「信頼感はともに過ごす時間から生まれる」
と考える山極さんは、情報化のなかで人々が
「言葉」にばかり頼りすぎて、
ともに時を過ごす「身体性」をおろそかにしがちなことを
とても心配しています。
なかなか会えないコロナの時代、
ソーシャルメディアが拡大していく時代、
私たちはどのようにして集い、共感力を育て、
互いへの信頼を培っていくのか。
いまいちばん考えたい大切なテーマについて、
じっくり語っていただきました。
動画で配信中の「ほぼ日の學校」の授業の
一部を読みものでご覧ください。
山極壽一(やまぎわじゅいち)
霊長類学・人類学者、総合地球環境学研究所所長。
1952年、東京都生まれ。
京都大学大学院博士後期課程単位取得退学、理学博士。
ゴリラ研究の世界的権威。
ルワンダ・カリソケ研究センター客員研究員、
日本モンキーセンター・リサーチフェロー、
京大教授などを経て、2014年から2021年まで京大総長。
2021年4月より総合地球環境学研究所所長。
主な著書に『「サル化」する人間社会』
『父という余分なもの』『家族進化論』
『京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ』
『スマホを捨てたい子どもたち
野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』などがある。
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「言葉のない世界」のコミュニケーション。
ぼくは、これまで40年以上
アフリカで野生のゴリラを研究してきました。
そこから学んだことで、一般の人たちに話せるのは、
「言葉のない世界」のこと。ゴリラは人間のような言葉はしゃべれない。
だけど、ちゃんと群れの中にメンバーとして入れてもらって、
仲間同士、言葉以外の方法で
コミュニケーションをとることができる。
あんまり一般の人は、やったことがないと思うんだよね。
ぼくが研究してきたゴリラの社会は、
「言葉のない世界」というのが
ひとつの特色かなと思います。今の人間というのは、
言葉に非常に頼りすぎてるわけだよね。
でも、言葉というのは、
実は不完全なコミュニケーションだと思う。たとえば「いくら言葉を尽くしても、
自分の真意が伝えられない」って
みんなイライラしてるわけじゃない?その一方で、言葉にならなくたって
ちょっとした合図で意図がわかることがある。「こいつ、こんなこと思ってるんだ。
こういうことを俺に伝えたいんだな」って
わかることあるじゃない?ジェスチャーの方が、言葉よりもよほど信頼性のある
シンボルだったりするわけ。しかも今、我々は
インターネットのいろんな映像や画像の
言葉以外のシンボルによって、
すごく影響を受け始めている。
新しい時代に突入したと思うよ。そのときに改めて、
「我々のコミュニケーションって一体何なのか」を
考え直してみたい気がするんだよね。オンラインは完全なコミュニケーションか?
コミュニケーションにおいて
本当に気持ちをひとつにするためには、
「一体何が必要なのか」ということを
きちんと考えてみたい。今我々は、オンラインで
対話できてるような気になっているけど、
これは考え直した方がいいんじゃないかなと思う。だって、オンラインって、
これまであまり利用してこなかったけれど、
まず、コストが安いし
世界中の人々とあっという間に交流できる、
「すごくいいツールだ!」って
みんな思い始めてるんじゃないかと思うんだよ。だけど本当に、オンラインは人間にとって
完全なコミュニケーションなのか?今、我々にとって、
「これからの将来に向かって『ウェルビーイング』
『幸福』をどうやって作っていったらいいか」が、
すごく大きな課題になってる。オンラインのような科学技術に頼って
どんどん我々の能力を拡大して、
いろんな人たちと付き合うようになることが、
人間にとって幸福なことかどうかは、
もう1回真剣に考えた方がいいと思うんだよね。同じ時間を過ごすことが信頼感を紡ぐ。
ぼくは、ゴリラにいろんなことを
教えられました。たとえば、信頼というのは、
「お互い利益になることを確信し合う」
という話ではなくて、
「同じ時間を一緒に過ごす」ことが
いかに大事かということなんです。
信頼とは時間の関数だと思ってるわけ。どんなにうれしいこと、
どんなに楽しいことがあったとしても
それが数秒で終わってしまうのならば、
その間に信頼関係が芽生える余地はない。楽しいことや辛いこと、いろんなことが起こるけれど、
「同じ時間を一緒に過ごした」という経験が
信頼感を紡ぐんだよね。
それはゴリラから教わった。だってゴリラって大変なんですよ。
アフリカで、ゴリラの群れの中に入るのは
とてつもなく危険なことです。ゴリラは人間よりも力が強い。
だからオスのゴリラに襲われたら
おそらく大怪我をするか、命を失うよね。でも、彼らは肉食動物ではない。
だから人間を襲って食べることはありません。でも、人間に昔から強い敵意を抱いてるんです。
