何人かのチームで能登半島に行ってきました。
4月、ちょうど桜が咲きはじめたころ。
大きな地震に襲われた能登のために、
ほぼ日ができることはなんだろう。
焦らず、急がず、迷わず、気負わず、
まずはそこへ行くことからはじめてみます。
チームのひとりであるほぼ日の永田が
能登の旅の短いレポートをお届けします。
-
4月に能登に行ってきました。
ほぼ日の何人かでチームを組んで。もともと、ここ数年の
ほぼ日の大きなテーマとして、
地方へ、あちこちへ、東京の外へ行こうよ、
ということが以前から話し合われていたのです。具体的なプロジェクトとして
すでに動きはじめているものもありました。
たとえば、2年前に前橋ブックフェスを開催した、
群馬県を中心とした地域への取り組み。
(前橋市は糸井重里の出身地でもあります)
あるいは、キャンプレーベル「yozora」の立ち上げと、
各地のキャンプ場での合宿や取材など。東京の外へ踏み出した私たちの一歩は
まだまだささやかではあるものの、
これまでにはなかった空気を
ほぼ日にもたらしてくれたように思います。
そして、たぶん、この流れは一過性のものではなく、
もっと多様にもっと豊かになっていく。
そんなふうに私たちは感じていました。そういった動きをさかのぼるなら、
はじまりは2011年から築いてきた
宮城県気仙沼市との関係にあると思います。
東日本大震災からの13年は、
ほぼ日にたくさんのことを経験させてくれました。その後、新型コロナウィルスの拡大が、
外へ踏み出そうとする私たちの動きを一旦制限しましたが、
それはジャンプの前に身をかがめて
「ため」をつくるようなことだったのかもしれません。そういった意識の変化は、私たちだけではなく、
多くの人に同時に起こっているような気もします。
これを読んでいるみなさんも、きっと数年前よりは、
気持ちが外へと向かっているのではないでしょうか。東京は大好きだけど、
東京はなにをするにしても窮屈なんだよ、と、
近年、糸井重里はしばしば口にしていました。
東京以外の地域での仕事を得意とする
新しい乗組員たちも仲間に加わり、
ほぼ日の外への意識は去年の終わりくらいから
さらに具体的になっていました。そんなとき、能登半島を大きな地震が襲いました。
自分たちにできることはなんだろう。
考えるうえで指針となったのは、
やはりこれまでの自分たちの体験でした。東日本大震災のあと、
私たちが経験したひとつひとつのこと。
見たものや、聞いた声や、
撮った写真や、書いてきた文字。
それらがいつの間にか
いまのほぼ日の軸として活きていて、
私たちが考えるうえでの拠り所になったのです。まずは焦らないこと。
つながった縁を大切にすること。
できることの小ささや
自分たちの弱さを前提にすること。
一時的な感情や正義に振り回されないこと。
できれば一度きりにしないこと。
かといって続けられないことを無理に続けないこと。できることをしよう。
できることをできるときがきっとくる。
できることを大切にしよう。冬が終わり、桜が咲くころ、
ボランティアや支援の人たちが
現地に入れるようになりました。私たちも、能登へ行くチームをつくりました。
「まずは自分たちでちゃんと見よう」というのが、
最低限の目的だったかと思います。
判断や決定は、そのつぎの段階でかまわない。チームのメンバーは、
各ジャンルの判断ができる人を中心に、
多くなりすぎないようにしました。
ぼくもその一員となったのは、
こうして原稿を書く担当だからということもありますが、
車の運転手役ということも大きかったと思う。なにしろ、東日本大震災をきっかけに、
ぼくはいろんな車にいろんな荷物を積んで
あちこちへ行くのがすっかり平気になりましたから。当初、能登へ行くチームは、
