第22回 意味は、あふれているのだろうか
イメージが、世の中をつくりだしている。
そのようなことが、確かに言われている。
しかも、その通りだ。
例えば、あなたがずうっと眠っているときに、
同時に外の世界で起きていることをわかるのは、
特殊な事情でもない限り、たぶんむつかしいですよね?
イメージや意識がないと、わからなさそうです。
見たり聴いたり触ったりしゃべったりすることは、
何かを意識することに思えるのだけども、
その、意識、とは、何じゃろか?
何をどこまで意識をすることが、快感なのだろうか?
芸術への関わりかたを通して、
どこまでイメージするのが快感なのか、
を考えていたソンタグ(1933〜)というひとは、
次のようなことを言っています。
「事件は、解釈をすることを抜きにしては
意味を持ちえないのだけれども、
今のわたしたちにとって、
解釈とは、ものごとを過剰に意味づけてしまう。
解釈が、何かをそのままでは放っておけない
俗物根性に過ぎなくなってしまっているのだ。
芸術を、疑わしい理論によって分類するのならば、
もとの芸術は、わかる範囲の実用品になってしまう。
これ以上に、芸術を思想だとか文化だとかに
吸収してしまっては、息が詰まっちゃうんだ。
今の文化が生産過剰に根ざしているので、
わたしたちの感覚はどんどん鈍くなる。
感覚を取り戻したいんだ。
もっと多くを感じたい。
わたしたちがこれからやりたいことは、
作品のなかの最高の内容を見つけることではない。
すでにある以上の内容をしぼり出すことでもない。
ものを見ることができるように、
内容を切りつめることなんだ。
芸術を、薄めてしまってはいけない。
芸術やわたしたち自身の経験を、
もっと確かに実在感のあるものにしたいんだ」
意味づけばかりをしつづけて、
訳知り顔だが何も感じないひとが増えている、
そう言いたい気持ちはすごくわかるけども、
「生産過剰」という言葉が、気になりました。
あれ?本当に、生産過剰なのでしょうか?
求めているものが、うようよしているのでしょうか?
そんな気は、あんまりしない。
ほんとに欲しいものは、まだ、なかなか見えてこない。
実は、おんなじようにできているだけで、
要らないものが、過剰にあるのかもしれない。
感覚を鈍くしないために
過剰な意味づけの世界から逃れるのは、
とても大事だとは思うんだけど、
そうじゃない生産を求めたい気分もあるんだよなあ。
単調な意味づけのうるささからは逃れて、
だけど、もう一歩、何かが要るような気がするのです。
過剰で退屈するような意味づけではないものに、
ぼくは、逆に言えばすごく飢えているのだから。
[今日の2行]
今は生産過剰に根ざしているので、感覚が鈍くなる。
経験を、もっと確かに実在感のあるものにしたいんだ。
(ソンタグ)
[今日のぼくの質問]
このひとの言葉には、かなりのヒントを得ています。
特に、今回触れなかった後半は、すごく好き。
だけども、今回ぼくが逆に鍵だと思ったのは、
「生産過剰な世の中では、解釈がうっとうしい」
というところです。量で言えば過剰と言えるけれども、
質の面では、今もまだ「ない」のかもしれないから。
ソンタグの言葉を、もっと突っこんでみれば、
失った感覚を取り戻すと言うよりも、
ありそうでなかった感覚を、快感にしたいのです。
このひとの言葉に関してや、
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