Drama
野田マップの稽古場の隅で。

●第4回●


野田 ここ(稽古場の2階)からだと
どのぐらい見えるんだろう?
糸井 舞台の奥のほうだけ、3分の2くらいかな、見えてた。
野田 あー、そうかそうか。
糸井 見えないぶんだけ、特に言葉が立つね。ここにいると。
野田 ああ、逆にね。
糸井 だから「ファイト一発!」のあたり(銀粉蝶さんの
アドリブのこと)とか、あの辺の違いとかは
下で見てるより上で見てた方が言葉が立ったね。
野田 この前タイの『赤鬼』っていうのをタイ語に翻訳して、
タイの役者でやったんですよ。
2年前にやって何回か再演してるんだけど、
そのときって日本語はイヤホンガイドなんだよ。
俺の原作、ほんとの言葉はそれから聞こえる。
耳から入る。意味が。
そして舞台から聞こえる響きは、タイの響きだった。
俺は初めてそれを聞いたときに
すっごい不思議な体験をしたんだ。
最初慣れないんだけどね、
「あ、言葉って、意味と音ってこんなに離れてるんだ」
って。
糸井 離れてるね。
野田 普段こうやって喋ってると。言葉が「意味と音」だなんて
全くなんにもわかんないのに。
とにかくその芝居の最初、脳が慣れるのに10分くらい
かかる。意味は日本語で、音はタイ語で
脳に入ってくるのに。
そのうち10分位すると、みんな言ってんだけどね、
すんごい気持ちいい快感になってって。
糸井 ポリリズム、みたいになってくわけだ。
野田 そう、そうなんだ。それでね、まさにそうなの。
脳が2つある気がして来るんだね。
あれは面白い体験だった。
糸井 それを極端にしたやつが、八谷(はちや)君っていう
現代作家がいて、「視覚交換マシン」てのを作ってる。
たとえば野田君と僕がお互いに眼鏡をかけるんだ。
僕の頭に付けたカメラの映像が野田君の眼鏡に映る、
っていう形で、いつでも自分が見れてるんですよ。
視覚に。抱き合おうとしようが、握手しようとしようが、
鬼ごっこしようが、ものすごい混乱に陥るんだけど、
自己が薄くなっていく快感があってたまんないんだ。
ぞくぞくするよ。
野田 それってさ、ゆくゆく起きることかもね。
糸井 あるかもしれない。
野田 だってそれ、視覚をそうしさえすれば、
自己って変わってくからね。
糸井 変わる。
野田 視覚ってめちゃくちゃ強いからね。
糸井 俺、実験をするんだけど、
例えばポルノグラフィーで、
「女になるのができるだろうか」
って思いながら見るんだよ。
つまり極端なコミュニケーションが分化してるから
成り立つじゃないですか。
愛だとか、性だかいうものって。
それだけ分化したもので相手側に立てるかっていうのを
大脳でどこまでできるかっていうのを一人実験をする。
それおもしろいぞぉ。
どこまで女になれるかって。
で、ぎりぎりまで行けるよ。行ける。
つまり、喧嘩のシーンでもきっといいんだろうけど、
ボクシング見るときに最初に始めたんだけど、
日本人だから日本人を……
野田 応援するんじゃなくてね。
糸井 日本人に加担してると、正確なジャッジって、
俺らにはもうできないんだなって思うわけですよ。
そのときにできるだけ相手になろうって思いながら
見る練習をずっと積んでるんですよ。
相手のパンチが「おお効いてねぇ効いてねぇ」っていう
気分で見るんだけど、しょっちゅう揺り戻す力が、
「引力」があるわけ。
日本人であるアイデンティティの方に。
それをね、行ったり来たり行ったり来たりしながら
どうだろうな、8対2で日本人かな。
どうしてもだめなんだけど。
でもね、パンチみたいな肉体の言語は
結構、わかるんですよ。
それをいろんなことに押し進めていくと
簡単な会話だとかで相手の立場に立つだとか、
たぶんできるようになって、これは道徳的に言うと
「思いやり」なんだけど。
そこの視覚実験を単純化したのが八谷さんなんだ。
でも毎日あるんだよ、そういうシーンってね。
相手の立場に立ってね、って言われるんだよ。
野田 でも憎悪っていうのは日本人のアイデンティティを
越えるね。ほら、自分の嫌いな日本人選手って
負けちゃえって思うじゃない。オリンピックだったりさ、
すっごいもう昔から嫌いなのがいたりすると、
日本選手でも、「負けろ負けろ負けろ!」とか
言っちゃうもんね。
糸井 ああ、越えるね。
野田 そうすると周りからひどい目で見られるんだけど、
これは越えるな。それ以外はほんとなんでもないのに、
日本人を応援してる。ときどき考えるね、ふと、
なんで一所懸命日本人ばっかり応援してるんだろうって。
糸井 おかしいよね。国際試合を、例えばワールドシリーズを
観るようになって、俺らの視覚というか、
脳が変化してるんですよ。外人同士の試合じゃないですか。
それでも応援する。
野田 それ不思議なんだよね。イギリス住む前は
イギリスなんて全然応援してなかったのに
日本の次に何応援するかっていったら、
イギリス応援するもんね。
糸井 あ、そうだ。見事だね。
野田 見事だよ。こんなに見事なのかって思うぐらいで、
あらららら俺って何、こんなもん? みたいな。
糸井 そうだよね。
野田 やっぱ暮らしたところって自分の一部になってるのかな。
長く暮らしたとこって。
糸井 昔の友達だってそうだし。
野田 そうそう。昔からの友達だと、
芸術作品として観たとき駄目だと思っても、
なんか許してるんだよね。いいよ、大丈夫だよみたいな。
糸井 そこじゃないところに、
俺だけに見えてる場所があるんだよ、っていうようにね。
野田 うんうん。なんか許してるんだよね。
糸井 あれ両方大事な気分で、「気分」としか言いようが
ないんだ。どっちかになっちゃうと単なる批評家というか、
つまんない意味での批評家になっちゃう。
面白い批評って、やっぱり許してる部分について
自己批判ができてる批評じゃないですか。
それを観客がいずれ持てる時代が来たら、ユートピアだね。
野田 そうだね。そうだね(笑)。
そこで観るものって、でも面白いかな?
糸井 面白い。いや、面白い。
だって俺それに今近いもん、立場。
何が一番面白いって、作ることが一番面白いわけで
観ることじゃないんですよ。
そのときに、作ってる本人の次に面白い立場になろう、
と思うと、どんどんクリエイティブになるんですよ。
観客席にいながら。
そこのスリルって客がゼロになってくし、
自分もゼロになってくっていう喜びなんだ。
僕は詩的に言うと、
「物体は無いのに速度だけがある世界」
っていう言い方をするんだけど、
そこにたどり着きたいんですよ。

