東京オリンピックのメイン会場
「国立競技場」の設計に参画するなど、
現代日本を代表する建築家のひとり、
隈研吾(くま・けんご)さん。
その大規模な個展
「隈研吾展─新しい公共性をつくるための
ネコの5原則」
が、2021年夏、
東京国立近代美術館でおこなわれました。
糸井重里がその展覧会を訪れたときの
隈研吾さんとのおしゃべりを、
ちいさな対談記事としてお届けします。
やってきた仕事の種類は違っても、
ふたりが考える未来のイメージには、
共通するところが多くありました。

* 202112月1日付「建設通信新聞」に
掲載された対談を、
ほぼ日編集バージョンでお届けします。

メイン写真/建設通信新聞 撮影:津端晃

>隈研吾さんプロフィール

隈研吾(くま・けんご)

1954年生。東京大学建築学科大学院修了。
コロンビア大学客員研究員を経て、
1990年、隈研吾建築都市設計事務所設立。
慶應義塾大学教授、東京大学教授を経て、
現在、東京大学特別教授・名誉教授。
1964 年東京オリンピック時に見た
丹下健三の国立屋内総合競技場に衝撃を受け、
幼少期より建築家を目指す。
その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、
ヒューマンスケールのやさしく、
やわらかなデザインを提案。
またコンクリートや鉄に代わる
新しい素材の探求を通じて、
工業化社会の後の建築のあり方を追求している。
これまで30 か国を超す国々で建築を設計し、
日本建築学会賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部科学大臣賞 、
国際木の建築賞(フィンランド)、
国際石の建築賞(イタリア)等、受賞多数。
著書に『点・線・面』『負ける建築』(岩波書店)、
『ひとの住処』(新潮新書)、
『自然な建築』『小さな建築』(岩波新書)など。

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(3)「しょうがない」とともに未来をつくる。

糸井さんが神田に事務所を移したのって、
ぼくはけっこう大きな事件だと思っているんです。
デザイナーとか、いわゆるカタカナ的な職業の人って、
「青山近辺」という
青山から原宿にかけてのエリアを選ぶのが、
やっぱりある種、
戦後の枠組みみたいなところがありましたから。
ぼくも事務所は青山ですし、
糸井さんも前は青山にいて。
糸井
そうですね。
神田に拠点を移されたのは、2020年ですか?
糸井
2020年ですね。
それはなんだか時代の変化を象徴する、
大きな出来事だと思うんです。
ぼくも住むにはおもしろい場所だと思って、
2000年ぐらいに自宅を神楽坂に引っ越したんです。
だけどこんなふうに自分のテーマとして
神楽坂を見せたのは、今回が初めてなんですよ。
それで、ある種の諦めみたいな
「しょうがない」を含んだ街づくり
みたいなことに
焦点を当てたわけですけど、
こういったアプローチって初めてなんです。
やっぱりぼくもいま、
さきほど糸井さんがおっしゃられた
「be動詞」的な街のありかたというか、
「いたから、いる」部分が気になっていて。
自分がそういうことを考えている時期に、
ちょうど糸井さんたちも
神田に引っ越されたんだなと思ったんですね。
糸井
そのお話を聞いて嬉しいです。
もっと昔、近代に勢いがあったときには
ブラジリア的な
「いちど平地にしたところに
思ったとおりに都市を作ろう」
みたいな動きもあったわけです。
それこそ丹下先生の「東京計画1960」も、
「海という真っ平らな場所に
好きにロジックを組み立てよう」
ということだった。
でもいま隈さんがおやりになっていることは、
逆に「そうか、どかないのか」とか。
そうそうそう(笑)。
糸井
あと「法律がこうなってるのか」とか。
まさしく「be動詞」的ですよね。
はい。そして神田も神楽坂もやっぱり、
自分がそこに行くとたのしいんですよ。
「しょうがない世界」に自分がはまりこんで、
そういう「しょうがないもの」と
絡まっているから、おもしろいんです。
糸井
おもしろいですよね。
そこがゼロだとつらいですよね。
糸井
つまらないですよね。
つまり「好きにやってごらん」と
白紙の画用紙を渡されても、動機がないんですよ。
そうなんです。
糸井
同時にまた、集団で生きていくのが人間なんで。
ネコもそれぞれ「個」で動いてますけど、
ごはんを食べる場所に集まりますよね。
これが「社会」で。
「ひとりになれる部分」と「みんなでいる部分」、
その両方があるのが
生きもののおもしろさであり、
これもまた「しょうがない」部分でもあって。
こういった「しょうがない」を
肯定的にとらえていく必要があるわけです。
そうですね。
糸井
隈さんが「ほぼ日の學校」(※)で
話してくださった、
いろんなプロジェクトからも、
ぼくはやっぱり似たことを感じたんです。
それぞれの場所の「しょうがない」部分を
特性として活かしながら、
「人が住んで嬉しい場所って、どうつくるの?」
とされているというか。

「ほぼ日の學校」隈研吾さんの授業より「ほぼ日の學校」隈研吾さんの授業より

■ 隈研吾さんの「ほぼ日の學校」の授業

タイトルは
「オオバコモデルよ、さようなら」
全3回。
隈さんがこれまで手がけてきた
多数の実験的なプロジェクトや、過去の経験、
「東京計画2020」の話を織り交ぜて、
若い頃からいまに至るまで、
どんなことを考えたり興味を持ったりしながら
建築の世界に携わられてきたかを
語ってくださったもの。

