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第9回 疲労と陶酔 唐突ですが、疲れてますか? (栄養ドリンクCMみたいね、この言いかた) ぼくは今、とても頻繁に疲れているひとと会います。 疲れていないひとにはあんまり会わないというくらい、 ほんっとにみんな疲れているなあ、と、 まわりを見てると思います。 これって、どうしちゃったんだろうか。 何でこんなに疲れてしまってるのでしょうか。 肉体的にも精神的にもぼろぼろになっている人々を どこか傍らで見ているのはとってもつらいんだけど、 何だか別に助けてあげられるわけでもないですもんね。 疲れているひとたちはそれぞれで 眠ったり気分転換をしたりして 疲れを取ろうとしているけど、 底にある疲れって取れるのかなあ?と思ったりもする。 と言うのは、気分転換したあとも また疲れを生むようなところに 戻っていかなければいけない、みたいなのがあるから。 疲れを生む源をなくさないと、たぶん疲れが循環して 何だか少しずつおっきくなって怖くなりそうに見える。 たぶん源をなくせるように現実を変えられるひとって 少ないだろうし、それにやりがいのあることを していたって、おそらくどうしようもなく 疲れが循環してしまうときってあるような気がする。 だったら疲れの源を絶つのはむつかしそうに思うよね。 どーすりゃあいいんだろうなあ。 この「疲れ」というものに対して、 ある哲学者はこんなふうに分析しています。 「あらゆることがどうでもよくなるが、とりわけ じぶんのことがどうでもよいという疲れがある。 この気だるさというのは じぶんの生活の条件から来るのではなく、 じぶんがいつづけるというその重みから来るのだ。 笑ったりして軽さでじぶんを忘れるのとは違い、 じぶんが前に契約したことをせねばならぬという、 『しなければならない』がのしかかってくるんだ」 たしかにまあじぶんであることは取り消せないよね。 それで疲れるというか投げ出したくなるときもある。 それって、このひとの言っていることによれば、 おんなじ様式から契約のように逃げれなくて、それで 疲れきって気だるくなっちゃうということだろうなあ。 疲れってあんまりいいことないよね? 忙しくて疲れたりすると、こりゃあゆとりがない。 それだけじゃなくって、体の調子も悪くなりますね。 それに、忙しさとか疲れたりすることっていうのは、 優れたアイデアを生まなくするって言われますよね? 疲れているときには疲れているものしか生み出せない、 ということばって、確かにうなづけるものがあるなあ。 少なくとも、疲れはアイデアに満ちてはいなさそう。 こんなになってくると、 疲れってこれはたぶん嫌なものだな。 ああそうだもう決めた、疲れはやなもんだ。 ただ、これってどう処理すりゃあいいのかなあ。 これはもちろん現実の契約関係やごたごたやしがらみを 断ち切ってしまえば解決するかもしれないけど、 でも、別に契約関係やしがらみを絶ちたくもないけど、 でも疲れててどうにかしてくれっていうひとは いったいそこでどうすればいいのでしょうか。 みなさんってたぶん、疲れていたって 動かないといけない現実が控えているんでしょう? そんなときに特効薬のように効く言葉でもあると いいのですが、それは今のところそれほどはないので、 まあちょっと荒療治としてひとりのハイテンションな ひとの意見をここでは紹介しちゃいますよー。 ドイツのひとであるニーチェ(1844〜1900)は 次のような内容のことをさかんに叫んでいました。 「生きていくことをつらい仕事と思って飽きてるひと、 あなたたちは疲れきっているのではないか? 激務や速さや異常さや新奇なものを好むような あなたたち全部は、自分自身の始末に困ってるんだ。 あなたたちの勤勉は逃避であるし 自分自身を忘れようとする意思なんだ。 もっと生きることを信じていたら、 そんなに瞬間に身をゆだねてしまわないだろうが、 あなたがたは待つことができるだけの 充実した内容を持ちあわせていない、 だからだらだらとすることもできないんだ。 疲れたひとは他人に動かされるだけだ。 そういう弱い人間はいつも、 『何のためにこんなことをやってきたんだ、空しい』 と思いがちで、そうなってしまったひとにとっては 『この世はすべて無意味』という言葉が ここちよくひびくものなのだが、しかしこの言葉は、 実はあなたに『奴隷になれ』と言っているのだよ。 こんな倦怠感に満ちた言葉は、打ち砕いてしまえ。 世界に文句を言うやつらの言葉は、屈従への説教だ。 そういうやつらは学びかたがだめだったんだ。 そういうやつらはあまりにも早くから あまりにもあわただしく何もかも学びすぎた。 食べ方が悪くて胃を壊してしまったんだ。 世界が汚れてきたないのは確かだけれど、 そういうものへの吐き気をもとにして、 俺はつくったり変わっていったりできるんだよ」 いやあ、ロッケンローっですね。 もちろん反感をおぼえるひともいるだろうとは思うよ。 そんなに力入れてじぶんを追いこむ必要なんてないな、 と言おうと思えばかなり明確に文句を言えるんだもん。 だけどぼくは少なくともここに載せた 「勤勉は逃避だ」 という考えにはかなり共鳴するし、 そもそも重要だと思うのは、このひとが 文句を言われてもいいから馬鹿みたいにでも とりあえず騒いでるってことだよなあと思うのです。 こうやって血気盛んに騒ぎながらしゃべるときには たぶんこのひとも疲れを感じていないんじゃないかな。 「意思のままに何でもやればいい、ただし それよりもまず、意思できるやつになってくれ」 「俺は血で書かれたものしか認めないぜ」 とかいう青い系統のセリフが他にもいっぱいあるけど、 こういうのってニーチェにとってはすごく大切なの。 なぜなら、騒いで陶酔することのくりかえしが 芸術であり最高だぜ、みたいなことを言ってるから。 このひとの場合の疲れをなくす場所は、おそらく 陶酔したり興奮したりするところにあるとぼくは思う。 それでいつも「要する何をやりたいんだ?」と、 きちんとじぶんの出発点に戻ってから考えてるから、 ぼくはこのひと、この流れの限りでは、 青くてもけっこういいんじゃないかなあと思いました。 [今日の2行] 疲れきったなかでの勤勉さは逃避であるし自分自身を 忘れさせるものに過ぎないのだから陶酔で打ち砕け。 (ニーチェ) [今日のぼくの質問] 疲れは興奮や陶酔で殺すってのがニーチェですが、 みなさんにとってはどういうのが疲れ解消なのかな。 それにみなさんにとっての疲れってどんなものですか? mail→ postman@1101.com |
2000-01-26-WED
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