コンビニ哲学発売中。

第10回 いいわるい


>はじめまして。
>私は大阪の大学の哲学科に在籍しているものです。
>コンビニ哲学...どきどきしながら
>よませていただきました。
>今,私が思っているところを
>どんぴしゃりと言われているようでした。
>最近,あまりにも一人で考えすぎてしまって
>少し人間嫌いになってしまっていました。 
>自分がやりたいことがありすぎ、
>やらなければいけないこともありすぎ、
>結果,逃げてしまっています。
>ただただあせってしまって。
>自分で自分の首をしめてしまって。
>誰かに話を聞いてもらいたいけど
>みんな忙しくしていてじゃましたくないし。
>でもだれかにきいてもらいたい。
>人との距離感がわからなくなるし、
>あせってしまうし。
>
>K. S.

メールをありがとうございます。
具体的ではないけど焦ってしまうような
そういう気持ち、すごくよくわかるような気がする。
ひとにしゃべれない悩みだってそりゃいっぱいあるし、
ひとにしゃべれないほどに入り組んだ考えとかだって
じぶんのなかで展開しているかもしれないですよね。
そんななかで他人との距離感もわからなくなって
どうしたらいいのかわからなくなる、これはわかる。

そんななかでぼくがヒントをいただいたのは、
やりたいこともやらなければいけないことも
どちらもありすぎるという、このかたの言葉です。
やりたいことって、実は何だろう?
やらなければいけないことって何だろう?
ぼくはじぶんに向けてふとそう言ってみました。
みなさんのやりたいことっていうのは、何ですか。
それはやらなければいけないことと反対のものかなあ。
「なんなんだろう。何のためにやってるんだろう?」
そう思うときがあるとすれば、それって何だろう。

やらなければいけないことって、ありますよね。
大事なプロジェクトや試験といったものを抱えると、
もうどうにも逃げ場がないような気がしてきたり
「ほんとにやりたいことはこれではない」と思ったりも
するだろうとは思います。そこから逃げれるのかなあ。
それはできる場合もそうじゃない場合もあると思う。
というか、逃げれるかどうかを考えるときって、
それは「何から」逃げるということになるのかなあ。
あ、言葉をかえると、何からの自由になるのかな。
「やりたいこと」って何か自由な印象があるよね。
「やらなければいけないこと」はそうじゃないのかな。

と言うか、自由ってそもそも何でしょうか。
「自由になりたいなあ。解放されたいなあ」
たぶん、たまにそうやって思うときがあるよね。
ないひともいるかもしれないのですけど。
会社や学校のしがらみ、人間関係の行き詰まり、
能力やお金に不自由していてやりたいことがやれない、
あとは例えば語学で日本語しか使えない不自由さとか、
もっと言えばいつか死ぬとか病気になるとかいうのも、
これはたぶん自由ではないですね。風邪になってると、
「こんなうっとうしい状態から自由になりたい」
そんなふうに思うでしょ。それって何だろうかなあ。

自由という言葉は使いにくくてむつかしいですよね。
「自由なんてきれいごとだ」といわれがちだし、
要するにまあ何とも食えない言葉ではあるのでしょう。
だからそんな言葉の指す内容について考えるというのは
しかたのない種類の考察に過ぎないのかもしれない。
役にたたなさそうであることは確かですよね。

それに言葉としてだけではなくて、実際上でも
自由というのがどこにあるか、ほんとはわかりにくい。
さっきぼくが例にあげた「会社のしがらみ」とかだって
これぜんぶ「自由ではない今」からのスタートだよね。
それは自由そのものをつかまえにいくものではない。
逆に言うと、自由とはいつでもそうやって
ある欠落を埋めようとするなかで生まれるものなのか?
そのあたりちょっと気になりますけど、おいときます。

「自由ではないものとは何か」は想像しやすそうです。
さっきしゃべった仕事の状況でも人間関係でもいいけど
「もう逃げたいけど逃げられないなあ、どうしよう」
とか思う時、ひとはおそらく自由ではないですよね。
何かから解放されるような、何にも拘束されないで
じぶんのやりたいようにやりたいことをできるとか、
自由はそういうのに関わってくるようなところがある。

