お医者さんと患者さん。 「遥か彼方で働くひとよ」が変わりました。 |
手紙259 小冊子「私にとっての地下鉄サリン事件」2 こんにちは。 前回は、地下鉄サリン事件被害者の会が 昨年の3月に出版した小冊子 『私にとっての地下鉄サリン事件』 について、ご紹介しました。 この小冊子には 「あの日に、経験したこと」を 54人のいろんな人々が書いています。 わたしもその中のひとりです。 今日はそのことを紹介させてください。 ちょっと長いです。すみません。 小冊子『私にとっての地下鉄サリン事件』は 被害者の会代表の 高橋シズヱさんにお申し込みくださいますと 無料でお送りします。 ご希望の方はメールで、 sharpsmile5@hotmail.co.jp 高橋シズヱさんまでご連絡ください。 ----------------------------------------- 【東京の教訓は世界で生きています。】 東京の地下鉄でサリンが撒かれたとき、 わたしは目黒区の救急病院で 内科の研修医として働いていました。 救命救急センターに集まったわたしたちに 「都心の地下鉄の駅で 何かよくわからない化学物質が充満して、 具合の悪くなった人たちがたくさんいるらしい。 救急車が現場から医療機関に被害者を搬送している。 うちの病院も、これからできる限り受け入れる。」 と責任者の先生が説明し、 間もなく次々と救急車が到着しはじめました。 重症の被害者は 最寄りの聖路加国際病院や虎ノ門病院などへ 搬送されたため、 現場から10kmほど離れているわたしの病院へは 比較的軽症の方々が運び込まれました。 救急車から次々に降ろされる方に 名前を伺い簡易カルテを用意するところから 仕事は始まりました。 わたしが対応した方々は 意識も呼吸も問題なく、雑談もできるほどで、 ひとまず落ち着いて対処できる程度には お元気だったのですが、 診察をしてみると、 その瞳孔はいずれもとても小さく縮んでいました。 瞳孔が縮むと 目の中に届く光の量が減るため 暗く感じるようになります。 「今日は外が暗いですね」と おっしゃる方が何人もいました。 今でも多くの方が覚えていらっしゃるように、 あの日はとても天気が良かったというのに。 瞳孔が縮んでいるのは、 副交感神経という神経が 刺激されている証拠だとはわかっても、 それがどんな化学物質によって起きているのかは まだわかりませんでした。 わたしたちにできたことは、 ともかく、体調の変化を見逃さず、 重篤な症状の方に対してすぐに対症療法を始められるよう、 経過を観察することでした。 幸いなことに、 わたしが働いていた病院に搬送された方で 亡くなった方はいらっしゃいませんでした。 1)何が原因なのかわからない症状を持った人が、 2)今後何人搬送されてくるのかもわからず、 3)先に運ばれてきた人よりも 重症の人が後からやってくることもある中で 優先順位をつけながら、 4)「本人」と「そのお名前」と「その方の医療記録」を いつも一緒にしてわかりやすくしておかなければ、 今自分が診ている方が誰なのか、 どんな治療をすべき人なのかが把握できなくなり、 5)病院には、 入院している人がこの事件とは関係なく 700人くらいいて、 その中には緊急の対応を必要とする患者さんも多い、 というような状況は、 一言で言えば「大混乱」です。 わたしたちは、ともかく、 上司と相談しながら自分のやるべきことを見つけて、 できることはみんなやってみました。 わたしにとっての地下鉄サリン事件は、 「突然病院に搬送されてきた すごくたくさんの人々に対して、 医療従事者がやるべきことは何なのかということを 体を動かしながら考えた日」 となりました。 目黒区の救急病院での 研修医生活を終えてから数年経って、 わたしは米国の病院で働くことになりました。 米国生活の4年目に わたしは老年医学科のフェローとして ニューヨークのマンハッタン島の アッパーイーストと呼ばれる地区にある コーネル大学の病院で職を得ました。 ある日、いつものように出勤し、 入院中の患者さんの回診をしていました。 米国の病院ではベッドから見やすいように、 天井近くの壁際にテレビが備え付けてあります。 その日は不思議なことに どのチャンネルでも 臨時ニュースの映像を流していました。 マンハッタン島の南の端にある 世界貿易センターで事故があって 負傷者がでているらしい、との報道でした。 その時はまだ事情がよくわかっておらず、 わたしたちは、 マンハッタン島でよく見かける小さな遊覧飛行機が、 風にあおられて ビルにぶつかったのではないか、とのんきに考えて、 「危ないねえ」などと 患者さんと軽口をたたきながら診察を続けていました。 