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第16回 誰なのか覚えていない


>[今日の2行]
>冒険をしないと、じぶんそのものを、まるで
>無であるかのように失ってしまいかねないんだ。
>                  (キルケゴール)
>[今日の質問]
>精神的に戻れなくなってしまったひとに、
>言葉をかけられるときはあるのでしょうか。

↑の第11回には特に様々なメールをいただきました。
恐ろしさや危険さにおちこまぬよう注意をしながら、
もう少しこの地点で潜りつづけてみることにします。
前回にひきつづき、みなさんからいただいたメールに
ただ耳をすませてみます。3通のメールをどうぞ。

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原因は様々でしょうが
精神的に戻れなくなってしまう事ってありますよね。
自分がそうだった時と、
友人がそうなった時がありますが
結論から言えば、時間に任せるしか無いとは思います。
そうゆう時というのは、自分以外の人が
やたら幸せそうに見えたりするものですから、
アドバイスなどは耳に入らないもの。

ただ、今でもありがたいと思ってるのは、
ただ、黙って私の話を聞いてくれた友人の存在でした。
ときおり相づちを打つ程度で決して否定しない、
そうやって話を聞いてくれるだけで、だんだん、
自分の中で整理がついていったりしたのを憶えてます。

私が相談に乗る立場でも、相手の苦悩というのは、
想像はできるけどやっぱり分かりません。
もう、そんな時は相手が泣こうがどうしようが
ただ、話を聞いてるしか無い。

一人で考え込んでいても、
所詮同じ所をぐるぐる回ってしまいます。
誰かが、自分の話を聞いてくれると、
それに同意してくれると、
それだけで、かなり心は軽くなるのです。
そしてその有り難さには、ずっと後に
なってからでないと気づかない事が多いです。

つまり、「話を聞いてあげるだけ」
その、「だけ」っていうのは
ずっとずっと難しくて、意味があります。
無理に話さなくても、
側にいるだけでも良いと思うのです
あとは、時間が治してくれると思います。

ERI
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その女性がどれだけ自分の世界に籠ろうとも、
人間は一人では生きていけません。
他人との接触で癒されたり、傷ついたり、
守られたり、嫌いになったりします。
本当は、他人との接点を持ちたくて
たまらないものだと思います。

彼女は自分で自分のことを責めているように思います。
「もうもどれないよね」と言っていると言うことは、
「まだ、もどることは出来るよ」
と言って欲しいのでしょう。
(中略)
彼女が自分から、自分の中の全てを
吐き出していけるような空間で、彼女の思いを
吐き尽くすまで自分自身で話をさせる・・・
そのことを促せるようなお話を
木村さんがするのが良いと思います。

ただ、難しいですよね。とっても。
私が彼女の友人だとしたら、なるべく外に連れ出して、
たわいもない会話と食事を続けるでしょう。
いつか彼女が自分から
色んな事を語りだしてくれるまで。
(一人にしておくと、自分だけのメビウスの輪から
 抜け出せずにどんどん深みにおちいっていく
 可能性が強いと思います)

語りだしたら、
ポイント以外には余計なことは言わずに、
ただ、話を聞くことにつとめるでしょう。
どれだけ弱音を吐こうと、八つ当たりをされようとも。
『大丈夫よ、安心して』と、誰かにいって欲しい、
そう接して欲しいのだと思います。

余り、アドバイスにはなってないのかもしれませんが、
私の経験では、本当に傷ついている人を助けるには、
そうするしかないように思います。
それでも私は同性なので
出来ることには限りがあります。
男性からそう助けられたら、彼女はもう一度、また
もどって前に進める可能性が強いのでは、と思います。
紙一重の部分が難しいのですが。

詳しい事情は解りませんが、
「どういう言葉をかけてあげれるのだろう・・」
そう思える木村さんが素敵な人に思います。

ご健闘を祈っております。

S.T.
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もう20年近く前。
2度と這い上がれまい、と思うような崖下にいました。
私は、誰にも、何も言えませんでした。
誰も、私に、何も言えませんでした。
じっと息をひそめ、何もしませんでした。
考えること以外は。

