2012-12-05-WED |
糸井 | さまざまな国の何が起こってもおかしくない環境で、 ひとつひとつ相手との関係を 築いていくというのは、 毎回おそろしいトライアルですよね。 本を読ませていただきながら、 この人は信じられないほどの数、 その勝負をやってこられたんだなぁ と想像して、すこしゾッとしたんです。 |
西水 | ありがとうございます。 ただ、それはもう、 世界銀行の副総裁という立場を 任されているからには、 全力でやるしかないことですから。 |
糸井 | 西水さんがされていた 世界銀行の副総裁のお仕事というのは、 具体的にはどのような? |
西水 | まず、世界銀行というのは 「貧困のない世界をつくる」 という目的のために、 途上国にお金を融資する「銀行」なんですね。 |
糸井 | ええ、ええ。 |
西水 | 貸したお金でその国が成長して、 お金をちゃんと返済してくれるように、 いろいろな支援を提供していきます。 |
糸井 | はい。 |
西水 | たとえば、あるプロジェクトが その国の事情によってうまく進まず、 このままだと完済できない‥‥。 そういった状況を察知したときには、 各国の政策を変えてもらう「外圧」として動きます。 それが副総裁の重要な役割のひとつでした。 |
糸井 | 話を聞くだけでも、こわそうな役割です。 |
西水 | 責任も非常に大きいです。 けれども、「国民のためになる外圧」として 動かなければならないですから。 |
糸井 | 「やるしかない」。 |
西水 | ええ。 私個人の恐怖は脇において、 権力者に喧嘩をふっかけていました。 |
糸井 | はぁー。 |
西水 | あとね、そういうときには、 現地でお会いしてきた草の根の人々が 私を動かしてくれるんですよ。 彼らが私のハートとなり、声となるから、 「私は権力者たちと向かい合える」と言える。 |
糸井 | ‥‥すごい。 |
西水 | 草の根のみんなに受け入れてもらえなかったら、 喧嘩なんか、そんなん、できしません。 いくら大きなお金を動かせたところで 政治介入は無理なんです。 |
糸井 | はい。 |
西水 | けれども、その国の人たちの思いをかなえるために 世界銀行がいっしょに動くのであれば、 その政治介入は「大義」になります。 |
糸井 | 大きな「大義」ですよね。 |
西水 | ですから私が現地に入るときには、 「現場を知る」という目的とともに、 そこに暮らす人々から 「支持を得る」という目的もありました。 |
糸井 | なるほど。 |
西水 | そうしたことが、世界銀行の副総裁の役割です。 |
糸井 | つまり実際的には、 副総裁が最高責任者なんですね。 |
西水 | そうです。 世界銀行の「総裁」は、 そういった最高責任は持ちません。 筆頭株主であるアメリカから 政治的に任命されていますので、 その責任を持つと銀行として危なくなるのです。 |
糸井 | その仕組みを考えた人は、すごいですね。 |
西水 | 考えたのは世界銀行の設立の父、 ケインズ卿(ジョン・メイナード・ケインズ)です。 あの有名な経済学者の。 だから、世界銀行の仕組みはすごいですよ。 設立時の仕組みがいまだに機能しています。 そうしたしっかりした仕組みがあるから、 私も副総裁の立場で安心して動くことができました。 |
糸井 | ああ、すばらしいですね。 |
西水 | ただ、それだけしっかりした仕組みがあっても、 大きな責任を背負って立つのには 耐えられないと思うほどの孤独がありました。 とくに草の根に入り始めるときの、 さあこれからという瞬間には、いつも‥‥。 |
糸井 | でしょうねぇ‥‥。 あの、これはすこし違う観点からの話ですが、 ぼくが思うのは、 「人々のためになることをする」って、 相当こわいことだとおもうんです。 |
西水 | はい、はい。 |
糸井 | ぼくは、自分が支援みたいなこととか、 なにかをちょっとでも配るような役割をするときって、 まるで天罰が下るんじゃないかというくらいの 強い恐怖がやってくるんですよ。 「これは受け入れられないかもしれない」とか。 「自分は間違ってるかもしれない」とか。 |
西水 | ええ、ええ。 |
糸井 | 「人々のためになること」って 自分のものではないじゃないですか。 主役は受け取る人のほうで。 なのに「ためになることをする」ほうは、 まるで自分のものをあげるかのように、 配るんですよね。 だからその「配る」という行為は 配る側の精神を 腐敗させてしまいやすいものだとも思うんです。 |
西水 | ええ。 |
糸井 | 人間にはその腐敗に対して 「まずいぞ」と思う気持ちもあって、 それが人の持つ、知性だと思うんです。 ‥‥でも、頭ではそう考えられても、 「配る」ときのこわい感覚は、抜けなくて。 |
西水 | わかります、そのときのこわさ。 日本語に昔からある、 「畏(おそ)ろしい」という感覚ですよね。 |
糸井 | そうです、「畏怖(いふ)」です。 |
西水 | その感じは私もよくわかります。 そのときの「畏ろしい」という感覚そのものに、 すごい力があると思うんですよ。 「畏ろしさ」があるから それを「配る」私が、自分を無にして、 相手の言葉を 深く深く、聞く姿勢になることができる。 |
糸井 | はい。 |
西水 | そして、「畏ろしさ」があるから、 相手に受け入れられたときにも 上下の関係ではなく、 「自分も学ぶし、私からも学んでいただく」 という対等のやりとりを選ぶことができる。 私の思う「配る」は、そういう感覚です。 |
糸井 | ‥‥そうですね。 「畏ろしさ」のおかげで、 自分が無になることができますね。 |
西水 | そう。 同時にそこには、 自分のためのものはひとつもないから、 寂しくもあるんですけど。 |
糸井 | 寂しいですよねぇ‥‥。 だけど、その寂しさも含めて、 なにがそれをさせるんでしょう? そういう「配る」行為を西水さんにさせるものは‥‥ |
西水 | うーん‥‥それは‥‥ どこからか湧いてくるエネルギー、でしょうか。 それこそもう「たましい」という感じで。 |
糸井 | 「たましい」。 でも西水さん、ずっと昔から そんなすごい「たましい」を お持ちだったわけではないですよね? |
西水 | それはもう、ぜんぜん(笑)。 いや、「たましい」はありましたけれども、 今とは質的に、まったく違っていたと思います。 |
糸井 | どこかで質が変わった。 |
西水 | そうですね。 変わるのはやはり、 自覚の問題じゃないでしょうか。 |
糸井 | そうか‥‥自覚。 「やるしかないんだ」という自覚ですね。 |
(つづきます) | |
2012-12-05-WED |