コンビニ哲学発売中。

第4回 ニカラグアのスープ

たくさんのメールをありがとうございます。
「このコーナー、毎日更新してください」
なんて言ってくださるかたも。うれしいです。
今回は、そんななかで出会った1通のメールから、
ゆっくりはじめていきたいと思っています。

_______________________________________________

ダーリン、木村さん、こんにちは。

今日の「コンビニ哲学発売中」を興味深く読みました。
「科学技術が人を寂しくさせてるけど、現実にぼくらは
何をしてもその技術から逃げれないのではないですか?」
という木村さんの言葉に共感し、
忘れていた疑問がよみがえりました。
長くなりますが、読んでください。

私は以前、寄付された鉛筆やら縦笛やらを運ぶ係として
中南米にあるニカラグアという
経済的に貧しい国に行ったことがあります。
当時はまだ道路のここそこに地雷が埋まったままで、
その上ゲリラも活動中という
あまり安全とはいえない状態でした。
そんな中で、日本の援助で
「村に初めて水道ができた!」とか
「初めて電気が通った!」
というお祝いの席に参加させてもらったのです。

そこには
「貧しい私たちも、人間らしい生活に近づけました」
と、感謝の辞もそこそこに
サンバを奏で歌い踊る人々がいました。
太陽の光のつまった
あま〜い野菜スープのごちそうがありました。
みんな「人間らしい生活」という確固たる目標を持って、
日々力を合わせ努力する喜びに目を輝かせているのです。
そしてそれは少しずつでも着実に達成され、
彼らを幸福感で満たしているように見えました。
そのとき私は「本当の貧しさ」について考えました。
そして
「私のできること」
「私にしかできないこと」
について。
自らを「貧しい」と言ってはばからない人々の
目の輝きを、どう説明すればいいのでしょうか。

科学は私たちの生活からたくさんのことを奪い、
しかし一方で多くを与えたように感じます。
どちらにしても木村さんの書いていたように
後戻りは不可能です。
科学を捨てられない以上、共存していくための知恵を
見つけていかなければならないのでしょうね。
あのときそのままにしておいた
「私にしかできないこと」を探すことが、
なぜだかその第一歩であるような気がしています。

 マンゴスティン
_______________________________________________


じっくり読めば読むほど、
いろいろなことを思いました。
ありがとう。じっと受け取めてます。
ぼくは読んだあとにしばらく、
じぶんでも「ニカラグアのサンバ」を
経験していたような気分になりました。

「技術が豊かさを生むのかどうか?」
こういうことはくりかえしくりかえし
語られてきている問題ではあるでしょうし、
机上の空論になりがちな質問でもありますよね。
そこで「じぶんは今どこにいて何をするのかな?」
というところで第一歩を想定しているっていう
マンゴスティンさんのことばには、何よりも
実感みたいなものがにじみでているように感じます。
あなたのおかげで、あたたかい気持ちになれました。

ぜんぶをカバーできる場所みたいなのを想定して
「みんなにとって」妥当なことをしゃべろうとしても、
どこかでかべにぶつかってしまいそうですよね?
さきほどの「豊かさ」でも「貧しさ」でもいいけど、
語られすぎていていまいち実感のわかないことばを
実感のわかないままに使いがちなぼくなので、
だからこのメールのなかの生きたことばの端々が
新鮮にうれしく響いているのだと思います。

「発展途上国の人の笑顔は素敵で、
 それに比べて先進工業国はだめだ」
ぼくは例えばそうやって言うつもりはありません。
おそらくマンゴスティンさんも、このメールで
そういうようなことを言いたいのではないのでしょう。
そうではなくて、何というか、ニカラグアの太陽の下で
ダンスのなかで野菜スープを手にしているさなかに
「あ、この気持ちって何だろう?」
と率直にじぶんが投げ出されてしまう、
そんな状況だとか風景だとかいうのに
ぼくは強く打たれているのだろうと思います。
風景がひとをどこかに放り出してしまうしかけに
感動してるのかなあ、とか思ってますけれど、
それ、何となくじぶんではうまくまとまりません。

ことばにあらわす以上に強く何かを実感しているひとが
しっかりと息づいていて、しかもそのひとと、
メールではあるけれど、今、会えていますよね?
あ、ぼくは「みんなで力あわせようぜ」みたいに
言うつもりは全然まったくないのですけれど、えーと、
何かまあそういう「会った」のがただ嬉しいというか、
形式的に言い尽くされたことではないようなところで、
「ああどうもこんにちは」
と言いたいような気持ちに何となくなってるのですが、
やっぱりでも、そのへんを明らかにはあらわせません。
たぶん、このメールのなかの
「あのときそのままにしてたところ」
とかがその気分に関わってるように思いますが、
今は「これ」っていう結論じみたものは出せなさそう。

で、こういうのってメールという技術があるからで、
そのあたりで技術がさびしくさせるとかそういうのを
一面的な角度から言うことはできないだろうなとは
ぼくも思ってはいます。ただ、かと言って
単純に技術礼讃もできなさそうですよね?
何がすてきだなあと感じるのか、とかいうあたりで
各個人にゆだねられてるような気がする、とゆーか。

読んでいるかたの感じてることと
ぼくの思っていることとが、
どこか動いてる途中で「かすった」ような、
それだからメールで会えたっていうような瞬間が、
なんだかすごくうれしかったなあと思って、
それでぼそぼそとしゃべりたくなりました。


[今日の2行]
あのときそのままにしておいたところが、
なぜだかその第一歩のような気がしています。
             (マンゴスティン)

[メールを読んだぼくの感想]
語られている内容よりもむしろ文体に惹かれました。
位置取りの方法が流れ出ているような気がしたのです。


mail→ postman@1101.com

2000-01-15-SAT

BACK
戻る