を体現していた。
仕事に打ち込み、世の中を驚かせ続けた。
しかし、中学生になって思春期を迎えた私は、
父を尊敬する本音とは裏腹に、衝突することが増えた。
あの日も、そうだった。
学校の遠足で、父にたくさんお土産を買ってきて、
家で父が帰るのを、遅くまで待っていた。
やっと帰ってきた父は、ひどく疲れた顔で
「今日しんどいから、お土産話は明日聞くわ」と言った。
期待を裏切られた私は、そのまま父と口げんかになった。
最後にはカッとなって「もうええわ!死んでまえ」と言い、
私は部屋に閉じこもってしまった。
そして、翌朝。
父は過労による心筋梗塞で病院に運ばれ、
2週間意識不明のまま、亡くなった。
父は39歳だった。
ずっと後悔していた。
あんなに憧れていた父への最期の言葉が
「死んでしまえ」になったことを。
辛くて、苦しくて、悲しかった。
毎日、布団に顔を押しつけて泣いた。
どうやっても自分の力では抜け出せない、
悲しさを消化する術は“忘れる”ことだった。
私はできるだけ、父との思い出を忘れるようにした。
父にまつわる人たちとも、できるだけ関わらないようにした。
父のことを思い出さなければ、
悲しむこともなくなる。
無理やり正常に生きることと引き換えに、
私は、父の声を、顔を、少しずつ忘れていった。
ただ「おもしろい父だった」という
断片的に美化された思い出だけが、私の宝物になった。
父の死に向き合うことをやめてから、
15年が経った。
母が大動脈解離で倒れて下半身麻痺になったり、
知的障害のある弟が街で働きはじめたり、
家族にはいろんなことがあったが、楽しくやっている。
28歳の誕生日を迎えた私は、ある日、思い立って、
自分のエッセイを書き、ネットで公開してみた。
なんとなくおもしろいな、と思うことを、
おもしろいぞ、と情熱的に書き散らかした。
父がiMacを買ってくれた話も書いた。
すると、あれよあれよとアクセスが伸びて、
ある日、Twitterで糸井重里さんが私を紹介してくれていた。
目を疑った。
私がiMacを手に入れたばかりの頃、
ダイアルアップ接続で電話代を気にしながら、
読んでいたWEBサイトの管理人じゃないか。
今思うと、なぜそう意味のわからない方向に
思い切り舵を切る勇気があったのかわからない。
ともかく糸井さんに「会いたいです」とメールを送った。
深夜だったのに、すぐメールが返ってきた。
「僕も娘には、キャベツパッチ人形を買い与える父でした」
そして、糸井さんと会うことになった。
私が書いた文章が、会わせてくれた。
ものごとを多面的に捉えることも。
人差し指でものすごく早くタイピングできることも。
おもしろいことを、おもしろいと書き続けることも。
今思えば、その文章を私に書かせてくれたのは、
すべて父から受け継いだ能力だった。
忘れたはずの父が、私の中で、生きていた。
それに気づいて、私は泣いた。
到着して15分と経たない内に泣き出す私を見て、
糸井さんはさぞかし、困ったことだろうと思う。
「僕になにができるかわからないけど、
僕にできることはありますか?」
糸井さんに言われて、私は、父の話を書きたいと答えた。
もう私は、父の声を思い出せない。
顔も思い出せない。
でも、ずっと、後ろめたさを感じていた。
だから、父がくれた「書く能力」を使って、
父のことを知っている人たちに話を聞いて、
父の話をちゃんと書きたい。
忘れるわけでも、美化するわけでもなく。
私に変わったものを買い与え、
変わった場所に連れていった父の真意を、知りたい。
たどりついた先が「なんとなく、おもろいから」でも、
それはそれで、すごく楽しい。
正面から迫りくる魚のように、勢いよく。
私が綴る、私と父の、物語です。
(次回の更新は、3月下旬の予定です。おたのしみに。)
2020-03-04-WED