その気分はね、きっと将来的には、今でもその……、
すごく現実的な言い方だけど、
日本の65%は情報産業なんですよ。
サービス業とかモノを作ってないわけです。そうすると
テープレコーダーを作ってる会社の人が演劇を見ている。
演劇を見ている人がテープレコーダーを愛用している。
作る立場に立てるフォーマットを持ってるわけ。
それが絶えず交歓してるわけだよ。
そうなったときに作り手同士が「世界同人雑誌」を
産んで、人類は消えるんだと思うんだよ。
これは楽しいと思う。
どうせ終わるんだからさ、
エンドレスだとしたらそんな嫌なことは無いと思うけど、
でも最後はさ、『あしたのジョー』じゃないけど
真っ白になるわけじゃない。
真っ白を経験するまでにはそこまで行った方が、
それを夢に描いた方が、俺は気分いいね。
野田 世界同人雑誌ね。
糸井 世界同人雑誌。全員が作り手であるような世界。
飯喰うときも、料理の批評家であり作り手であり、
喰う肉体でありっていうのがすごい勢いで交差してて、
そこでの脳の信号の交差が快感なんだよ。
そうなると思うんだよ。
もうだって俺スポーツなんかそれに近いと思うよ。
日本の選手が出てないサッカーを観てるサッカーファン
なんか感じてるはずですよね。
そいつが元サッカー選手だったらもっとだよね。
それが世界同人雑誌の始まりだよね。
対立が、シェアになってくっていうのかな。
野田 演劇家は、でも本来そういうことだからね。
向こうのやつ観るのが面白かったりするからね。
糸井 そういうとこが自分と違うんだよ。
野田 混じったり、あと同じ人間なのにバランスの取り方が
違うとか、リズムが違うんだとか、
指のしなやかさが違うんだとか、
そういうことを知るのはすごく面白いね。
糸井 おもしろいね。結局人の体癖に行くんだよね。
オリジナリティとか。
前に、俺、シカゴで暇な時間ができたときに
美術館に行ったら、歴史順に絵が並んでて、
宗教画しか無いような時代からずーっと並んでたのを見て。
そしたら、宗教画なんだけど、
肌色が肌色になった瞬間があるんだ。歴史的に。
今それを見ると度肝を抜かれるんですよ。
ただ同じようなシーンが並んでるんだけど、
急に肌の下に血が流れた瞬間があるんですよ。
あれを最初に描いたやつはすごい大冒険だったろうな。
神様の絵を描いてるわけだから、
血なんか流しちゃ駄目なのに、
肌の下に血を流したやつが、絵描きがいて、
そいつはその時代に果たして受け入れられたろうかって。
野田 肌の下に血を流してるの?
糸井 つまり、肌色がね、人間じゃない肌色をしてるんだ。
それまでは。宗教画だから。神様だから。
それが急にね、色っぽいピンクになるんですよ。
あのピンクの絵の具を、色を作って描いたやつの
ドキドキ感っていうのが観客の俺に急に伝わったんですよ。
早い話がオリジナル以外は残らないなって
いうことなんだけど。
それをやった冒険があったおかげで、
神様の絵を描くことが人間に近づいたんですよ。
ああいう大冒険は彼の体癖から生まれたんだと思うんだよ。
「いやぁそんなこと言ったって
 俺は人間の女の肌色が好きだ」
っていうような、描かざるを得ないような叫びが
あったんだと思う。でも「フリ」はしてるの。宗教画の。
そこの遵法闘争が面白くてね。
歴史順にただ見るっていう教科書みたいなやりかたって
意外に面白かったね。この中にも、きっとそういうさ、
俺しかやりたくないことっていうものがいっぱいある。
さっきの、閉じこめるシーンていうのは
他の人が同じようなことやってもそうならないんだよね。
野田 うん。ならないと思うな。
糸井 ならないんだよね。
音楽の強要するかのような使い方。
あれだってあんなに強要しちゃだめでしょって言う
バランスの人も大勢いるよね。
野田 あとまあ、モノの使い方とかね。
糸井 そうそう。モノもそう。

(つづく)

1999-12-03-FRI

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