1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。
イラスト:サユミ
#15
家族。
『北の国から』第17回のあらすじ
退院したばかりの令子を伴って、
雪子が東京から帰って来た。
令子は正式な離婚手続きをするために
富良野を訪れたのだった。
五郎は令子の望みを受け入れ、
彼女が子どもたちと別れのひとときを
過ごせる様に取り計らう。
純は両親の離婚に大ショックを受け、
少しでも母と一緒にいたいと切望したが、
螢は無愛想に口もきかず、
東京に帰る令子を見送ろうともしなかった。
しかし‥‥。
これまで、この『北の国から』を観ながら、
けっこう泣いた。
ぼくはそういうときは景気よく泣くほうなので、
いちいちぜんぶをここに書いていないけれど、
随所で、しばしば、ちょくちょくぼくは泣いた。
ほからならぬ『北の国から』なのだから、
それもしかたのないことだと思う。
でも、今日は自分でも驚いた。
夜、五郎さんが、純と螢を呼んで、
「そこに座りなさい」と言って、
もごもごせずにはっきりと、
「父さんと母さんは、正式に離婚することになった」
と告げたとき、涙が出た。
なんというか、前触れなく、ぱっと出た。
自分がどういう立場で泣いているのかわからない。
純と螢を思って泣いているのか、
純と螢のつもりで泣いているのか、
家族全体を思って泣いているのか。
なんだか、もう二度と戻らないというものを、
ついに認めざるを得なくて
感情があふれたような感じだった。
そんなややこしい、薄布が重なったような泣き方は、
テレビドラマを観ながらなかなか経験しない。
逆にいうと、現実の生活では、
そういうことはときどきあると思う。
ぼくらが実際の暮らしのなかで、
泣きそうになったり、さびしくなったり、
怒ったり、かなしくなったり、笑ったりするのは、
いろんなことが多重に重なって、
そこにひょいと意外なトリガーが引かれたときだ。
この家族が、もう家族でなくなるということが、
自分でも意外なほど、悲しいことだった。
ただのテレビドラマなのにねぇ。
どうしても思い出してしまう、
糸井重里のことばがあったので、引用します。
ぼくは、ほとんどすべてのこどもの「願い」を、
とっくの昔から、よく知っています。
時代が変ろうが、どこの家のこどもだろうか、
それはみんな同じです。
おもちゃがほしいでも、おいしいものが食べたいでも、
強くなりたいでも、うんとモテたいでもないです。
「おとうさんとおかあさんが、仲よくいられますように」
なのです、断言します。
それ以外のどんな願いも、
その願いの上に積み上げるものです。
おとうさんとおかあさんが、
それを知っていたからって、
仲よくできるわけじゃないんですけどね。
それでも、知っていたほうがいいとは思うんです。
両親が、それを知っていてくれるというだけで、
だいぶん、こどもの気持ちは救われます。
仲のいい家族は、それだけですべてです。
(糸井重里『あたまのなかにある公園。』より)
そして、令子さんが、富良野にやって来る。
純と螢と、家族としては最後に過ごそうと思って
ラベンダーが満開の晴れた日にやって来る。
けれども、螢は口をきこうとしない。
螢は、みんなでお墓参りに行くときも、
最後の駅への見送りにも、来なかった。
午後3時34分。
令子さんは純と最後に握手をする。
「しっかり。螢をよろしくね」とお母さんは言う。
純はりりしい少年の顔でうなずく。
令子さんを乗せた汽車は駅を出る。
大きな川に沿って汽車が行くとき、
令子さんは気づいて窓を開ける。
川の向こう岸を螢が走っている。
手を振りながら、螢は走る。
日に焼けた螢の頬を、涙が後ろへ伝っていく。
螢は、足が速いのだ。
令子さんが、窓から身を乗り出し、
長い髪を振り乱しながら、全力で手を振る。
さだまさしさんのハミングとギターが
いつもより少し大きな音量で響く。
世にも美しいシーンだった。
(ずっと泣いているわけで。)
2020-02-16-SUN