岡崎体育さんがMCを務めるNHKの番組
『よなよなラボ』
糸井重里が出演したことをきっかけに、
ふたりの対談が実現しました。
ミュージックビデオあるあるが炸裂する
デビュー曲が大きな話題を呼んだ岡崎さん。
以降、笑いを誘う曲に限らず、
聞いた人の胸に響く曲をいくつもリリース。
近年ではさいたまスーパーアリーナで
1万8000人規模のワンマンライブを成功させたり、
『劇場版ポケットモンスター ココ』
テーマソングを担当したり、
どんどん活躍の幅を広げていらっしゃいます
(さらにドラマやバラエティ番組にも多数参加)。
その、のびやかでありながら緻密な印象もある
岡崎さんの活動の秘密は何なのか、
糸井がじっくりと聞いていきました。
「音楽が大好きで、思慮深く、
自分の曲を聞いてもらう努力を惜しまない」
そんな岡崎さんのキャラクターが
はしばしから垣間見える対話になりました。

>岡崎体育さんプロフィール

岡崎体育 プロフィール画像

岡崎体育(おかざき・たいいく)

1989年7月3日兵庫県西宮市生まれ、
京都府宇治市育ち。
本名は岡亮聡(おか・あきとし)。
同志社大学文化情報学部卒。

大学在学中に「愛新覚羅ヌルハチ」、
「ヴァーツヤーヤナ・カーマ・スートラ」
といったバンドを経て、
2012年にソロ・プロジェクト“岡崎体育”を始動。
奈良県奈良市を拠点に
「盆地テクノ」を掲げて活動。
精力的にライヴを重ね、
2016年にアルバム『BASIN TECHNO』でメジャー・デビュー。
「ミュージックビデオあるある」を題材にした
「MUSIC VIDEO」のミュージックビデオは大きな話題に。
2017年に2ndアルバム『XXL』をリリース。
2018年にはタイアップ楽曲や提供楽曲をコンパイルした
企画アルバム『OT WORKS』を発表。
CMやドラマ、映画出演などマルチな活動を行いながら、
2019年1月に3ndアルバム『SAITAMA』をリリース。
2019年6月9日には長年の夢であった
埼玉・さいたまスーパーアリーナでの
ワンマンライブ「BASIN TECHNO」を開催。

大のポケモン好きでもあり、2016~2019年放映の
TVアニメ『ポケットモンスター サン&ムーン』では
オープニングテーマとエンディングテーマを制作。
さらに、2020年12月25日公開の
『劇場版ポケットモンスター ココ』では
メイン・テーマをはじめとする劇中曲
全6曲のプロデュースを担当している。

・岡崎体育オフィシャルウェブサイト
・岡崎体育 Official YouTube Channel
・Twitter
・Instagram

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第2回 音楽が根底にある。

糸井
ぼくくらいの世代だと「ロック」という言葉が
いろいろなものを不自由にしてたんです。
「おまえのその行動はロックじゃない」
という非難があったりとか。
そういう不自由さに自ら突っ込んでいく人が、
大量にいたんです。
そしてつまらない見方をするなら、
「岡崎体育も昔で言うロックと
同じような場所にいる人でしょ?」
と見えちゃうかもしれないんです。
だけど岡崎さんは違うんですよね。
たぶん元に「音楽が好きなんだ」があるから。
なにかの主張をしてるわけじゃなくて、
音楽をやってますよね。
岡崎
そうですね、もともと音楽がすごく好きで。
母親が昔から家でQUEENのレコードをずっとかけてて、
物心つく前から聞いていたんです。
親戚にもバンドを組んでる人がいて
「俺もやってみたいな」からはじまったので。
だから、なんとか自分の名を上げて
音楽で生きていくために、
ネタの曲をつくったりしながら
いろいろ考えてやってきたんですけど、
信念としての「音楽が根底にある」については
常日頃から自分に言い聞かせるようにしてます。

糸井
あぁー。
岡崎
昔から言ってることなんですけど、
いろんなネタの曲をつくっても、
「ネタの上に音楽がのってる」わけじゃなくて、
「音楽の上にネタがのってる」感覚なんですね。
その感覚を持ち続けないと、
たぶんぼく、
途中で頭おかしなっちゃうと思うので。
糸井
この間もなにかの番組を見ていたら、
岡崎さんが「大好きな曲があって」って
紹介していたんです。
そのとき「大好きな」と言い切れる曲が
あること自体が、
すごくいいなと思ったんです。
それだけでもう、音楽への姿勢がわかるんで。
岡崎
ありがとうございます。