まあとにかく、この「自由」についてつらつらと
考えたやつがいたんです。それが今回のひとだよ。
スピノザ(1632〜77)というオランダ人なのですが。

「人類のふたつの敵は、憎しみと後悔だ」
こんな風な言葉を残しているこのひとにとっての
大きな主題は、どう喜びをかちとるかだったようです。
このひと、じぶんの生きていた時代のひとびとが
どうして頑固でしかも隷属こそが自由であるように
みずからを隷属にかりたててしまうのかなあとか、
宗教は愛と喜びで出発してるはずなのに何でそれが
戦争や不寛容や悪意や憎しみなどを生むのかなあとか
そういう方向で考えをすすめていたのでした。
たぶんこのひとにとってうっとうしかったのは、
「これは絶対によいことなのだからやれ!」
というそういう「よいこと」のおしつけなのです。

「恐怖に導かれて、恐怖を避けるために
 よいことをしようと思うようなやつは、
 理性に導かれてはいないのだ。
 もしもひとびとが自由なものとして生まれたら、 
 そのひとびとが自由であるあいだには
 善悪の概念をつくることはないのだろう」

このひとはそんなことを言っていました。
「よいことだからやるんだ」
「悪いことをやらないためにこうするんだ」
そういうのは、このひとから見るともう自由ではない。
いいとかわるいとかそういうもののために何かするとか
固定した何かに向けてじぶんを動かしていくのは、
確かに自由ではない。あ、でもちょっと待ってみて。
「自由じゃないもの」から考えるんじゃなくって、
「自由そのもの」についてこのひとはどう思ってるの?

「自己満足は理性から生じる。
 その自己満足だけがありうる最高の満足である。
 理性に導かれるひとは恐怖に負けて服従はしない。
 だからどこかに属して共同生活をしてても大丈夫だ。
 そんなひとが共同生活をしているときには、
 共同体の決定や法律に従っていながらも自由なのだ」
 
彼はこんなようなことを言っているのでした。
文句を言わずにじぶんも楽しいってところにゆくのが
スピノザにとっての自由なありかたなんだと思います。
だけど、それってうまくいくのかなあ?
このひとじぶんでもむつかしいなあと感じていて、

「自由はまれにしか見つからないのだし、
 そこに向かうのはむつかしいものに違いない。
 なぜなら、もし幸せが苦労なしに身近にあるなら、
 ほとんどすべてのひとから見逃されてはいないから。
 気高いものはすべて稀であり困難である」

こんなようなことも同時に言ってるよん。
がっちりつかまれた自由はまだないみたい。
ただ、自由は求めるのがむつかしいだけじゃなくて、
もしかするとそこには何もないのかもしれないなあ、と
このあたりでぼくはちらっと思ったりもしました。
自由を求めるっていうのをちょっとうたがっているの。

自由という言葉が生むいろんな罠みたいなのがある。
だからそういう言葉から少し離れて、しかも別の角度で
おんなじ方向のことを考えていく手段ってないかな?
もちろんぼくは自由っぽいのになりたいんだけど、
これ関係は考えてても行き詰まるかも、と思います。
まあ、これはこれでややこしくなっちゃうから、
やっぱり一服したりねっころがったりしてみて、
それでもう一度気が向いたときにでも考えてみます。
あ、今のところぼくが個人的にこの話題について
キーだと思っているのは「欠落さ」です。
あと「いい・わるいから離れる」とかも気になるけど。

[今日の2行]
もしもひとが自由なものならば、そのひとが自由である
あいだには善悪の概念をつくらないのだ(スピノザ)。

[今日の質問]
いい・わるい、の枠におしこめて行動を決めるのは
自由ではないからうっとうしいぜというあたりでは
スピノザに対してぼくもすごく共感しています。
「自由とは何か?」というのは「じぶんとは?」に
似たような危険な不可能さを含む問いかもしれないけど
敢えて「自由とは何か?」に関してぼんやり思うことを
メールでぼくのところにくださるとすごくうれしいです。

mail→ postman@1101.com

2000-02-08-TUE

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