なぜかというと、これは人間が悪いんだよね。人間が彼らの領分の中に入っていって
野生動物を狩って、それを肉にして食べてきた。
だから、人間にとってゴリラが怖いんじゃなくて
ゴリラにとって人間が怖い存在なんです。だって近づいたら、捕まえられて
食べられるかもしれない。しかも昔から、子どもゴリラは捕らえられて
世界中の動物園に送られてきたわけだから。そういう負の歴史が、
彼らを人間から遠ざけてきたわけですよ。だから人間が近づいたら、まず彼らは一目散に逃げる。
怖いからね。姿を現さない。
だから、近づくだけでも大変。「こいつらはそんなに悪いやつらじゃないな」って
思わせることができたら、
30~50mぐらいまでは近づける。そうなると、こっちから双眼鏡で彼らを見る。
でも、アフリカのジャングルの中は
木々や葉っぱに覆われているから、
30~50m先って「まず見えない」と考えていい。草を分けて行かなくちゃいけないし、
暗いから、間近に行かないと彼らの顔すら識別できない。
だって、彼らは顔が真っ黒だからね。ぼくらは「借りてきた猫のように」って、
よく言ってるんだけれども、
彼らに存在を気づかれないようにして、
なるべくそっと近づいていく。まるでぼくらは、 飼われているペットの猫のように
彼らに思われなければいけないわけ。そこまでいくのは、何年もかかる。
しかも、ぼくらがストーカーのようについていくと、
「うるさい」って攻撃してくるわけですよ。そうなると、ぼくらは一目散に逃げる。
そうして、また30m~50mぐらいまで近づいていく。さらに近づくと、彼らがぼくらを
追い散らしにかかる。だって、彼らの方が体が大きいから
まともに戦ったら勝てない。たとえばニホンザルだったら、ぼくらより小さいから、
近づいていって、彼らが攻撃してきても
なんとか防ぐことはできる。でも、ゴリラに襲われたら、そんなこと絶対できない。
ぼくもゴリラに襲われた。
アフリカのガボンという国で、
いちから地元の人たちと協力しながら
ゴリラを馴らしていった。最初は、人間に狩猟されたって記憶が
昔から続いてるから、近づくことさえできなかった。でも、やっと近づけるようになった。
何度も、追い散らされては追いかけ、
追い散らされては追いかけ、というのを続けていくと、
だんだん「彼らの気分が高まってくるな」っていう
感じがあるわけです。それである日、「ちょっとやばいな」とは思ったんだけど
追いかけすぎちゃった。「はっ」と思ったら、
向こうからメスが2頭すっ飛んできた。メスといっても100㎏超えますからね。
人間よりよっぽど大きい。それで、あっという間に前と後ろを囲まれて
同時に飛びかかられた。前のゴリラが、ぼくの右足の膝の上をガンッと噛んで、
後ろのゴリラはぼくの頭を噛んだ。気づいた時には、
目の前にゴリラの大きな顔があったんです。でも、ぼくは、そのでかい顔が、
どのゴリラなのか、わからなかったんです。起き上がった後に、後ろにいた人から
「お前はオスに助けられた」と言われたんです。つまり、ぼくがメスに飛びかかられた後、
間髪入れずに、
その2倍ぐらいの体格のオスがすっ飛んできて、
メスをぼくから引き離して去って行った
というんですよね。僕が目の前で見たでかい顔は、
「メスじゃないな」と思ったら、
オスの顔だったんだね。あの時、ぼくがジタバタして抵抗してたら、
オスにかまれてますよ。オスの犬歯は5㎝以上あるから。
頭をかまれたら頭骨貫通して死んでますね。メスも、犬歯は3㎝ぐらいあるんですよ。
だから、ぼくは襲われた後、
立ち上がった後、まず頭を触った。
この傷が頭骨貫通してたら、
俺は助からないなと思ったからね。でも、貫通してなかった。
凹んでるだけだったんですよ
ただ、スパッと切れてるから、もう血だらけ。オスにかまれてたら、助かってないね。
メスに噛まれたから、大丈夫だったんだけど。でも、前足はひどかった。
ざっくり噛みちぎられて、血が止まらない。しょうがないから、タオルで傷口を巻いて
血を拭いながら、近くの村まで2㎞ぐらい歩いて。
その100人ぐらいの村の診療所には、
看護師さんがいるんだよ。
でも、看護師さんは注射はできるけど手術はできない。傷口は開いたままだし、頭もパックリ開いてるから
これは縫ってもらわないといかん。
たまたまだけど、
ぼくが一緒に行ったチームの中に、
ガボン人の獣医の人がいた。ちょうど、その3日前に
ぼくらは医療器具と薬品をキープしていた。
その中に、すべてがあった。
もう、これは「目下の幸い」ってことで、
獣医の方が「俺が縫ってやる」と言うわけ。「やばいなあ」と思ったんだけど、
「まあ、しゃあないな」。
だって、それしか方法がないから。しかも麻酔も何もなし。
さらに、村人が「ゴリラに襲われた」っていうんで
みんな興味本位でやってきちゃって、
診療所の窓につかまって子どもたちが見てる。「しょうがねえ、ここは弱音を吐けないな」と思って、
「じゃあ、やってくれ」と。それで、頭5針、足は17針縫ってもらいました。
麻酔なしで。ゴリラに襲われて得た教訓とは?