糸井
ただぼく、そのときの曲を
聞きたくなって探したんですけど、
うまく調べられなかったんです。
最近のあの番組で言った‥‥思い出せますか?
岡崎
たぶん「Death Cab for Cutie」、
直訳したら
「カワイコちゃん専用地獄タクシー」(笑)
っていうアメリカのバンドの、
「Transatlanticism」という
8分ぐらいある壮大な曲だと思うんですけど。
糸井
そうだ、そんな名前だった。
岡崎
好きな曲ってなると、どんなインタビューでも
一番にその歌を答えてますね。
学生のころ友達に教わったバンドで、
初めてCDを借りて聞いたときに
「わっ、むちゃくちゃ気持ちええなあ」
と思って。
CDを返したあと、自分の家にも置いときたいと思って、
すぐに同じものを買いにいきました。
当時はiPodで移動中は常に聞いていて、
大げさじゃなく1000回ぐらい聞いている曲だと思います。
飛行機の乗り継ぎとか、
京都から東京のライブハウスに行くときとか、
夜行バスで高速道路の電気がバーッと
流れていくのを感じながら、その曲をずっと聞いたりしてて。
なんで好きかとかを
明確に言語化できないんですけど、
「自分の葬式のときも流してくれ」
って言ってたりします。
糸井
その曲は、友達が持ってなければ
聞かなかったですか?
岡崎
たぶん行きつかなかったと思います。
サマーソニックとかで何度も来日してますけど、
日本でそこまで聞いてる人が多いバンドでは
ないと思うので。
糸井
1000回ぐらい聞いちゃってるの?
岡崎
そうですね。
糸井
ぼくもまた、そう思って聞きますよ。
人がものすごく好きだと言うものって、
うらやましいんですよ。
「そんなにかよ」って。
だから岡崎さんという人についてぼくは、
ものすごく素直に人の話を聞くのと、
「この曲が好き」という本気さが
すごくいいなと思ってて。
子供のころから、演奏などもしていたんですか?

岡崎
アップライトピアノが家に一台あって、
小学1年生のときに
ピアノ教室にも習いに行ったんです。
大学生の美人な先生で、
毎回行くのがたのしみだったんですけど、
その先生が就職活動に入るからということで、
いきなり教室を閉めちゃったんです。
それで急にピアノ教室がなくなって、
そこからは習いたかったけど習えなかったから、
ずっと独学というか。
糸井
独学なんだ。
岡崎
楽譜を見て弾くとかじゃなくて、
単純にピアノの鍵盤を押さえて
「こことここならきれいな和音が鳴るな」とか、
遊びながら音楽をやってたりしました。
糸井
最初に習いに行ったのはクラシックですか?
岡崎
ほんとに3カ月ぐらいだったのでよく覚えてないですけど、
いわゆる「バイエル」っていう教科書があって、
それをこなしていく感じでした。
まだクラシックの曲とかを弾きはじめる前の、
楽譜を座学で覚えるような段階で
やめちゃったので。
糸井
そこからは、自分で耳コピして弾いてみるみたいな?
岡崎
とかになりましたね。
母親から「どこかほかの音楽教室行く?」
とも言われたんですけど、
変なこだわりがあって「もういい」って言って。
糸井
でも、ピアノには触れてたんですか。
岡崎
触ってましたね。
学校から帰ってきて、遊ぶ友達がおらん日とかは、
家で弾いたりして。
糸井
ある意味エリートコースですよね。
なんだか、いい条件ばっかりという気がします。
岡崎
家にピアノがあったのは大きかったですね。
教室がなくなって、
ひとりでピアノの勉強をしながら遊んでたのは、
今考えるといい環境だったなと思います。
それがつくる力とか考える力の
礎(いしずえ)になってたのであれば。
あと、ピアノに触れることをやめなかったのは
大きかったですね。
今の人生につながってます。

糸井
そこで「もっとやれ」とか言われて、
クラシックをどんどんやってたら、
もしかしたらダメだったかもしれない。
岡崎
ピアノの腕は上達したかもしれないですけど、
ほかの感覚が身につかなかった可能性はありますね。
糸井
お母さんが意識的に放ってたのかな?
岡崎
いや、むちゃくちゃ過保護過干渉でした。
シングルマザーだったので
「女手一つで」という意識もあったと思いますし。
おじいちゃん、おばあちゃん、
母親の妹も一緒に暮らしてたんですけど、
おばあちゃんおじいちゃんからすれば一人孫ですし、
母からしても一人息子なので、
相当手塩にかけられた自負はありますね。
糸井
愛情の元が多すぎることに、
嫌だという気持ちはなかったですか?
岡崎
思春期の頃は嫌でした。
周りからマザコンに思われるし。
母親が相当心配性で、チャリで10分ぐらいの塾まで
わざわざ車で迎えにきてくれていたんです。
塾の仲間にその姿を見られるのも恥ずかしかったし。
放っとかれてる演出をしてる余裕は
まったくなかったですね。
糸井
自分が親だったときのことを思うと、
案外、親のほうは過干渉したいんですよね。
じゃあ、音楽は「やりなさい」ではなく、
自分から食いついていった感じですか。
岡崎
そうですね。自分で楽器を買って、
大学のときにバンドを組んで、だったので。
やりたいことにレールを敷かれた記憶は
全くなくて、けっこうのびのびやってました。
ただ、音楽にかぎらず、やりたいことを
サポートしてもらった記憶はありますね。
あんまりお金もなかったんですけど、
テニス部に入るときにラケットを買ってくれたりとか。
そういうところも母親の愛情はすごく感じました。

(つづきます)

2020-12-09-WED

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