Drama
野田マップの稽古場の隅で。

●第1回●

糸井 僕、野田さんの舞台って、中抜けしてるんですよ。
初期のものと、最近のものしか見ていないんです。
野田 でも初めて見てもらったのは、
もう20年近く前じゃないですか。
糸井 駒場で見てますから。
野田 20年を越えてるよね。
糸井 うん。で、あの時は「芝居とは何だ」っていうのも
知らなかったんです。
それ結構重要で、芝居作ってる人たちって
「芝居とは何か」をお客さんがみんな考えて
観に来ているんだと誤解してるんですよ。意外に。
ところがお客さんっていうのは、芝居とは何かなんて
考えないで、楽しいとか気持ちいいとか興味あるとかで
観に来てて。まさしく俺はそれだったんですよね。
で、まず思ったのは、この技法というか、
この表現ていうのは気持ちがいいな、っていうこと。
「速度」があったんですよ。当時は。
「速度」っていうのって表現なんだ、
スポーツだけが争うために速度を使ってきたけど、
「速さ」っていうのは表現なんだって思った。
当時はまだ時代的には「速度」っていう
概念がなかったんです。
将棋打つみたいに、ためて考えて、「さてあなたは?」
みたいなことが主流だった。
論争もそうだったじゃないですか。
ところがあの芝居を観たときに、
速さがあるということで、これを表現の軸に入れた人って、
他に前に誰がやったかは知らないけど、
僕は初めてだぞ、と思って面白かったんですよ。
で、しばらくは追っかけてたというか、
やる度に観させていただいてたんだけど、
芝居を観る雰囲気がだんだん僕の中になくなっちゃった。
たぶんそれは芝居全体が衰退してた時期があったんだと
思うんだけど、そこに目がいかない時期があったんですね。
で、ずぅっと経って両方の共通の知り合いの長谷部浩が、
「それはもったいない」って言ったんで、
『Right Eye』を観に行ったんです。
野田 そうだよね。
糸井 そうしたら、「大損してた!」と思ったんだ。
この僕の観ない間に、自分が動いてたように、
もっとダイナミックに動いてたものがあったっていうので、
『Right Eye』を観てそうとうショックを受けた。
『Right Eye』以後は、芝居観てる間に
俺の頭がずっと動いてる。観客なんだけど、
違うもの作りながら芝居を観てるっていう
新しい体験ができて。この快感だね。
『半神』もそうだったし、今日の『パンドラの鐘』の
稽古もそうだったけど、小説でもいい小説読んでる時って、
自分が違う小説書いてるじゃないですか。
野田 うん。時々止まっちゃうしね。
読むの止まってて違うところにいることがある。
糸井 今日の稽古はズバリそれで。
何本か文章書けるくらい、頭が動いてたね。
このおもしろさ、お客さんはきっと
無意識に味わってるんだろうね。たぶん。
野田 面白い芝居観た時ってやっぱそうだなあ。
頭の中身がよく動いてますよね。
糸井 そうそうそう。「受ける」って「作る」ことだから、
くるくるくるくる「裏・表・裏・表」になってる。
反射してお客が考えてることって、
役者にぶつかったり演出家にぶつかったり、
もう相互にキラキラキラキラしてるんだと思うんですよ。
それを味わえるっていうだけで、僕はもう、
「テーマ、なんだったの?」
って言われてもよくわからない、わからないっていうより
どっちだっていいんですよ。
そこからいくつ何が考えられたのか、っていうか、
イメージできたのか、っていうのが、
芝居でいちばんワクワクする部分ですね。
野田 糸井さんがはじめ観てたころと、今やってるのと
違うところがあるとしたら、俺、モノに対するあたり方が
シンプルになってるんです。
20年、歳とってくと、盆栽でもなんでも
シンプルになってくみたいなものですよ。
歳とるとそうなっていくのが嫌だなと思いながら、
自分の中でものを出すというときに、
「いらねえな」って思うようにどんどんなってきている。
つまり、いま言ってるのは、
結局お客さんがどう想像するか、
お客さんの中で組み立てられることじゃないですか。
今度なんかも、紙一枚の方がいいのかもしれない。
手を込んだ色を塗ったりしたようなものよりは、
結局、いろいろ想像をかりたてて
一人一人の物語ができるわけじゃないですか。
そういうのは、やっぱり、糸井さんの観てない間に
実は俺の中で変わってるんですよね。
糸井 それって、イギリスに行ってたのって
影響してるのかなぁ?
野田 ある、でしょうね。
俺、イギリス行って帰ってきて、
イギリスでワークショップもやりながら
同時に毎晩芝居観てたりするでしょう。
それである日、ふと考えたんです。
なぜ舞台には椅子が出るんだろう。
そう思ったときに、
「あっ、稽古場にあるからだ!」
って解った。つまり稽古場で、大道具の替わりといったら
椅子がでるわけですよ。結局、椅子でいいんだよね。
つまりそうすると、椅子でいいんだったら、
全部椅子でいいんじゃん、っていうふうになって、
それで帰ってきたとき、第一作『キル』っていうのを
やったときは、まず、布をいっぱい使った。
それがすごく気持ちがよくて、その後椅子でやって、
やっぱり面白かったんだけど、
椅子ばっかり使ってても馬鹿だと思ってしまって。
今、最近楽しいのはテーブルなんですよ。
今回も、大きいセットはあるけど、
あとはテーブルなんですよ。
テーブルもいろんな変化が持てるから、
そういうことなんだなあ、
それがイギリスでの変化かもしれない。