それで、その時つくづく
「思い上がってたなぁ」と反省しました。それまで、ぼくは中央アフリカのルワンダで
標高3000mを超える山の上の方で、
有名なダイアン・フォッシーというゴリラの研究者に付いて
ゴリラの研究をしていたわけです。その後も、二千数百mの標高のところで、
ヒガシローランドゴリラという種類のゴリラを
一貫して研究してきた。そこで、ある自信を持っちゃったんだよね。
「オスだけを注意しておけば、メスはオスに従うから、
メスだけが勝手に襲ってくることはない」
という確信があったんです。事実、ヒガシゴリラもマウンテンゴリラも
ヒガシローランドゴリラも、
メスがオスの前にやってきて
ぼくを威嚇することは一切なかった。だから、オスの動向に気をつけて、
オスに働きかけていれば大丈夫だったんですよ。だけど、標高50mぐらいしかない
低地のガボンのジャングルでは、
生息しているゴリラの種類が違う。別種のゴリラを相手にして、近づけるようになるように
「人付け」を5年ぐらいやってたわけだよな。その時まで「ゴリラはゴリラだ」と思っていた。
そしたら違ったね。
ニシゴリラっていうんだけど、ニシゴリラはメスが強い。それでね、ぼくも頭をやられた後、ゾッとしたわけさ。
メスが俺を殺そうとしたんだな、と思って。だって、頭をかじるのは殺意があるわけでしょ、
人間だったら。だけど、その後でよく見てみたら、
そこのオスゴリラの頭にも傷がある。オスゴリラってのは、後頭部に脂肪の組織があって
ちょうどヘルメットをかぶったようにボコッと出てる。ニシローランドゴリラ
そこを、ぼくもやられたわけだよ。
たまたま人間は、ゴリラと違って脂肪の組織がない。
皮1枚で頭骨につながっている。
だから、骨が陥没したら本当にやばかった。でも、オスゴリラだったら、そこを噛まれても、
大した傷にならないわけだよ。それで、「俺を懲らしめるために襲ったな」
ということがわかって、
ちょっとホッと安心したわけです。メスがオスを懲らしめるなんてことは、
ダイアン・フォッシーの下で研究していた
マウンテンゴリラでは起こり得ない。だけど、低地にいるニシローランドゴリラの中では、
そういうことが起こるってことを
初めて知ったわけだよね。要するに、
種類が違うのに「ゴリラはゴリラだ」
なんて考えていたのは、
私の大変な「思い上がり」だなと思いました。
場所が違えば、ゴリラも違う。実はゴリラって、175万年前に
ヒガシとニシの種類に分かれているんです。
175万年前っていうことは、
人類の歴史でいえば、ホモ・エレクトスという
初めてアフリカ大陸を出てユーラシア大陸に広がった
人類の祖先が出てきた頃です。
そこから何種類も人間は出てきているわけだよね。そのくらいの大きな違いがあるにもかかわからず、
同じだなんて考えたことは誤りだったな、と
テントの中ですごく考えました。そういうことがあって、
ゴリラの個性やゴリラの行動を
もっとしっかり見ようと思いました。オスのゴリラの気持ち。
じゃあ、どうしてオスのゴリラが、
メスのゴリラをぼくから引き離したのか、というと
やっぱり、トラブルが発生するのを恐れたんだろうね。ゴリラの群れ中でオスというのは
けんかを仲裁する役割を負ってるわけです。
ゴリラ同士のけんかでも、すぐにオスが入って仲裁します。だから「同じようなものだ」と思ったのかもしれない。
まだ、ぼくはその集団の中に
受け入れてもらっていなかったんだけど、
「人間との間でいざこざを起こしたくない」
という気持ちは、
そのオスゴリラにあったんじゃないかと思うね。「人間といざこざを起こしたら、
狙われて、攻撃されて殺されるかもしれない」
という思いは過去の経験からあったかもしれない。
わからないけれど。でも、なるべくならばトラブルを起こしたくない、
という気持ちはあったんじゃないかな。
山極壽一さんの授業のすべては、
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「ほぼ日の學校」では、ふだんの生活では出会えないような
あの人この人の、飾らない本音のお話を聞いていただけます。
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