──
大三郎さん、この映画を観たあとに
「音」について、おっしゃってましたよね。
大三郎
そうですね、先ほども言いましたけど
観る前は、修道士の生活が
静かに描かれていくんだろうと思っていて。
── ええ。
大三郎
実際、そういう映画だったわけですけど、
ひとりの修道士が
「わたしたちは、この生活を送りながら
本質を探り出さなければならない」
というようなことを、言ったんですよ。
そのことが、ずっとひっかかっていて。
── と、言いますと?
大三郎 まったく静かな世界に見えますけど‥‥。
── 基本が「静寂、沈黙」ですよね。
大三郎
でも、あの修道院で神に祈っている人や
瞑想している人って
座禅を組んでいるお坊さんとか
一心に絵を描いている画家と同じように、
「本質を探り出す」過程で
心のなかには、さまざまなイメージが
湧き起こっていると思うんです。
──
つまり、はたから見ると静かなんだけど
ご本人たちは
けっこうザワザワしてるんじゃないかと。
大三郎
どうしてそう思ったかというと、
山を歩いているときには
ぼくらも、
しゃべってはいけないことがあるんです。
でも、そういうときに限って
心の奥には
いろいろな言葉が浮かんでくるので‥‥。
──
なるほど、山伏の実感として。
あと「音」といえば、
「静寂、沈黙」の世界なだけに
修道士の「生活の音」が際立って聞こえる、
という側面もありますよね。
大三郎
そう、そのことに気づいてからは
「騒がしいな」くらいに感じはじめたのが
おもしろかったです。
──
床板のきしむ音、はさみで布を着る音、
薪割りの音、定時の鐘の音‥‥とか
人間が暮らしていると
いろんな音がするんだなと思いました。
大三郎
で、修道院が建っているところって
雪深いということもあって、
そういう音が
「どこかへ吸い取られていく」ような感じを
映像の端々から受けました。
──
これは宣伝の人に聞いたんですが
撮影中、
フィリップ・グレーニング監督も
「こんなところ、早く出て行きたい!」
と嫌になるたびに
「新しい音」を発見してしまい、
「もうちょっとだけ、いてみようかな」
と思い直したらしいです。
大三郎
ああー‥‥だからこそ、
完成した作品も
音に意識がいくものになったのかな。
──
あの、山伏にとっては
「沈黙」って、どういうものですか?
大三郎
沈黙は‥‥やっぱり「怖い」です。
たまーに、個人的な趣味で
ひとりで洞窟に籠ったりするんですが。
── 趣味で洞窟。
大三郎
一晩中、籠っていると、
ほとんど何も聞こえない時間が来ます。
そのとき、ほんとうに、
言葉には言い表せない恐怖を感じます。
──
世界に取り残される感じ、でしょうか?
実家の蔵のなかとか、森の奥とか
空気の音以外に
何も聞こえない場所にひとりでいると
そういう気持ちになることがあって。
大三郎
わかります。
しかも、洞窟では、
まわりも「真っ暗闇」なんです。
── うわ、沈黙プラス暗闇。
大三郎
そんなときに
突然、遠くで獣が哭いたりするんです。
── それまでの「沈黙」を破るように。
大三郎
森にいる獣って
ぼくらからはあまり見えないですけど、
獣のほうからは
こっちが見えてるんだろうなと思うと
まったく眠れなくなります。
──
沈黙とか、暗闇とか、
あるいは「自然」でもいいんですけど、
人はなぜ、そういうものに
恐怖や畏怖を感じるんだと思いますか?
大三郎
ぼくたちに、
まったく関心ないからじゃないですか。
沈黙とか、暗闇とか、自然って。
── ああ‥‥なるほど。
大三郎
そして、そういう「大きな存在」の、
ちょっとの「気まぐれ」みたいなもので
ぼくたち人間って
簡単に死んじゃうからじゃないですかね。
──
さっき、大三郎さんがサラッと
「信仰心で山伏をやってるわけではない」
とおっしゃってましたが、
そのあたり、少し聞かせてください。
大三郎
ぼく、ほとんど信仰心がないんです。
そのせいで、よく怒られるんですが。
── 山伏の先輩に?
