第18回 会話とテーマ
苦しんでるひとに何をどう言えるか、
というような話題がしばらくつづいていました。
今回はちょっと引いて抽象的な話題を。
たとえば「何を言えるか」とかの話になると
「そもそもひとは他人に対して
何をどこまで言うことができるのか?」
こんな質問が出てきそうです。これはそれこそ
すっごい大昔からいろんなひとが考えていた、
哲学の問題としては王道中の王道のものみたい。
どこまで何を知りえてそれを伝えうるのか、
これはほんとに専門家がうんざりするほどの
さまざまな意見が、今にいたるまで出ています。
ちょっときいたことあるような哲学者はみんな
こういうのに絡んでいるとすら言えると思います。
じゃあ、その哲学者たちっていうのは、みんな
おんなじような土俵でしゃべりあえるのかな?
たとえばギリシャ時代のひとと今のひととは
おんなじテーマで議論できるのだろうか?
そこで「うん」と言ったひとも、います。
「うん、そうです。わたしは勝敗をはっきり決めます」
ウィトゲンシュタインという哲学者は、
若い頃に、すごくそうやって言うようなタイプでした。
ひとの語ることのできる可能性のあるもの、について
数学的に表現できるんじゃないかと考えをすすめていたの。
人間の言語を数学使って記号でおきかえて、それで、
「語りえないものに関しては、沈黙しなければならない」
と、その頃はそうやっていったん結論づけていました。
ぼくたちの言語には、構造から言って
語ることができないものもおそらくあるので、
問題にしてもしかたのないことで悩む必要はない・・・
これはすごく力強い意見だし、影響力も大きかった。
言語を分析するような流れも、つくりだしたよ。
だけど、なのです。言語を見つめてるうちに彼は、
次のように思うようになったみたいなのでした。
「言語に関して精密に考えれば考えるほどに
『言語』と『論理の純粋さ』の間の衝突がはげしくなる。
『論理の純粋さ』は空虚なものになろうとしているのだ。
わたしたちはなめらかな氷の上に迷いこんでいて、
そこには摩擦がなく、したがって
条件がある意味では理想的なのだけれども、
しかしわたしたちはまさにそのために
先に進むことができない。
先に進みたいのだ。
だから、摩擦が、必要なのだ。
ざらざらした大地へ戻れ」
ということで、彼はいったん結論づけたものから離れて、
その後の考えを展開していくことになりました。
じゃあ、「昔のひととしゃべれる?」はどうなったの?
そういうところで今回はとりあえず試しで
ローティ(1931〜)というアメリカの哲学者が
思っていたことを、気楽にぼくなりに要約してみます。
「昔からある種のおんなじような
問題が問われつづけてる、と言われがちだけど、
そうなんだろうか。そうじゃないのではなかろうか。
ガリレオがじぶんの説を言ったときに反対したひとを、
合理的ではないと呼ぶ場合はとても多いんだけど、
ところでそのときの『合理的』っていうものを、
ガリレオと彼に反対したひととで、
共有させてしまっていいものだろうか?」
このひとから見ると、
ガリレオの時代には今の意味に近い合理的なんてなかった、
つまり前提条件がガリレオとその反対のひととは、
ものすごく違いすぎたみたいです。だから反対者を
一面的に「まちがっている」とは言い切れないそうだ。
こういう立場から、絶対的なところではなくて
相対的な方向にゆくのが、このひとなのです。
ローティは、じぶんの好きな哲学者にからめて、
下に示したみたいなことを言っています。
(「彼ら」というのは好きな哲学者たちのこと)
「彼らは反抗的で、皮肉やパロディや警句を提示する。
彼らはじぶんたちの反抗する時代が終われば
じぶんたちの著作も意味を失うことを知っている。
彼らは意図的に支流に位置しているのだ。
彼らはじぶんの世代のために過去のものを破壊する。
この世にもまだ新しい何かがあるんだという、
詩人が時折かいまみせてくれるような驚きのための
余地を、彼らは持っている。この新しい何かとは、
すでにあるものを正確に外にあらわしたものではなく、
少なくともしばらくは説明も記述もできないものなんだ。
彼らは、何かを語れば必ずある主題についての
意見を言ったことになるとは思っていない。
わたしたちは、単に何かを語っているだけかもしれない。
何か探求に貢献するっていうのではなくて、
会話に参加しているだけなのかもしれない。
彼らにとって大切なのは、客観的なほんとうのことを
発見するよりも、会話を継続することにあるのだ。
客観的な立場から『これがほんとうなんだ』と
会話を止めようとするひとに文句を言うのが彼らだ。
『すべての言説は客観的に言い切れる』
と思いこむ危険を、彼らは回避しようとする。
ひとは正確な記述ができるというよりは、
むしろ新しい記述をつくっていくのである。
ひとは客観的にあるのでなく、ただ単にあるだけなのだ」
このひとはそういうわけで、ひとつだけの
ほんとうのことを求めていくのはやりたくなくて、
「会話を継続させることは哲学にとって目標であり、
知恵とは会話を継続する能力のなかにこそある。
関心は会話を継続させることに向けるべきであって、
伝統的なテーマが占めている位置には
とらわれるべきではない」
とかも言っています。
ええと、だからこのひとの立場は、さっきの
「ギリシアのひととおんなじテーマで議論できる?」
とかで言うと、「おんなじテーマ」というその
「おんなじ」というのにとらわれちゃう必要もないけど、
でも、「ほんとうのことは後から客観的に証明される」
というような絶対的な立場はだたぶんいやみたいです。
このひとはすごく相対的な考えをしますから。
これが絶対に正しい、と言ってすべてひとつの枠で
昔のひとの言っていたことを断ち切っちゃうのが、
このひとにとって傲慢に見えるものなのですね、たぶん。
会話をつづけるうちに、テーマというのに含まれる
前提条件は時代によって変わって来るのだから、
以前のひとのあやまちを一面的には決められない、
そういう立場のようですね。ローティは別のひとの
↓のような言葉をひいているよん。
「重要な思想家の著作を読むときには、まず、
そのテキストのなかで明らかに不合理だとわかる箇所を
探し出して、鋭敏なひとがこんなことを書くとは
どうしたことなのだろうか?と自分にきいてみろ。
答えが見えてその文章の意味が通るようになったら、
もっと重要な文章、以前にはじぶんが理解したと思ってた
文章がその意味を変えていることに気づくかもしれない」
これちょっとなんかの鍵になりそうだけど、
なんだかごちゃごちゃしてきたので、こんなあたりで。
相対的に言っているひとを連れてきましたよというとこで。
[今日の2行]
ひとは正確な記述をするよりもむしろ新しい記述をつくる。
だから関心は会話を継続させることに向けるべきなのだ。
(ローティ)
[今日の質問]
「ひとつだけのほんとうのこと」を求めて
ほかのものをばっさり切りすてていくよりは、
会話を継続させていくことにスポットをあてて、
そのなかで局面を変えてものを言うのに意味があるんだ、
というような態度は割とよいように思えています。
ひとつのテーマだけに固執するのは不自由だから。
でも「相対的な立場」って、これ実はむつかしい。
相対主義という名の絶対主義もあって、ややこしい。
たとえば今回出したローティの言葉のなかの
「彼らは意図的に支流にいる」
という、その先はいったい何なんだ?とか思うと、
これはまた別の話になってきそうですよね。
それにまた、そうやって相対的って言っても
「まあまあみなさん穏便に」みたいになるのは
これは面倒っぽくなりそうですし、どうなのかな。
相対的なものに関しては、どう思いますか?
mail→ postman@1101.com
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