しかし、ご存知のように、 そうではありませんでした。 これは5年以上経った今でも尾を引く、 多くの国々を巻き込んだ紛争の端緒となった、 2001年9月11日のテロの始まりでした。 間もなく、 ハイジャックされた2機目の飛行機が 世界貿易センタービルに突っ込んでいく様子が 生中継のニュースで放映されました。 信じられない出来事を目にして、 わたしたちは呆然としていました。 誰が何のためにこんなことを起こしているのか、 誰にもわかりませんでした。 病院で働いているわたしたちに わかっていたことはただひとつ、 「この2機の飛行機のビルへの衝突で、 世界貿易センタービルの中にはけが人がたくさん出て、 彼らは治療を必要としている」 ということだけでした。 病院の対応は驚くほど迅速でした。 まず、現場で働く医師たちに、 「受け持ち患者を (1)今すぐ退院できる人、 (2)近隣の小さな病院へ転院できる人、 (3)病気が重くて帰せない人、 (4)帰せないけれど、 重症用のベッドでなくても大丈夫な人、 に分類して直ちに提出するように」と 知らせが届きました。 そのリストに従って 看護師は患者さんにベッドを空けてくれるように頼み、 退院する方には家族への連絡や車の手配をしました。 重症用のベッドでなくてもよいと判断された患者さんは、 退院した軽症の患者さんのベッドが空くと すぐに移動となりました。 これからたくさんの負傷者が運ばれてくるので、 その方々がすぐに入院できるように たくさんのベッドを確保することから 大規模災害への病院の対応が始まったのです。 当日行われるはずだった 手術も、外来も、みんなキャンセルです。 すべての手術室は この事故に巻き込まれた人びとのために待機しました。 献血を呼びかける張り紙が病院中に張り出され、 救急外来には、 たくさんの医師や看護スタッフが集まり 点滴などの準備を始めました。 これらの準備は、 1機目の飛行機がビルに突っ込んでから 2時間くらいの間に全て整いました。 まるで、今日、このテロが起こることを 知っていたかのようでした。 医師も看護師も得体の知れない不安を抱えながら、 ともかく自分の職域のリーダーが命じるままに 言われたことをやっていたら、 準備ができていた、というのが率直な感想でした。 過去に訓練が行われていた、 というわけではありませんでした。 みんな初めての経験だと言っていました。 胸によぎる不安な気持ちを抱えて 慌ただしく仕事を進めながら、 わたしはサリンが撒かれた 6年前の東京のことをひとりで思い出していました。 一息ついて救急部で働く友人とご飯を食べながら 「東京でサリンが撒かれたとき、 わたしたちは自分たちで 思いつく限りのことはやったんだけれど、 それでもいろいろと混乱することがあったの。 でも、今日はまるで これが起こることを知っていたみたいな 手際の良さで準備が進んで、とても驚いた。」 と話しました。 彼の返事は、とても印象的でした。 「いや、そうじゃないんだ。 米国も大規模災害、とくにテロに対する対応は 数年前まではほとんどできていなかった。 今日のこの対応は、 東京でカルト集団が地下鉄にガスを撒いた、 あの事件で学んだことから生まれた マニュアルに従って動いてるんだよ。 東京テロは本当に不幸な出来事だったけれど、 その経験が今日こんなふうに役に立っているんだ。」 わたしは偶然、 大きな無差別テロの被害にあった方々へ 医療を提供する場に、 東京とニューヨークで居合わせました。 そして、 東京での教訓が 国を越えて、多くの人々のために 具体的に生かされていることを 身をもって体験しました。 地下鉄サリン事件から12年が経った今でも、 被害にあった方々やご遺族は さまざまな辛いお気持ちを お持ちになっていらっしゃることと思います。 このたび事件に関する小冊子を作る、という お知らせをいただいたとき、 被害にあった方々と直に接する機会があった者として、 そして、その時の教訓が別の機会に 立派に生かされていることを知った者として、 ぜひこのことをお伝えしたいと思いました。 東京の教訓は、世界で生きています。 --------------------------------------- では、今日はこの辺で。 みなさま、どうぞお元気で。 本田美和子 |
2008-05-02-FRI
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