コンビニ哲学発売中。

第21回 いつのまにぶらさがっている

みなさん、メールをどうもありがとうございます。
読ませてもらってなかで「あっ」とびっくりして
なるほどと思ったところから、出発いたしますね。

------------------------------------------------
もともとは個人の好みや都合で
始めたり続けたりしていることが、
いつのまにか、チーム化するというか、
なんらかの団体に吸収されていったり、
どうしようもなくからみあっていったり。

でも、考えてみれば、
今まではただ気づいていなかっただけで、
もともとは、はじめにそこら中にチームがあって、
私はそういうものに
依存していただけなのかもしれない。
一人で好きなように生きてるつもりが、
実は、誰かが作って誰かが守ってきたチームに
ただぶらさがって生きてきただけかもしれない。

言葉にしてみたのは、今がはじめてですけど、
この頃、なんとなく
そういう自覚が芽生えてきたのかしら。

あけみ
------------------------------------------------

一人で好きなようにやっているつもりだったけど、
誰かがつくったチームにぶらさがっていただけかも、
というところが、特に気になりました。
「いつのまにぶらさがっている」
という言葉に「あっ」と感じたのです。

ぶらさがりって、チームだけではなくて、
いろいろな場面ですごく陥りがちですよね。
ぼくもちょうどそんな行き詰まりを感じてたところで。

ぼくはどこかに行って話をきくのが大好きで、
機会を見つけてはあちこちに出かけていって、
テープ録音取材をしてまとめていました。
それをくりかえしていたあるとき、
「あれ?」と立ち止まる瞬間があったのです。

簡単に言うと、そのときにしてた取材のまとめを
つまらないものに感じる気持ちが強くなったのでした。
取材現場はすごく盛り上がっていたはずだったのに、
何度思い直しても、取材をまとめることがつまらないの。
なんで、つまらないんだろう?

たぶんこの「ぶらさがり」というところに、
その謎を解くヒントがあるのだと思います。

おそらくぼくは、
「インタビュー→テープ録音を文字にする→まとめ」
という仕組みに知らないうちに頼り過ぎていたのです。
おんなじ手法でまとめることをくりかえすうちに、
いつしか、以前誰かに出会ったときとおんなじような
頭の動かしかただけをしてしまっていたのでしょう。

つまり、テープからのまとめに慣れすぎて、
「誰に会って何をどう感じたのか」
ということよりも、
「テープの中の言葉をどううまく編集するか」
という技術を気にすることになっていたみたい。
そうなると、誰に会っていたとしてもおんなじだよね。
驚きや自由のない、つくりものの取材になるだけで。

意識していなかったとしても、
「あとでテープを文字に起こしてみて
 かっこよく見える談話をきこう」
とどこかで思いながら質問していたのかも・・・。
先にじぶんの思いや驚きがあるのではなく、
テープに落としこめる範囲のことだけをきいて
「取材」と呼んで満足していたのかもしれない。

自動的におんなじことばかりをくりかえし、
こちらの頭を固定したものにし過ぎていて、
つまり、結局、何も感じていなかった。
おそろしいことです。

何かをちゃんと感じることのできる気持ちよさも、
伝えたいという執念のようなものもないのなら、
誰に会ってもどきどきするはずがない。

あけみさんのメールの最後に、
「言葉にしてみたのは、今がはじめてですけど」
というところがあります。
はじめて文字にするときのように
驚けることって、素敵じゃないですか。

小さい頃、ワイドショーで
無理やり相手にカメラやマイクをつきつける姿を見て、
「そんなことをしたら、
 余計にそのひととつきあえなくなるじゃん」
と感じていました。
それは大切な感想だったはずなのに、
ぼく自身がそういう流れで取材をしつつあったのだ。
きけばきくほどひととの溝が深まるインタビューなら、
やらないほうがいいくらいですよね?

むしろ、テープを使わないで、
好きなやつと好きなようにしゃべって、
おたがいに驚いたりして、何でもなく別れる。
そっちのほうが、かっこいい会いかただよなあ。
・・・取材って、何だろ?

「ぼくははじめて、
 ひとりの女についてすら
 何も書けないことがわかってきた。
 ひとりの女を書こうとすれば、
 かえってそこがまるで空白なんだ。
 ひとびとはほかのものを持ち出して描写をする。
 ただ周囲を書く。土地を説明する。小道具を並べる。
 そして、ひとつのところだけを空けておくんだ。
 すべての線はそこに来て、すうっと消える。
 女をつつむ軽いタッチの輪郭だけが残っていて、
 肝心の彼女の姿が曖昧になるばかりなのだ。
 結局、想像すらつかなくなってしまう。
 
 ぼくが何かを書くというよりも、
 むしろぼくが何かに書かれてしまうのだ。
 ぼくという人間は刻々に変化してゆく印象なんだ」
 
メールを読みながら、ぼくは何となく、
こんなふうなことを考えながら小説を書こうとする
リルケ(1875〜1926)のことを思い浮かべていました。
相手がおもしろいかどうかだけではなくて、
こちらがおもしろがれるかどうか、
みたいな話なのですけれど。


[今日の2行]
書くというよりも、むしろ何かに書かれてしまうのだ。
ぼくという人間は刻々に変化してゆく印象なんだ。
                   (リルケ)

[今日のぼくの質問]
頭を動かしていないで前とおんなじことを
自動的にくりかえしているのだったら、
つまらないことしかできなくなりそうだなあ、
と思ったところから今回のテーマの
「いつのまにかぶらさがること」
とゆう話題になったのですけども、
結局、頭と心で汗をかいているかどうかなんだ、
みたいなロケンローっ路線になるのでしょうか。

「ぶらさがり」とか「驚き」とかに関して、
みなさんからメールをいただけるとうれしいです。

今日の2行でまとめたリルケの言葉にあるみたく、
取材先の内容をこちらが書くというよりも、
むしろ、そこに行ったときの
じぶんの状態こそが書かれてしまうんだよなあ。

mail→ postman@1101.com

2000-04-30-SUN

 
BACK
戻る