こんにちは、「ほぼ日」の奥野です。
2年ほど前に
『インタビューというより、おしゃべり。』
という本を出しました。
これは、俳優、画家、自転車修理業、友人、
匿名の会社員、詩人、政治学者‥‥と、
出てくる人がまったくバラバラだったため、
タイトルをつけるのがタイヘンで。
唯一、すべての記事に共通していたのが
「インタビューをとったはずなのに、
出来た原稿は、おしゃべりみたいだった」
ので、こうしたのですが。
今度は逆に、積極的に、最初から
「インタビューでなく、おしゃべりしよう」
と思って、6名の方にお声がけしました。
こころみとして、そうとう無目的。
お声がけの基準は
「以前からおつきあいがあるんだけど、
どういう人か、実はよく知らなかった人」。
それではまずは、お1人め。
ひろのぶと株式会社代表取締役社長である
田中泰延さんです。どうぞ。
田中泰延(たなかひろのぶ)
1969年大阪生まれ。株式会社 電通で24年間、コピーライター・CMプランナーとして勤務。2016年に退職、「青年失業家」を自称し、ライターとして活動を開始。著書に『読みたいことを、書けばいい。』『会って、話すこと』(ともにダイヤモンド社)。2020年、出版社・ひろのぶと株式会社を設立し、代表取締役に。現在、ひろのぶと株式会社のティザーサイトが公開されています。 https://hironobu.co
ほぼ日刊イトイ新聞の編集者である奥野が過去に行ったインタビューのなかの14篇を、星海社さんが一冊の本にしてくださったもの。ご出演いただいた方々の肩書は、俳優、洞窟探検家、自転車販売・修理業、画家、友人、映画監督、俳優、会社員と主婦、映像作家、詩人・歌手・俳優、俳優・アーティスト、政治学者‥‥と、まさにバラバラ。具体的には柄本明さん、吉田勝次さん、鈴木金太郎さん、山口晃さん、巴山将来さん、原一男監督、山崎努さん、Nさん夫妻、佐々木昭一郎監督、ピエール・バルーさん、窪塚洋介さん、坪井善明先生‥‥と、何が何やら。装丁は大好きな大島依提亜さん、装画は大人気の西山寛紀さん、あとがきの部分でわたくしにインタビューしてくださったのは大尊敬する古賀史健さん‥‥と、なんとも幸せ者な一冊です。Amazonでのお求めは、こちらからどうぞ。
- ──
- ブルーハーツに引導を渡されたあとは、
どのような活動を?
- 田中
- 親父からもらったカメラで、
ひたすら写真を撮りまくってました。
- ──
- こんどは、本物のカメラを手に取った。
- 泰延さんがカメラが好きで詳しいのは、
失くしたカメラを見つける旅なのかな。
- 田中
- そうかも。目では撮れなくなったから、
機械で撮ろうと思ったんじゃないかな。
- ──
- グッとくるなあ。
- 田中
- 中でも、女の子を撮ることに目覚めて。
「俺が撮りたいのは、女の子だ」と。 - それも全身でもなく水着とかでもなく、
バストアップもしくは、
顔のドアップを撮り続けていたんです。
- ──
- モデルは、まわりにいた子ですか?
- 田中
- そう。撮りたい人だけを撮ってました。
まだフィルムの時代なので。 - いまはデジタルだから、
撮りたくない人に撮ってと言われても
いちおうシャッター押しますが、
当時は、全身全霊で拒否していました。
- ──
- ははは。何せお金がかかりますもんね。
1枚1枚、きっちりと。
- 田中
- お金がないから、いつも使ってたのは
「ネオパンSS」って、
フジの白黒のなかでも最安のフィルム。 - カメラのナニワで徳用パックを買って。
1本あたりの単価を、
できるだけ抑えようとしていたんです。
- ──
- 当時の作品は、いまもあるんですか。
- 田中
- あります。残ってますよ。いっぱい。
ネガも紙焼きも、山のように。
高校の同級生とか、
よそで知り合った女子高生の写真が。
- ──
- そんなにも女の子のポートレートを、
それも
女の子の「顔」ばかり撮ってたのは、
どんなトラウマですか。
- 田中
- うーん、なんでだったんやろう‥‥
ま、やっぱり、
よろこばれるのがうれしかったかな。
撮って、紙焼きにして、
「これ、わたし?
こんなにきれいに撮ってくれたの?」
なんて言われるのが、うれしくてね。
- ──
- いい話じゃないですか。
- 田中
- ぼくが撮った最初の1枚はこれです。
- ──
- おお‥‥‥‥うつくしい。
- 田中
- これがね、女の子にカメラを向けて、
生まれてはじめて撮った写真。
- ──
- 素敵。お友だちですか。
- 田中
- ぼくは男子校に通ってたんですけど、
近くに
ミッション系のお嬢様学校があって、
そこの女学生で、
当時のぼくのマドンナ的な人ですね。
- ──
- 最初にマドンナを撮ったんだ。
- 田中
- ときどき自分のTwitterにアップして
「ヤスダさん、見てますか?
