2015年、市原さんが
週刊少年サンデー編集長に就任したとき、
サンデーは廃刊の危機に直面していました。
市原さんは自らの退路を断つために、
本誌に衝撃的な宣言文を掲載。
そこから週刊少年サンデー復活の物語がはじまりました。
マンガ編集者とは?
わたしたちが楽しく読んでいるマンガは
どのように生み出されているのでしょうか?
動画で配信中の「ほぼ日の學校」の授業
一部を読みものでご覧ください。

>市原武法さんプロフィール

市原武法(いちはらたけのり)

マンガ原作者。
元小学館・週刊少年サンデー編集長 。
1974年東京生まれ。97年小学館入社。
「週刊少年サンデー」編集部に配属され、
あだち充、西森博之、満田拓也、
田辺イエロウ、モリタイシなど、
そうそうたるマンガ家を担当。
月刊誌「ゲッサン」創刊を企画し、
2009年の創刊時は編集長代理、翌10年編集長に就任。
新人作家の育成に力を注ぐ。
2015年7月に「週刊少年サンデー」第20代編集長に就任。
2021年10月13日付で編集長退任。

  • マンガ編集者は人を育てる仕事。

    出版社に入るまでは、マンガの仕事って
    原稿をお届けするだけの仕事だと思ってたんです。

    でも実際には、
    マンガ編集者が未熟な若者と一緒に
    二人三脚で物語を編み出して、
    それが100万人の読者に愛されるまで伴走する
    「人を育てる仕事だ」ということに
    『サンデー』編集部に配属され初めて気づいたんですね。

    「そんな世界だったのか!?」と
    信じられない気持ちでした。

    特に、『少年サンデー』は少年誌ですから
    新人育成をする機会が多い場所でした。
    運が良かったんだと思います。

    それがなければたぶん、
    こんなに編集者の仕事を
    続けていなかったんじゃないかな。

    入社して『少年サンデー』に配属されて
    2カ月目か3カ月目くらいで、
    マンガ編集者の仕事がそういうものだという事実を知って、
    それからはもう病みつきですよ。

    入社して初めての年末年始の休みの時に
    「なんで休みなんてあるんだ!?」と
    思っていたことを今でもよく覚えています。

    マンガのことをずっと考えているのに、
    マンガ家と会えないからおもしろくないんです。

    「もう俺は中毒になっているな」と。
    この仕事は来世もやりたいなというくらいに
    はまってるのが分かりました。

    半年ぐらい経った頃には
    「もうこれはやめられん」と思っていましたね。
    新人育成はそれくらいおもしろい仕事だったんです。

    チームで勝てなきゃ意味がない。

    僕は、子どもの頃から歴史が大好きで、
    人間の集合体であるチーム全員で
    何らかのプロジェクトを成功させていったり
    大きくしていくということしか
    仕事としておもしろいと思えなかった。

    就職の時にレストラン業界にも興味があったのは
    そういう理由なんです。

    『少年ジャンプ』も『少年マガジン』もそうですし
    『サンデー』もそうですけど、
    大きな編集部にはだいたい
    エース編集者と呼ばれている編集者がいます。

    一人とは限りませんが、エース編集者がいるんです。

    そのエース編集者になったかどうかを
    測る指標は、
    新連載構成の時期が近づくと
    だいたい編集長から飲みに誘われて
    「何かいい企画はないのか」と言われるようになる、
    ということですね。

    「お前が出してくれないと
    新連載構成できないよ」と、
    毎回新企画を聞かれるようになるんです。
    それで「自分はもうエースなんだな」というのを
    確認できるんです。

    僕も自分の編集部のエースには
    必ず言います。※

    「お前が出さないで
    どうやって新連載構成やるんだ」
    「いい企画出してくれ」と。

    ※市原さんは2021年10月13日付で
    『週刊少年サンデー』編集長を退任、
    2022年4月に小学館を退社。
    現在は、マンガ原作者として活躍。

    僕がそれを聞かれはじめたのが
    入社6年目の28歳の時だったんですが、
    でも、その時に思ったのは
    「うれしくない」っていうことでした。

    入社して初めてサンデーに配属された時は
    主力で働いてる先輩たちはキラキラして見えましたし、
    「早くああなりたい、
    一人前の編集者になりたい」
    「ヒット作を作家さんと一緒に起こしたい」
    という欲望を当然持っていたわけなんですが、
    いざ自分が『少年サンデー』の
    ナンバーワンの編集者になった時に
    ぜんぜんうれしくないんです。

    何が悲しいって、負けているわけですよ。
    「チーム」としては。

    自分たちよりも大きなチームがある。

    プロ野球チームでいうと、
    「自分は三冠王かもしれないけど
    チームはBクラス」というようなことです。

    「それって不幸せな事なんじゃないの?」と思えたんです。

    たとえ自分の成績が半分に落ちても
    チームが勝ってる方が幸せなんじゃないか
    という、不満がすごくありました。

    少年サンデーの低迷の理由を考え続けていた。

    なぜ『少年サンデー』が
    20年にわたって低迷しているのかを
    新入社員のときから研究してました。

    新入社員のときは
    まだ明らかな危機ではなかったんですけど、
    でも僕の中では既に大きく階段を
    転げ落ちていく兆候を感じていたんです。

    ただの、いち新入社員でしたが
    「なぜそんなことになってしまうんだろう」と
    絶えず考えて、
    その時その時に何をすべきだったのか、
    何を失敗したのか、ということを
    ずっと研究していました。