ほぼ日の乗組員だけで構成される予定でした。
けれど、ぼくはひとりだけ、乗組員ではない人を、
ぜひこのチームに呼びたいと思いました。カメラマンの仁科勝介さんです。
かつおくん、といったほうが通じやすいでしょうか。かつおくんは全国のすべての市町村を
バイク(カブ)で巡る活動で
注目されるようになった若い写真家で、
ほぼ日でも「神田の写真」という
すばらしい連載を2年にわたり続けてくださいました。神田の町を走り回って、
お店や路地にすっと馴染みながら
その場所の光を切り取っていく若い写真家を、
すごいな、と思いながらぼくは見ていました。どうなるかわからないけれど、
この能登への旅に
かつおくんという「目」が入ったほうがいい。
ぼくはそう思ったのです。そして結果的に、
かつおくんがいてくれてとてもよかった。金沢からレンタカーで移動。二泊三日。
能登半島には泊まれる施設がまだ少なかったため、
無理のない範囲でいくつかの場所を視察しました。言うまでもなく、
私たちは壊れた建物を直したりできません。
インフラを整えることも、
大きなお金を集めることもできません。けれども、これはできるはずだと
しっかり自信を持っていることもありました。
それは「能登のよさ」を伝えること。
なにしろ「よさ」を伝えるのは、
ほぼ日というメディアの得意分野だと思うのです。そう、能登には、みんなに伝えたい
「よさ」がたくさんありました。
それは、誤解を恐れずいえば、
今年の地震があろうがなかろうが
多くの人に知ってほしいことです。たとえば、能登島の風景。
美しさだけでなく、
そこで感じた豊かさのようなもの。Googleマップで見てもらえばわかるのですが、
まるで能登半島が大事に抱え込んでいるようなこの島は、
海に囲まれながらもとても穏やかで、
半島と島をつなぐ橋の風景の特別さも相まって、
なにか次元の違う場所がぽっかりと
存在しているような特別な印象があります。畑が広がっていて、お米もおいしくて、
海の幸にも恵まれていて、
この島にあるのだけで、
いろんなことが自給できるそうです。能登島地域づくり協議会の人たちに
お話をうかがっていたとき、
この島に移住してきた
能登デザイン室の奈良雄一さんが
こんなことをおっしゃっていました。「自然が豊かで、食べ物もたくさんあって、
そしてそれらを近所の人たちと
自然に分け合うような優しい関係があって、
ここでなら一生食べることには
困らないかもしれない、って思ったんですよ」正直、ぼくはこの島のことを、
今回の旅で訪れるまで知りませんでした。
けれども、またあらためて来たい、
と思わせる場所でした。また、今回の旅では、
能登半島にあるものづくりの現場を
いくつか見学させていただきました。最上級の麻織物、
「能登上布(じょうふ)」を織る工房、
山崎麻織物工房さんでは、
地震の影響でいくつかの工程が滞ってしまったものの、
伝統的な織り機自体は問題なく動いたため、
職人さんたちが作業を続けることができました。四代目の代表を務める山崎隆さんに
見せていただいた能登上布の染めと模様の、
なんと緻密で繊細だったことか。完成するまでいったい何日くらいかかるんだろう、
と心配になるくらい細やかな制作過程をうかがったあと、
できあがった美しい織物を見せていただくと、
そこに膨大な時間や手作業が凝縮していることがわかり、
そのかけがえのなさにため息が出ました。まったく個人的な思いを書いてしまって恐縮ですが、
ぼくは子どものころ、
日本のむかし話に出てくる宝物のなかに
「布をぐるぐる巻いたもの」があるのが、
正直、ピンとこなかったんですよ。大判小判がそこにあるのはわかります。
米俵とか、珊瑚みたいなものも宝物だと思う。
けど、その反物はなに? 布? お宝なの?とか思ってたんですけど‥‥
いやいやいやいやいや!