この写真を見たら連絡ください」と
呼びかけているんですが、
ぜんぜん消息がつかめないんですよ。
- ──
- そんな大々的に捜索されたら
名乗り出にくい気もしますが(笑)。
- 田中
- とにかく親父のカメラを譲り受けて、
最初は、そのへんの
道とか空とか撮ったりしてたんです。 - で、人にレンズを向けて撮ったのは、
このときがはじめてだった。
- ──
- 何か変わりましたか。
はじめて人を撮って。
- 田中
- 人を撮るって何かいいなあ‥‥って。
- コミュニケーションが生まれますし、
写真じたいも
空や道とぜんぜんちがって、ええし。
なにより、
撮らないよりも撮ったほうが、
ちょっとモテると思ったんですよね。
- ──
- 撮らないより、撮るほうがモテる。
- 田中
- だから今もカメラを持ち歩いてます。
- ──
- モテを求めて。
- 田中
- 今日は、渋谷パルコでやっている
「はじめての森山大道。」に
行ってこうと、思ってるんですよ。
- ──
- あ、ほんとですか。うれしいです。
- (※現在は終了しています)
- 田中
- 森山さんって、
本当にすごい人だなあと思うんだけど、
街でひたすらシャッターを切って、
その撮った写真を、
めちゃくちゃトリミングしたり、
めちゃくちゃ拡大したりしはるでしょ。
- ──
- 右と左をひっくり返したり。
- 田中
- だから、写真って、
撮って終わり‥‥じゃないんですよね。
そのさまを
森山大道展で見てきたいなと思います。 - あと、奥野さんがやってらっしゃった
写真家との対話シリーズ
『写真家が向き合っているもの。』も、
すごくおもしろかったです。
- ──
- あ、ありがとうございます。
- 田中
- 写真家の言葉って、
言葉を仕事にしている人の言葉とは、
ぜんぜん違いますよね。
- ──
- 写真家の方と
いっぱいおしゃべりさせてもらって
思ったのは、写真家の人たちって、
「これって何なんだ?」
って問われ続けている人なのかなと。 - 森山さんの場合であれば、
わざわざアレてブレてボケた写真を
発表したときに、
ずっと「これって何なんだ?」って。
- 田中
- はい、はい。
- ──
- そういう問いにこたえるためにも、
自分の中でも
「これって何なんだろう?」を
ずーっと考えてるんじゃないかと。 - 自問自答している時間が長いから、
そのぶん表現が研ぎ澄まされ、
言葉も論理的で説得力がそなわる。
だからなのか、
話していてすごく刺激的なんです。
- 田中
- ぼくらふつう、文章を書くだとか
しゃべるってときに、
言葉をたよりに、
それをとっかかりにしてますよね。 - 言語で思いついたことのまわりに
論理を構えたり、筋道をつけたり、
あえて逆説をくっつけてみたりね。
そうやって
書いたりしゃべっているわけです。
- ──
- ええ。
- 田中
- でも、写真家とかデザイナーとか
絵描きの人たちって、
言葉にならないところから発して、
あとから言葉を与える、
もしくは、
言葉を与えるかどうか決めている。 - だからおもしろいんだと思います。
- ──
- そうですね。
言葉の前に撮っている感じがある。
- 田中
- そう、そう。
- ──
- で、「撮っている」ということは、
その前に、そこに「行ってる」。 - あのカシャッという一瞬の前には、
とても具体的な‥‥
筋肉を動かして空間を移動し、
時間と費用をかけて、
その場所に立つという行動がある。
- 田中
- そう。被写体の前に立たない限り、
絶対に写真は撮れない。
- ──
- 高校生の田中泰延さんが、
マドンナ・ヤスダさんの真正面に
すっくと立ったように。 - そのカッコよさ、
その説得力をすごく感じますよね。
- 田中
- 机上の空論では絶対にありえない、
ということですよね。写真って。
- ──
- ぼくは、写真を撮る人に対して、
冒険家に感じる
憧れのようなものがずっとあって、
それは
プロアマ問わずなんですけど、
だから、
泰延さんにも憧れを持ってますよ。
- 田中
- えっ、ぼくにも?
