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第6回 コミュニケーション

みなさん、どうやってひととつきあってます?
すべてが順風満帆なかたもいれば、
「仕事と俺とどっちなんだ」
みたく修羅場になっちゃってるひともいると思います。
そういう修羅場系のひと、ぼくは個人的に言うと
がぜん応援しちゃいたくなってしまいます。
がんばってくださいねー。わくわくしますっ。
いや、そういう話じゃあないですね。すみません。
それに話は別に男女関係じゃなくてもいいのでした。

「友達と会う時間をどれだけ大切にしているか」

「仕事場でひととどこまでつきあうか」

「チームをつくって何かに取り組むときに
 じぶんひとりでやる部分とみんなで力を
 出しあってつくる部分の兼ねあいをどうしてるか」

たとえばこのようなことはどれも、
まわりのひととどのへんまでつきあうのか、
というところがキーになってきますよね。
そのあたりに関して、
みなさんはどのように距離をおいて
まわりのひととつきあっていますか?

あ、ところで、哲学者の場合って、
それぞれのまわりにいるひとたちと
どうやってつきあっていたのか、わかりますか。
そういう半分「あっち」っていうか特殊な世界のひとが
生活とかひとづきあいってどうだったのか、
というあたりに、興味ありませんか?

第一印象としては、
いかにも生活が破綻してそうですよね。
で、しかもそれがけっこう印象通りだったりもするので
洒落にならないこともないのですが……。

「ここ数年で俺がしてきたのは、過去の決算だった。
 人も物もついに始末し、しめくくってしまった。
 いま、俺は本題にすすまなければいけない。
 誰と何をじぶんのもとに残すべきなんだろう?
 俺の生きているうえでの緊張状態や
 課題と情熱のプレッシャーが強すぎるので、
 今さら新しい人たちが俺に近づくのは、よくない。
 それに実際に俺の身辺は荒涼としている。
 今の俺にとって、会ってて耐えられる奴というのは、
 ゆきずりの野郎とか、小さい頃からの縁者くらいだ。
 それ以外のすべての奴らは、削り落とされ、
 それかまたは、突きはなされてしまったのだ」

これはある哲学者が
発狂する2年前に書き残した言葉です。
孤独ァと病気のなかでこそ考えが進む、という方向で
哲学をやっていたこともあって、このひとの場合には
他人との交流を避けて考えつづけるというのが、
いちばん大切なことだったっていうみたいです。
価値観をひっくりかえして何かを創造することが
今の世の中をきりひらいていく、と彼は信じてました。
「時代に反することが、次の時代を尊重することだ」
と述べていまして、昔や他人のことばを借りずに
じぶんだけを頼みにするというやりかたで
鋭く深く考えようとこころがけていたひとでした。
一方で、次のような違う角度の言葉を言うひとも。

「もっともらしい理屈をこねることにしか
 哲学が役に立たないのなら、
 哲学を勉強するなんて無意味だと思う。
 じぶんや他人の生活についてまじめに考えることは、
 哲学よりも、ずっとむつかしいものなんだ。
 俗世間に関して考えるのはつまらないときが多い。
 だけど、そのつまらないときこそが、
 実はいちばん大切なことを考えているときなのだ。
 哲学以外のまじめな問題を話すことを
 避けないほうがいいと思う。
 ぼくは気が小さいから、ひとと衝突したくない。
 特に、好きなひととは衝突したくない。
 けれども、あたりさわりのない薄っぺらな話を
 するくらいなら、衝突したほうがましだ。
 深入りすることを敬遠しないようにしたい。
 じぶんを傷つけることを嫌がれば、
 まともに考えることはできなくなるから」

こちらは別の哲学者がかつてしゃべっていた内容です。
前とは逆で日常生活やひとづきあいを重視しています。
と言うのも、こっちのひとの場合は、
「哲学者とは、健康な人間の常識を手に入れるまえに
 じぶんのなかにある知性の病気を
 治さなければならないひとのことだ」
というように思ってる面があったので、つまり
「哲学を考えなくってもいいという方向に
 自然に到達するためにはどうすればいいのだろう?」
という問題意識を出発点にして考えていたのです。
そうなると当然、通常のつきあいっていうのが
このひとの場合にはすごく重要なものになってくる。

そういったスタンスの違いが
このふたりのしゃべっている内容の
著しい違いを生んでいるのでしょうね。
さて、みなさんはこのふたりの言うことを
どう思いますか? どっちがいい? どっちもいや? 
このスタンスのどちらがいいかとたずねるのは、
「ひとりでつきつめてやりたいのかどうか?」
ときくことにもかなり近いような気がしています。
自分のやりたい分野での他人とのかかわりって、
いったいどういうものなのだろうなあ・・・
というあたりを、考えはじめてみますね。

そのへんで今回は、ドゥルーズ(1925〜95)っていう
フランス人の言い放った言葉を紹介しましょう。

「議論は仕事を進めない。
 大切なのは議論をすることではなくて、
 重要な問題を考えるためのコンセプトを、
 じぶんのためにつくりだすことなんだ。
 対話は、余計なものである。
 普遍的で民主的な対話ほど不正確なものはない。
 ひとりの哲学者が批判をするときには、
 他の哲学者のものではない問題意識と
 他の哲学者のものではない切り口でおこなわれる。
 つまり、ひとは決しておんなじ切り口には、いない。
 だから、他人の批判をするばかりで
 何もつくり出さないひとは、
 哲学にとって厄介者である。
 討論は哲学にとって、耐えがたいものだ。
 一般論を語る以上にやることがあるだろう?
 哲学には確信がないのだから、
 もっと孤独な他の道を進まざるをえないんだ」

これ、けっこう意外じゃないですか?
というか、反感を覚えるひともいるでしょうね。
なぜなら、このひとは
コミュニケーションというものを
もう思いっきり否定していますから。
ただ、かなり異論のある言葉だとは感じますが、
言葉そのものとしては鋭いところもあるから、ぼくは
紹介してそこからぼんやり思ってみたくなったのです。

「民主的議論って、意味ないんじゃない?」

というこのひとの質問ですが、ここでは触らず、
敢えてそのまま放り出しておくことにしておきます。
このドゥルーズの考えはあくまでひとつの切り口で。
今日のふたりの哲学者の例で言うと、前者の側ですね。
「こういうひともいるけど、どう?」
というあたりでやはり一服して、もう少ししたら
のんびりふらふらもたもたと考えはじめてみますね。



[今日の2行]
重要なのはコンセプトをじぶんのためにつくることだ。
民主的対話なんてのは余計なもんだ(ドゥルーズ)。

[今日のぼくの疑問]
じぶんのためにコンセプトをつくる、というあたり
なるほどとは思いますが、ただ、その先ですよね。
じゃあ、コミュニケーションには意味がないのかな?
そんなこともなさそうなんだけどなー、ぶつぶつ。
(あと、個人的には今回抜粋したドゥルーズ以外の
 ふたりの哲学者のひとづきあいも気になってます。
 みなさんはこのふたりをどう思いますか?)


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2000-01-20-THU

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