糸井
その方法というのが、
生地でいう「表地」と「裏地」にたとえれば、
「先に裏地を作るやりかた」という気がしたんです。
ああ、先に裏地ね。おもしろい。
糸井
その裏地に金糸銀糸を使ってもいいわけで。
それは神楽坂にしても、
吉祥寺の焼き鳥屋(※)にしてもそうで。

©Erieta Attali©Erieta Attali

■ 吉祥寺の焼き鳥屋「てっちゃん」

吉祥寺のハモニカ横丁にある
小さな焼き鳥屋「てっちゃん」は、
隈さんが内装を担当したもの。
相当限られた予算を逆手にとり、
LANケーブルをリサイクルした
「モジャモジャ」と、
アクリルをリサイクルした
「アクリル団子」を
内装材から家具にまで徹底して用いることで、
未来を感じさせる
不思議な空間ができあがっている。

ええ。
糸井
また、ほぼ日の學校の授業タイトルは
「オオバコモデルよ、さようなら。」
ですけど、
隈さんはオオバコ(大箱)自体を
否定しているわけでもなくて。
「さようなら」と言いつつも、
「オオバコの中に神楽坂は作れる」
と信じている気がするんです。
そうですね。
ぼくは「オオバコモデル」という
「人を大きなハコに閉じ込めるような建築が
理想的なかたちである」
と考えるような発想には否定的ですけど、
「オオバコ」自体を
否定しているわけではないんです。
大きなもの自体の可能性を捨て去るのは、
もったいないとは思いますよね。
大きいものだからできるおもしろさというのも
けっこうありますし。
大きなものでも、糸井さんが感じた
上海の高層ビル群のような「文体」に
することなく、できることって、
たくさんあると思うんです。
──
隈さんの「国立競技場」も大きいですけど、
部分部分を見ると、
ただの巨大なものではないですね。
テレビに絶対に映らないようなところも
めちゃめちゃ凝って、
いろいろやってるんです(笑)。
たとえば選手しか入らない通路に
ぶら下がっている照明が、
日本の漁網にヒントを得て作られたものであるとか。
何ヶ月もかけて試作して、
その場所にあわせたものを作ったんです。
普通なら機能的な照明があるだけの場所ですけど。

©Kawasumi・Kobayashi Kenji Photograph Office ©Kawasumi・Kobayashi Kenji Photograph Office

やっぱり、そういうことをやらないと
おもしろくないんですね。
糸井
さきほどの展示では、組み木を使った部分も
たくさんありましたよね。
ああいうものも隈さんがそういう勉強を
さんざんなさったのかと思ったら、
「そういう技術を持っている人たちに
ビジョンを語って、実現方法を
提案してもらって作ったもの」だという。

©Kawasumi・Kobayashi Kenji Photograph Office ©Kawasumi・Kobayashi Kenji Photograph Office

そうなんです。
糸井
ぼくはいまって、すべてが
アニメーション制作のように作られている
時代だと思うんです。
3Dの技術も進んで、いろんなことが
「ひとりの作家が頭のなかで描いた
絵コンテを実現する」みたいになってる。
でもアニメーションって、誰かが
想像したものしか描かれないんです。
想像されなかったものは出てこない。
だけど隈さんの組み木の建築などは、
それでは追いつかないから、
「あなたができると見込んだから、
おねがいします」っていう。
そうそうそう。
糸井
これって「役者と演出家の関係」ですよね。
役者の肉体性を演出家が借りるという。
その方法ってなにか、いまの
すべてがアニメーション制作みたいに
なっている時代の次のありかたを、
すばらしくあらわしている気がするんですよ。
相手が独自に持つ肉体性を頼りに
「一緒にやりませんか」ということとか。
制限の多い神楽坂で、
ネコたちにモデルになってもらって
「君の大好きな部分をぼくにも見せてください」
とか。
ああ。
糸井
一人ですべてを描き出すのではなく、
そういった部分を組み込んで、作っていく。
それが、ポスト・アニメーション時代の
ものの作り方だと思うんです。
ぼくが職人の方と一緒になにか作るときって、
そういうやりかたなんですね。
すべてをこちらが決めるのではなく、
職人さんに問いかけながら、一緒に実現させてゆく。
最初は向こうも緊張しているわけです。
いちおうぼくも先生とか思われてますし。
そのときは、こちらがいかに
なんでもない人になれるかが重要で。
「ばかげた考えかもしれないけれど、
漠然とこんなことを思ってるんです」
みたいに投げかけるんですね。
そうすると向こうが緊張を解いてくれて、
「それならこういうのがありえますよ」
と返ってくる。
そこからキャッチボールがはじまって、
前に進んでいくわけです。
さきほどの組み木のものとかも、
みんなそういうキャッチボールが
何度もあった上で、できているんです。
そういうことがないと、
絶対できない世界なんですよ。
糸井
そんなふうに
「前からあるものを認めるのがすごく重要だ」
と考えて作っているという意味で、
隈さんがやっていらっしゃることって、
丹下先生の対極にあるのかもしれないですよね。

2021-12-25-SAT

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  • 「隈研吾展」はすでに終了していますが、
    隈さんが携わられた多数のプロジェクトや、
    その歩んできた道のり、
    「東京計画2020(ニャンニャン)」に
    こめられた思いなどは、「ほぼ日の學校」の
    隈さんの授業のなかで知ることができます。
    よければごらんになってみてください。
    (→「ほぼ日の學校」はこちら)