- ──
- はい。
- 田中
- ぼく、少し前に、
地球始皇帝に即位したんですけど。
- ──
- はい、なんか知ってます(笑)。
- 田中
- ずっと青年失業家と名乗ってたけど、
青年失業家から、
ちいさい会社の社長になったんです。
- ──
- 出版社ですよね。
- 田中
- と言っても、資本金1円さえあれば
誰でも社長になれるわけで、
社員だって一人もいないし、
代表取締役社長ですなんて言うのが、
あまりに恥ずかしくて。 - それで地球始皇帝を名乗っています。
- ──
- いっそう憧れます。
- 田中
- 誰もいない会社で
「みなのもの、朕の前にひざまずけ」
とか言ってるんです。
- ──
- 無人の社内に響き渡る朕のお言葉。
- 設立された会社のお話も、
あとでおうかがいしたいんですけど、
ひとまず、話をちょっと戻して、
バンドをやめて、
写真を撮っていた高校時代のあとに。
- 田中
- はい。
- ──
- 大学生となって上京されたんですか。
- 田中
- はい。18歳で東京へ出てきました。
早稲田大学第二文学部。
夜間の大学に通っていたんですよ。
- ──
- 昼間ははたらいて、夜は勉強をして?
- 田中
- 入学して最初の1カ月くらいは
昼間は雀荘に入りびたって、
夕方から大学へ行ってたんですけど、
5月くらいかな、
同級生に、
大学生だけの事務所をつくったから、
おまえも来いと言われて。
- ──
- 事務所。何かの仕事ですか?
- 田中
- 1988年です。
世の中、バブリまくってたころです。 - 大きな広告代理店が、
学生に好きに予算を使っていいよと、
ワンフロアを与えて、
好きに仕事して売り上げ上げてみろ、
みたいなところでした。
- ──
- へええ‥‥。
- 田中
- 一方、大阪のほうにも
学生だけでつくった株式会社があり、
そこと連携して、
ぼくらは東京で活動してたんですね。 - 具体的にはスーツにネクタイ締めて、
営業マンとなり、
企業からお金をもらうべく、
10万部フリーペーパーを配ります、
広告効果はこれくらい上がります、
つきましては
この枠に800万円くださいとかね。
こっちの枠はちいさいけど
200万なんでお買い得ですよとか。
そんなことしてました、18で。
- ──
- ふぁあ‥‥。
- 田中
- みんなガムシャラにはたらいていて、
「俺たち絶対、
東証一部に上場する会社をつくるぞ」
って言ってるんで、
みんなでつくるのかなと思きや、
「全員が、一人ひとり、
別の一部上場企業をつくるんや」と。 - 頭おかしいんじゃないかなと思って、
1年後くらいに、
ついていけないと抜けたんですけど。
- ──
- ええ。
- 田中
- 結局ね、いま、
全体で30人くらいいた学生のうち、
20人以上が東証上場企業の社長か、
役員経験者になってる。
- ──
- えええ!
- 田中
- 本当にそうなったんです。
- ──
- えええええ‥‥すごい。
- 田中
- ぼくは大学を出て
電通ってところに就職するんだけど、
そのころ
「誰々さんは、杉並のアパートで
パソコン2台だけで、
ちっちゃい会社をはじめた」だとか、
まあ、聞いてたんですよ。 - で、そういう人たちに対して、
アパートでたった2台のパソコンが
ピーヒャラピーヒャラ言うて、
何が企業だ、何がもうかんねんって
思ってたんだけど、
あれから30年経った今、
それがDeNAって会社になってたり。
- ──
- え?
- 田中
- GMOって会社になってたり。
- ──
- ええっ!
- 田中
- 占いのザッパラスとか、
いまは人材派遣のパーソルになった
インテリジェンスとか、
北海道で東証一部上場した
北の達人コーポレーションとかにね、
なってるわけですよ。
- ──
- ひゃー‥‥何ですか、その集まり。
- 田中
- やっぱりね、いまから思い返すと、
みんな
信念とアイディアがあったんです。 - ネットオークションが流行るだとか、
人材を派遣する商売が
これからの世の中で重要になるとか、
そう考えた学生が
いくらまわりにそう言ったところで
「バカ。真面目に就職しろ」
と言われるのがオチじゃないですか。
- ──
- ときはバブルで、大会社に入社したら、
いい給料とたしかな将来とが
約束されていたような時代でもあるし。
- 田中
- それにたいして、「いーや、違う」と。
- 「俺の考えは絶対に正しい、
証明してみせる」と思ってたんですよ。
みんな。
で、実際に証明しちゃったんです。
(つづきます)
2022-04-12-TUE
-
わたくし担当奥野の怠惰のために、
おしゃべりの時点から
10ヶ月後の掲載となった本記事。
先日、泰延さんの経営する出版社
ひろのぶと株式会社の
ティザーサイトが公開されたので、
さっそく訪れてみると‥‥。
本記事第5回で泰延さんが語る
異例の経営方針が、
ことごとく実現されているのです。
10ヶ月も遅れたことで、
はからずも、その有言実行ぶりが
ここに証明されました。すごい!
ひろのぶと株式会社のこれからを、
注視していきたいと思います。