能登上布の製作を見学したあとは、
桃太郎や正直じいさんがもらう宝物のなかで、
あの反物こそがいちばんの
お宝なんじゃないかと思えてきました。
自分の浅はかさを猛省です。
ぼくが隣の欲ばりじいさんなら、
大きなつづらから反物だけを
真っ先に引っつかんで逃げます。ほかにも、丁寧につくられている
炭焼きの現場を見学しました。
珠洲市の里山にある
株式会社ノトハハソでつくられている炭は、
茶室などで使用される高品質なもので、
木の一本一本の育成から管理しているそうです。受け継いだ炭づくりの現場を、
現代にどう活かしていくか考えたすえに、
その品質を高めることにたどり着いたと
大野長一郎さんは語ってくださいました。能登半島の先端にある珠洲地方は震源に近く、
地震で大きな被害を受けたところです。江戸時代の末期に建てられたという古民家で
レストラン「典座」を運営している坂本信子さんは、
激しい揺れのあと、意を決して、
その伝統ある木造建築のお店が
どうなっているかを確かめに行ったそうです。「絶対、倒れてる、と思ってました。
だんだんとお店が近づいて、
最後の曲がり角をまがって、
いよいよそこを見るときは、
息を止めて、どきどきしながら見ました。
‥‥そしたら、元の姿で建ってたんです。
それを見たとき、ああ、ここで
お店を続けなきゃと勇気が湧いてきました」実際、私たちがうかがったときも、
古民家レストラン「典座」は
たくさんのお客さんで賑わっていました。能登の郷土料理もおいしかったですし、
そのあとお茶を飲みながらうかがった
坂本さん御夫婦の話もとてもよかった。能登は美しくて、食べ物がおいしくて、
文化的にもたいへん魅力的でした。
駆け足の旅でしたので、
そのほんの一部を体験しただけなのですが、
またぜひ来たいとぼくは思いました。そして、そのすばらしい場所が、
地震で大きな被害を受けたということも
お伝えしておかなくてはなりません。今回の旅は、能登の人たちと
つながることをゆるやかな目的としたもので、
被災地をめぐるものではなかったのですが、
それでも、あちこちで
地震の爪痕を目の当たりにしました。能登の町並みは古く、
全壊している建物がたくさんありました。ぼくは東日本大震災のときに
東北の被災地をしばしば訪れたのですが、
そのときと大きく違うなと感じたのは、
「道路」でした。東北は被害の地域が広かったことと、
被災地へつながるルートが複数あったことで、
東北自動車道や国道は、
急場しのぎではあるものの、
しっかり直してから通行を許可した、
という印象があるのです。しかし、能登半島で大きな被害を受けた
輪島や珠洲への道はルートが少なく、
その道をとにかく通すしかない。
それで、たとえば道路が大きく陥没していたら、
その部分を迂回するような新しい道路を
すぐそばに部分的に付け足したりして、
いってみれば無理めに道を直している。ぼくは最徐行で進む車のハンドルを握りながら、
その場、その場に生じたであろう、
現場の人の「強い判断」を感じて、
頭が下がるような、胸が熱くなるような、
そんな気持ちになりました。また、ほんとうに微力ではありますが、
珠洲の地域のみなさんに配布するお弁当づくりを
今回の旅のメンバー全員でお手伝いしました。こぼれ話ですが、
お弁当づくりのチームのリーダーの方が、
矢沢永吉さんの大ファンで、
「糸井さんによろしくお伝えください!」と
熱く語ってくださいました。糸井重里は矢沢さんのベストセラー、
『成りあがり』を編集した仕事を通して、
矢沢さんのファンから
リスペクトされているのです。最後に、これから能登方面へ行くことを
検討されている方へ。
金沢市は、地震の影響はほとんどありません。
地震の直後は予定していた旅行を
キャンセルする人も多かったようですが、
いまは外国人観光客をはじめ、
多くのお客さんが町を歩いています。私たちも旅の最後は金沢で一泊しました。
その週末、金沢市では、
作家さんや小さなブランドが集まる
「春ららら市」というイベントを開催していて、
金沢、能登という伝統ある町の
新しい文化を感じることができました。今回の旅の多くの部分は、
一般社団法人「NOTOTO.」の
木村元洋さんが調整してくださいました。
ほんとうにありがとうございました。今回の旅の報告はここまでですが、
能登への訪問は、いまも続いています。きっと、旅の報告というかたちではなく、
もっと具体的な、あたらしいコンテンツとして、
そんなに遠くないうちに、読者のみなさんに
ご紹介できるようになると思います。そして、能登に限らず、
これからあちこちへ、ほぼ日は出かけていきます。どこになにが生まれ、
どこからどんなことがはじまるのか、
たぶん、自分たちがいちばんたのしみにしています。そのはじまりの、能登レポートでした。
それではまた、なにかの機会に。