糸井 いまの発言そのものが野田芝居に近くて、
それを考えると僕なりにまた考えてるわけですよ。
聞きながら。
世の中で一番語られたものって「コップ」じゃないかなって
今思ってるんです。つまり人の前で話をするときに、
人々はコップと水差しをいつでも前にしてるから、
「例えばですね」というときに、必ず
「ここにコップがあります」ってやりますよね。
俺、人の前で話すことってあんまりないんだけど、
コップを持ちながらもコップで話すことが嫌なの。
ほんとは。それが若いときで、今はだんだんと
これだけ語られてきたコップについて
俺はまだ喋りたいって思わなければ
喋りたいことってないんだな、
っていうふうに思ってきて、
だからあえて今「コップ」なんだ、っていうふうに。
野田 「例えばコップがありますよね」って
なかなか若いときには言えないですよね。
糸井 言えない言えない。
だから、野田君の昔の芝居には高さがある、とかさ、
速度でも中速もあるし高速もあるしみたいなこと、
「全部俺はわかってるぜ」って出さないと、
大人にも認められないし、
若い人も手たたいてくれないから、
一応メニューとして出すじゃないですか。
でも今は、メニューいらなくなっちゃって、
赤ん坊の時の原体験に近いような体癖だとか
どうやっても俺は行っちゃうな、っていう部分を
一生やり続けるみたいな、そんなふうになってきた、
っていうふうに見えるんですよ。
で、稽古で見てたのは、
「あっ、こいつ何も変わんねえもの、あったぞ」
って思ったんだよ。
クイズ。野田芝居って全部クイズ。
つまりスフィンクスの出すクイズと同じで、
全部に対して「何でしょう?」って。
そこのなかで図を使ったり説明することもあれば……
野田 ああ、昔はそうだったね。
糸井 あれは今お笑いの人に流れてるんだよね。
お笑いの人ってのは結局1人だったり
2人だったりする芝居だから、
野田君が発明したものってのを、
後で覚えてた人もいるだろうし、
自分でもって思った人もいるけど、
あのクイズ方式っていうのがないと、
今のお笑いって成り立たないぐらい野田芝居なんですよ。
今日も稽古見てたら相変わらずクイズで、
だいたい自問自答型。
それはもうたぶん体の形みたいな癖(へき)なんだなぁ。
野田 謎解きだよね。謎解き型だよね、確かに。
糸井 クイズの解法っていうのが何種類もあるっていうところが
並じゃないところで、科学で解決する解き方もあるし、
哲学で解く方法もあるし、詩で解く方法もあるし、
単なる言葉遊びでも解けるし、
解き方が無限のクイズを出し続けて、
きっと謎の死をとげるんじゃないかな。
野田 なるほど。俺、今日ね、あの、あそこ見たかなぁ。
ざぁっと大勢出てきて王を、さも幽閉するところ。
あそこ作りながら、こういうとこは俺って
変わらないんだなって思うんだよね。やっぱ20年間。
でもこういうところってやっぱり
変えなくていいんだよなぁ、とか思って。
糸井 変えなくていいだろうね。
野田 こういうダイナミズムって自分で見てて気持ちいい。
しょうがない。そう、癖っていうか体癖だからね。
お客さんもその癖が好きで観に来てるんだろうから、
だからシンプルとか言いながらも、
役者の、自分の体から吹き出るアンサンブルとか
言いながらも、あそこでは、
すごく自分だけの趣味のステージングを
やってるわけですよね。
もう他人の肉体をオブジェとして使ってやってるんだけど。
たぶんその20代の時っていうのはそればっかし。ほとんど。
そういうふうにしてやっていたんだけど
今はまた全部っていうわけではなくなってるんだけど、
でも癖ですよね。その謎解きとそういうダイナミズム。
糸井 楽しさってそこで、謎解きっていうのは
あらゆる表現の基本だと思うんだけど、
やっぱり今世の中でお利口な人はものすごく増えてて。
野田君が東大だったからっていうことじゃないんだけど、
東大で昔だったら法学部から官僚になったタイプの人が
民間に流れたり、それこそエンターテイメントの世界に
流れたりする。そうするとそこで、普遍的に通用する
ロジックを組み立てることはものすごく上手になった。
だからやりとりはとっても便利になってる。
つまりデジタル信号がメールで送っちゃったら
誰にでも同じに再現できるように。
でもそこには魅力なくって「癖」が入らんないわけですよ。
だから同じ信号なんだけど、でかい声で言うと違うとか、
そういうことについて考えてる人か考えてない人かで
全然意味が変わってくるんだけど。
今の世の中の退屈さっていうのは
そこでの癖のなさ、いわばアナログっていう部分とか、
生理だとか、しょうがねぇもの。
野田 汗、鼻水。
糸井 そう、汗・鼻水。てんてんてんてんってたどっていくと、
それは「信仰」だと思うんですよ。宗教というか。
オウムやめない人って、信仰があるんだから
やめさせられないんだよ。
それは全員が持ってることで、
金が好きな人から金奪うのができないのと同じなんだよね。
そこの部分を「ないこと」にしちゃうと
結構うまく15ゲームみたいなロジックができるんだけど
そんなゲーム誰も面白くないんだよね。
世の中の退屈さがずうっと、
このところのずうっと流れで「やだな」って思ってる部分、
いい人だし頭いいんだけど
この人と一晩いたら退屈だろうなっていう気分は。
野田 それはあるよねぇ。一晩喋るってすごいことだよね。
糸井 すごいことですよ。

(つづく)

1999-11-15-MON

BACK
戻る