「もし、(救いが)あったらどうする?」
自分で自分に問うた言葉でした。
人は誰でも、止められない時間の中で、
静かに死に向かって流れて行きます。
いつかは死ぬのです。たとえその「救い」が
「死」によるものだったとしても、
結局、いつかは「救われる」のです。
今、急いで死ぬ必要も、
死んだように生きる必要もありません。
生きてる間に『救い』が訪れるかもしれない。
もし「それ」がやってくるなら、
それを見ない手はありません。
そう考えついた時から、
私はゆっくり、崖を登りはじめたのです。

いまは「フツー」に暮らしています。
少なくとも表面上は。今でも、崖っぷちを
目をつぶって全力疾走しているのではないか、と
自分に疑いを抱くことがあります。でも私は心の中で、
自分に向かって「だいじょうぶ」と言います。
疑心暗鬼の海にぽっかりと
浮き輪のように浮かべた「だいじょうぶ」。
これは「まとも」ではないかもしれません。
それでも、フツーに働いて、
フツーに生活してゆくことができます。

毎日毎日、苦しいことばかりあっても、
1000の苦しいことがやってきても、
その次にたった1つうれしいことが
やってくれば、それだけで生きて行けます。

こんなこと、今苦しんでる人に言ったって、
たぶん救いになんてなりません。
私にとってこれが救いになったのは、きっと、
自分でみつけたことだから、なんでしょう。
でも、たとえ「だいじょうぶ」の浮き輪に
しがみついて必死の形相をしていようとも、
「あの時崖を登ってよかった」
と本当に思ってるんです。

試しに死んでみると言って自殺した人がいましたね。
でも試しに生きてみるという選択肢だってあるんです。
20年近くたった今も、周囲の人々に
あの時私がなぜ崖下に転落したか、などという話は
一切していません。これは一生話さない、
一人で墓場まで抱えてゆく、と決めているから。
それなのに、こんなメールを長々と書いたのは、
「救いなんてないよね?」と言っている、
20年前の私の幻を見てしまったからかもしれません。
ですから、署名もしません。
ルール違反なんでしょうね、きっと。

ここまで読んでくださってありがとう。
いつか私が抱えている荷物について知ってもらいたい、
そう思える人と出会えたら、その時こそ
本当に「だいじょうぶ」な自分に
なれるのかもしれませんね。失礼しました。

(*匿名のかたです)

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どのかたも真剣にこたえてくださって、
ほんとにどうもありがとうございました。
このすべてのメッセージからもうすでに
鍵のようなのが見えはじめてるようにも思えます。

今ぼくが感じているのは、
「これからもこのメールをくりかえし読むだろうなあ」
ということなのですが、この感覚ってたぶん
どうもキーポイントとにかすっているように思う。

「誰かがこちらに向かってきて
 わたしを助けてくれたが、誰だか思い出せない。
 覚えているのは、暗幕をはったように
 うしろに隠れているひと、
 姿を隠すことを尊重しているそのひとが
 信頼に値する人物だったということである」

これは、プラハの作家カフカ(1883〜1924)が
じぶんの見た夢を思い出しているときの言葉です。
3人のかたのメッセージのなかでの
「絶望時に何か共有しあえるひと」と、
カフカの「夢のなかで助けてくれたひと」には、
どこかで近いイメージがあるように思えました。


[今日の2行]
助けてくれたひとを思い出せない。覚えているのは、
姿を隠したそのひとを信頼できたということである。
                       (カフカ)

[今日の感想]
このカフカの言葉、実は相当お気に入りなのです。
思い出せないけれど助けてくれたひとが確かにいて、
そのひとを信頼できたという感覚だけが残っている、
そしてそのひとが姿を隠していることにも意味がある、
これ、ぼくにとって妙にぞくっと来て、いいんだなあ。
みなさんがくださるメールも、そういうものですよね。
誰がくださったかというよりも、信頼できた感じだけが
残っているメールというのも、いいなあっと思います。

mail→ postman@1101.com

2000-02-22-TUE

 
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