Drama
野田マップの稽古場の隅で。

第5回

糸井 野田君のキャラが、もう完全に出てるっていうことは、
マニュアル化するやつが出てくるってことだよね。
野田秀樹のマニュアル。
「君も野田秀樹になれる」。
野田 マニュアル化、あるよね。絶対ある。
糸井 「群衆シーンのダイナミズム」とかタイトルつけてさ。
野田 マニュアルを壊す楽しみはまた「癖」だからね。
読まれたと思ったらね。
糸井 治んなくていいやと思ってるところと、
気づくんだったら次のクイズが解かれちゃうんじゃないかと
思ってる気分と、両方あるよね。
野田 あるある。
糸井 あとわざと、単に、無手勝流になる瞬間とかね。
野田 あと、なんだろうな、クイズを繋げていく癖もあるんだな。
今日のは、転げてるところ、ゆっくり回転していく場面、
いい思いつきだな、とか思ってやってるわけ。
それってどうかな? ってとこから始まる。
糸井 あの回転の遅さは面白いね。
野田 それを見ながら、次のクイズをもう考えてる。
これは結局、落ちていくことをクーデターとして
表現したわけだから、クーデターが失敗したときは、
クーデターを起こした集団が、そこの階段、
本番ではこの稽古場の階段よりも大きくなるんだけれど、
そこから全員が集団で、逆に、あの動きで落ちていく。
集団で落ちていくっていう。そうすると謎解きがもう一つ。
糸井 ああ、逆回転ね。
野田 それはさっき稽古場で思いついてたんだけど。
糸井 クイズのバージョンアップが始まるわけだね。
野田 バージョンアップだよね。
糸井 バージョンアップは、日々あるんだよね。
野田 そういうのって、さっきも話したけど、
現場って偶然性のすごい強いものだからね。
それが俺この仕事の大好きなところなんだけどな。
糸井 ある意味では宗教家みたいなところがあって、
その偶然性を信じるっていうのは信仰ですよね。
それのないものが世の中を埋め尽くして、
つまり「官僚社会」対「信仰社会」みたいな
ところがあって、そういうことを観に来るんだろうな、
俺ら。生き物を観に来るというか。
野田 僕が稽古場に来る理由というのは、
やっぱり「なんとかなる」っていう、楽観的な宗教だよね。
糸井 ああ、いいなぁ。
野田 稽古場に行きゃなんとかなる、なんか思いつく。
机の上でずっと思いついてると、
詰まっちゃうことがあるじゃないですか。
「ま、いいや。稽古場に行けばなんとかなるだろう」
っていうのが結構……。
糸井 それさ、さっきのその女側になるポルノじゃないけど、
役者側に立ってもう一回ひっくり返したクイズを
今思いついたんだけど。
役者さんが出番の無いときの真剣さを、俺、ずっと観てて、
愉快というか、かっこいいなとは思うんだよ。
スポーツみたいだな、って。
だけどあんなに真剣に何か意図を再現しようとしてる
役者さんたちっていうのは、
そのままでいいんだろうか、っていう気持ちにも
同時になるんですよね。
例えば僕の場所から天海祐希さんがよく見えてて、
ものすごい真剣に見てて、
楽しんでもいるし見てもいる。
だけどここから出すクイズの方法は無いんだろうか。
つまり役者さんていうのは、
野田一神教のなかで役者をしないと
芝居が成り立って行かないのはよくわかるんだけど、
その中で「壊す」というか、クイズ内クイズを
出してあげないと、同人雑誌としては
本当は成り立たたなくなるんじゃないか。
すると役者はこれからどう生きてくんだろう、っていう。
野田 今日の稽古場なんかはそんな感じだけど、
松尾スズキとか古田新太とかっていうタイプは
クイズ内クイズだよね。
糸井 やってる?
野田 やってる。
糸井 それは書く側の人が役者やってるからだろうなぁ。
野田 松尾なんか特にそうだね。
糸井 やっぱりそうなんだ。あと野田君、
自分で出るときもそうじゃない。
野田 そう、自分で出るときもそうだね。壊すとか。