    思い当たった原因のひとつが、
    この時代に遊軍である
    「月刊誌」がないということでした。
    それは「サンデー」というブランドを維持する上で
    本当に大きな瑕疵(かし)だったので、
    初めは「月刊誌をサンデー編集部内で作りましょう」
    という企画書を出したんです。

    28歳の時でした。

    でも当時の部長か取締役かに喫茶店に呼ばれて、
    「月刊誌なんて負け犬の雑誌だ。
    こんなもの作ってる場合じゃない。」
    と言われたんです。

    「お前はエース編集者なんだから
    新人育成を頑張れ。」
    「週刊誌じゃなきゃダメなんだ。」と。

    週刊連載こそが花形なんだっていうのは
    昭和の発想この上なくて、
    「何時代の人なんだ!?」と思いましたね。

    一生懸命「それは間違ってますよ!」と
    言ったんだけど、
    「とにかくダメだ」と。

    ということで月刊誌『ゲッサン』の
    創刊企画は一度封印したんです。

    でも、どう考えても必要なんですよね。

    スピード的に週刊連載はできないけど
    才能がある人なんてたくさんいますから。

    新人育成をする上で、
    サンデーが好きで来てくれて
    『少年サンデー』というブランドで
    描きたいんだけど、
    週刊連載は描けませんっていう人を
    なんで追い出す必要があるのか。

    月刊誌で描いてもらえばいいんですよ。
    誰がどう考えても僕が正しいと思うんです。

    「根性だ!根性で週刊連載させるんだ!」
    「甘やかすな」みたいなことを
    言われていたんですけれど、
    昭和40年代じゃあるまいし
    みんなそれぞれの人生があるんですから。

    「靴のサイズに自分を合わせろ」みたいな
    そんな生き方をマンガ家さんに
    強要するのはおかしい。
    そういう気持ちはずっとあったんで
    「サンデーを魅力的なブランドにするために
    月刊誌の創刊は不可欠である。」
    ということをずっと唱え続けて、
    ようやく34歳の時にその夢が叶ったんです。

    それが『ゲッサン』創刊までの顛末です。

    編集長になったからこそできること。

    編集部には魅力的な先輩や上司も
    たくさんいましたけど、
    どんな意見もどうしてもノイズとして
    気になってしまうんですよね。

    自分には絶えずビジョンがあって、
    そのビジョンを100%の形で叶えるためには
    自分の意思が100%反映させられないといやだったんです。

    なので『ゲッサン』で編集長になって
    自分が完全にリーダーとしてチームを率いて
    いい方向に持っていくということは
    初めての経験でしたから、
    本当に楽しかったですし、
    すごくやりがいがありました。

    『少年サンデー』は2000年にはすでに
    かなりの危機的状況で、
    その頃にはその後凋落していくことが
    僕の目には見えていたんです。

    例えばジーパンにTシャツで
    よろよろとやって来た16歳の少年が
    将来百万部作家になるかどうかは
    誰も保証できないわけですよね。

    なので正解が全くない物語の世界で
    見えないものを見る力が必要なんです。

    当然、見えないものを見て
    「これはダイヤモンドだ!」と
    思った石ころが、ただの石ころである
    可能性もたくさんあるんですけれど。

    でも「ダイヤモンド」として輝く姿を
    妄想する力であり
    見抜く力であり、
    信じる力。
    それが絶対に必要な業界だと思うんです。

    その輝く『少年サンデー』を
    どうやれば再び復活できるのか。
    『ゲッサン』や『サンデーGX』含めた
    「サンデー」というマンガブランドを
    どうやって日本最強のマンガブランドにするか。

    それには逆算して
    何年かかるのかっていうことを
    絶えず計算していました。

    『ゲッサン』の編集長になることで
    自分の思い描いていた計画に沿って
    初めて自由に動けるという状態が
    とても魅力的でした。

    ただ、少し残念だったなと思うのは
    編集長になることで
    現場編集を離れたことです。

    僕は編集長になってしまいましたから
    30歳を最後に新人作家さんを
    一人も担当できていないんです。
    編集長は新人を担当できませんので。

    本当は40歳ぐらいまで
    みんな新人を担当して育成していくんですよ。

    僕自身はそれが一番好きな仕事だったんで
    マンガ編集者としては
    人生10年損したなと思います。

    でもサンデーの状況は待ったなしだったから
    「現場」か「編集長」か
    どちらを選択するかというのを
    2003年頃には決めていました。

    自分がたとえあと10年
    エース編集者としてヒット作を
    バンバンを起こせるとしても、
    サンデーが沈没して
    『少年サンデー』が廃刊して
    しまったら意味がない。

    だったら、
    「たった一人で戦いをはじめる必要がある」
    と判断して、現場での編集は諦めようと。

    それは残念でしたけど
    でも編集長をやってみると
    今までとは違うけど
    同じぐらいのやりがいはあるんです。

    自分一人で編集者をやってると
    多くのマンガ家さんを
    一人ずつしか救えないんですよ。
    自分が担当してる
    数人の作家さんしか救えない。

    でも編集長をやっていれば
    数百人単位の作家さんを世に出したり
    救えたりする。
    これはすごく大きなやりがいでした。


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