大三郎
そう、信仰心のある人が多い‥‥というか、
山伏たるもの
まあ、「あるのがふつう」なんですよ。
── みなさん、何を信仰してるんですか?
大三郎
いろいろ種類はあるんですけど、
基本的に「山岳信仰」なので、山そのもの。
あるいは、仏教的な影響も強いので、
「大日如来」なども信仰の対象になります。
── なるほど。
大三郎 岩肌とか。
── 岩の表面が神様?
大三郎 木とかね。
──
いわゆる「御神木」というやつですか。
ちなみに「岩肌」の場合って
「ある特定の岩肌」を拝むんですよね?
大三郎
ええ。山伏の文化では
「岩」を「不動明王」に重ねるんです。
ぼくがいつもいるあたりで言うと
羽黒山から月山のほうへ入っていくと
まるきり
「オチンチン」みたいな岩があって、
そこはもう、かなりの「聖地」です。
── ‥‥大きいんですか、その岩。
大三郎 巨大です。10メートル以上あると思う。
──
そんなに巨大な聖なる岩を前にしても
大三郎さん的には
「信仰」の気持ちは起こって来ない。
大三郎 まあ「大きい岩だな」とは思いますが。
── 改めて「信仰」って何だと思いますか?
大三郎
ぼくは、
「神様を拝んだらいいことあるかも」
とか
「拝まなかったらバチが当たるかも」
とは、とくに思わないんです。
── ええ。
大三郎
ただ、山伏の生活がおもしろかったから
続けているだけなんです。
でも、信仰が担ってきた役割には
「簡単に捨てたらもったいないもの」が、
あるとは思っています。
── それって、具体的には?
大三郎
科学やテクノロジーで割り切れない、
数で勘定することのできない、
「たのしいな、嫌だな、幸せだな」
という心の動きは
「何かを信仰する心」と
密接に結びついている気がしますね。
──
「たのしいな、嫌だな、幸せだな」
ということはつまり、
「生きかた」みたいなことですか?
大三郎
そうかもしれないですね。
現代で「信仰」と言ってしまうと
宗教という枠の内側で考えがちですが、
本来は、もっと
「生きかたを支えてくれるヒント」を
探り出す行為‥‥なのかも。
──
修道士が「本質を探り出す」ように。
なるほど。
でも、そう思うと、宗教とか信仰って、
人間にとって
ほんとうに大事な発明だったんだなって
思います。
自分は、ほぼ「無宗教」なんですが。
大三郎
ぼくも、
自分のおじいちゃんやおばあちゃんが
持っていたような、
いわゆる「信仰心」はないけど
自分を生かしてくれる
自然や動物に対する敬意はあります。
そういう、
「ありがとう」という感謝の気持ちとかは
「信仰」に似ているんじゃないかな。
──
自分の生きかたを律するものだとか、
「信仰」というものを広くとらえれば
みんな、何かありそうですね。
大三郎
あの‥‥むかしは、泥棒とか人殺しとか
悪いことをしたり、
人に言えない何かを背負ってしまった人が
俗世間の権力や追求から逃れて
山に入り、
山伏になるということもあったそうです。
── へえー‥‥。
大三郎
だから、なぜ山伏になったのか、
その理由って
聞いちゃいけなかったらしいんですよ。
── そうなんですか。
大三郎
いわば、山って「聖地」であると同時に
ある種の
「アジール(避難所)」でもあった。
つまり、あの修道院に入っていった人も
そうだとは言いませんけど‥‥。
── ‥‥ええ。
大三郎 顔が、すごいなと思って。
──
ああ‥‥作品の随所に
修道士の顔のアップが挿入されるんですが
その、彼らの「顔」が。
つまり「何かを背負ってそうだ」と?
大三郎
いや、何がどうって、
うまくは説明できないんですけど、
とにかく
「修道士の人たちの顔、すごいな」って、
そう、思いました。
<つづきます>
2014-07-12-SAT