糸井 変えちゃったー、って、あと受けてくれる偶然性を
待ってるじゃない。
そのときにマニュアルどおりの人がいると
「おいおいおい、もう一個クイズあったんだよ、
 もったいないじゃないか」
って気分になるじゃない。ねぇ? その楽しさは……、
野田 それはほんとに、
感じることができる人とできない人とがいる。
もうそれも癖なんじゃない?
糸井 感じることができない人がいた方が
逆に骨格がしっかりする。
野田 しますよね。でも、全部そうなるとね……、
糸井 困るよね。
野田 困るしね。そのバランスって、大きいよね。
俺と松尾のシーンなんか、今、まとまらないまとまらない。
糸井 それ見たかったなぁ。
野田 糸井さんが見学に来る前にやってた。
糸井 そうかぁ。
野田 まとまらない、まとまらない。
糸井 俺らはなんかそういうの
大笑いしながら見ちゃうんだろうけど。
野田 稽古場も喜んで見てんだけど、やっぱ現実には
本番の舞台に向けてっていうと、どっかでやっぱり……。
でも松尾も俺もお互いが譲っているつもりでいるんだよ。
ここが作家のやっかいなとこだね。
糸井 そっか。だからもっとひねくれるわけだよね。
譲らないなら譲らないでいいんだけどね。
対立になるからね。
楽しそうだな、演劇。
野田 演劇は楽しいかもしんない。
糸井 楽しそうだなぁ。
野田 でも楽しい時期と、ちょっとこう自分の中で
窮屈な時期っていうのが、この何十年でもあって、
やっぱ今ってすごく楽しい時期だね。
劇団の終わりのころってやっぱちょっと窮屈だったな。
糸井 劇団っていう形で固定しなきゃなんない、
っていうのは……。
野田 そうそう。最後のほうはなんて言うかなぁ、
稽古場に行くことがそんなにワクワクしなくなってきた
ときに、やっぱり自分の中でやばいなぁって。
このまんま、そういう例をあげていいかわからないけど、
新劇の劇団みたいな、組織的には大きくなって、
そのころ遊民社なんかも全盛だったから、
まだまだ稼げるとは思ったんだけど、
そういうふうになっていっちゃうと
いつかこっちがしっぺ返し喰らうもんね。
糸井 つまり三角形が確立しちゃうからね。
価値観もたぶん稼げる価値観ていうのは
頂点に立ちやすいんで、
特にマネージメントの方がちゃんとやればやるほど
効率はよくなるし、ああ便利になったっていう
気分はあるけど、幸せが消えるわけだよね。
野田 そうだね。それはね。それで話、全然違うんだけど、
さっきの三角形の横倒しと縦の話するとね、
俺、クリムトのあの時代のウイーンの世紀末美術の
評論ていうか、簡単なの書こうと思ったときに、
四畳半に横にこう寝てたわけ。
それでね、そいで、なんでこうやって
考えてると楽ちんなんだろう思ったときに、
人間て立体になるのが大変なんだ。
つまり眠ってたり死者であることは楽なのに。
そんときにクリムトの絵とかってさ、ていうか、
西洋人の考え方っていうのは、美術を立体化、
三次元にしようとした。平面なのに。
横だったものを立てようとしたから、
だからそれが西洋の、要するに「思考」なんだよね。
そこにあいつら窮屈を感じて
すごく不幸が始まっちゃって。近代の。
糸井 直立二足歩行の呪縛。
野田 そうなんだよ。
それをクリムトなんかとか、
要するに日本の浮世絵とかに影響を受けたやつってのは、
浮世絵とかを見たときに、あっ絵は平らだ、
ってことにたぶん気が付いた。
ゴッホなんかにしても。
だから逆に全然違うことを始めた、
その話を思い出した。
糸井 見事にそうだ。
野田 本当にそれはもうさっき糸井さんが言ったみたいに、
神様の問題も全部つながってるだろうし。
でも本当に今そこのところで止まってますよね。
棲み分け以上のことってそんなにもう、
なくていいんだよね。

1999-12-13-MON

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