手紙116 街の空気。
こんにちは。
「わたしの暮らしはこれまで通りです」と
前回の終わりに書きましたが、
これは、正確にいうと、そうではありませんでした。
もちろん、朝起きて、支度をして仕事に行き、
患者さんと会って、お昼ご飯を食べて、
午後の仕事をすませて、家に帰る、という
形の上ではいつもと同じ暮らしをしています。
でも、あの事件が起きてから
わたしの周りは変わりました。
街の空気が
じっくりと人々を巻き込みながら
変わっていくのを見たのは、初めてです。
引越しの話は、また今度、ということにして
今日はこの話をさせてください。
テロが起きた当日の午後、
わたしは往診のために3人で外を歩いていました。
あのときお伝えしたように、
街は北へ向かって黙々と歩いていく人々でいっぱいでした。
誰もがすごく落ち着いていて、
混乱もなく、ただ、歩きつづけている。
みんな何てタフなんだろう、と
わたしは驚きました。
しかし、それから数日のうちに
街のたたずまいが少しずつ変わってきているのに
気がつきました。
店のウインドーに星条旗を飾るところが
少しずつ増えていき、
人々の胸元には国旗や赤・白・青のリボンが
目立つようになってきました。
わたしの病院の入り口にも、
ものすごく大きな国旗が垂れ下がり、
自家用車だけでなく
タクシーも、バスも、救急車も、パトカーにも
国旗がはためくようになりました。
報道の内容も
テロで犠牲になった方々への悲しみ、という観点から
その背景となった組織間の対立や報復に関する情報へと
シフトしていきました。
「これまでの穏やかな生活が、いきなり
自分たちに敵意を持つものによって蹂躙された。
このままでは済まさない」
というのが、大方の街の人の気持ちで、彼らの心の中に、
怒りがふつふつと育てられていくのを目の当たりにするのは
これまでにない経験でした。
これが事件直後の反射的な反応ではなく、
数日を経てからのじっくりとした変化であったことに
却って凄みを感じました。
そんな中、定例の週一回の老人科のスタッフ会議が
先週の木曜日に開かれました。
このグループには、内科だけではなく
精神科の医師もいます。
その先生は、今回の被害者が多く収容された病院で
精神科としての救急治療を担当したので
その報告を聞く会なのだろうと思って
出かけて行ったのですが、
それだけではなく、わたしたち病院のスタッフ自身が
今回の事件で感じているストレスを
話し合う場にもなっていました。
緊急災害時の精神科の治療についての話も
興味深かったのですが、
それに加え、30人近いスタッフそれぞれの
体験や意見を聞く、というのは
とても貴重な経験でした。
その中でもとくに忘れがたい、
印象的な発言をした人がいました。
「今回、ニュースで戦争が始まるかもしれない、という
報道が初めてあったとき、
家の息子がいきなり泣き出しました」
「『お母さんは、
また戦争に行かなければいけないの?』と言うのです」
「わたしは湾岸戦争の時に陸軍にいたので
当時は戦場に派遣されていました」
「『もう、お母さんは軍を辞めたから、
どこにも行かなくていいのよ』
と言って子供を抱きしめたけど、
当時の戦闘機の音や、夜のサーチライトの光が
頭の中によみがえってきて、とても怖かった。
今回戦争が始まれば、
またあんな思いをしに行く人がいると思うと
とても、とても辛いです」
彼女は泣いていました。
40代半ばの、とても明るい、
外来の事務全般を担当している彼女が
退役軍人だったとは、
わたしはそれまで全く知りませんでした。
彼女の言葉を聞いて初めて
わたしは今回の軍事的な緊張、
戦争が始まるかもしれない、という事実を
リアルなものとして受け止めることができました。
今回の事件に関しては
国の政治的指導者を含め、
さまざまな人がそれぞれの立場で
細かい分析をしたり、考えを述べたり、
さらには具体的な行動への準備を進めたりしています。
ときには
それは、あまりに一方的な見解だ、と思えますし、
また、断片的な情報と、複雑に入り組んだその背景を
あわせて考えようとしてみても
わたしには、その全体の姿はきちんと理解できていません。
ですから、結局わたしがここでお伝えできることは
自分の身のまわりで起こったことと、
それについて感じたことだけです。
表面上はあまり変わることなく
毎日の生活は続いていますが、
わたしの心の中には
大きなうねりが重なっている感じです。
今日はとりとめのない話になってしまって
すみませんでした。
次回こそは、引越しに。
みなさまどうぞお元気で。
本田美和子
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