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第23回 怠けて許すことについて

メールをくださり、どうもありがとうございます。
今回は、第20回に対してこちらに届いたなかの、
1通のメールから、はじめてゆきたいと思います。

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言葉にしてしまうと、
すごく身近で自分にとってリアルになってしまうから、
大抵は飲み込んでしまうことが
多くなってしまった気がします。
それは些細なことだけだったはずなのに、
いつの間にやら大事なことも一緒に
飲みこんでしまううようになっていて、
自分にびっくりすることが、多くなりました。
無意識に「リアル」というものを
遠ざけているのかもしれません。

「切り刻むためではなくて」を読んで、
私なりにぼんやり考えてみました。
四方四面に切りとるような
物の見方をしている人もいますが、
まあるく、何かその端からは
こぼれるものがあるくらいが
丁度いいんじゃないかなぁと、私は思います。
すべてを取りこぼすまいと必死になるよりは、
それくらいしゃべることに対して怠け者のほうが、
相手をどこかしら許している気がします。

すべてを知りたいと思う気持ちは、
誰かを傷つけてしまったりすることも
あるのではないでしょうか?

人と本当をしゃべるというのは、
実はものすごく時間がかかるものではないかしら、
と思う今日この頃です。

N
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「許す」という言葉に、ほっとしました。
もともと、まだじぶんを許せるくらいには
なっていないように感じる機会が多いのですが、
でもなぜか、このメールを拝見した時に、
予想以上に肩の力が抜けたじぶんがいたのです。

もちろん、じぶんを簡単に許したくはないのだけど、
現実的にぼくがほっとした、ということは、
そういう一見うしろ向きに見られがちな表現に、
実はどこかで飢えていたのかもしれないですね。

どうでもいいままで心地のよい関係も、あるのだし、
だめなじぶんのままを許せて楽しくできる場面は、
たまに気持ちが渇いたときには、要りそうですよね?

5月病を意識するわけではないけども、
今の時期に、がんばりたくないじぶんというのを
許せないまま、どんどん泥沼にはまってしまうひとが、
実は、かなりいるのだろうなあ、と想像しています。
そういうわけで、怠け気味に、許し気味に、
今回はひとつ、シェイクスピア(1564~1616)の
投げやりな言葉でも、引用してみますね。

「どうとでもなれ、
 どんな嵐の日でも、時は経つ。

 明日が来て、明日が去り、
 時というものは、一日一日と小刻みに、
 この世の終わりに辿りつくまで、滑り落ちてゆく。
 いつも、昨日という日が、
 おろかなひとの塵にまみれているだけだ。
 消えろ、つかの間のともし火!
 ひとの生涯は、動きまわる影に過ぎない。
 あわれな役者だ。がやがやがやがやうるさいだけで」

「どーでもいいよなあ!」と、
王様の耳はロバの耳、みたいに叫んでみて、
いったん許し気味なままで頭をリセットして、
もう一度普通のテンションに戻りましょ、というのも、
ありではないかなあと、何となーく、思ったりして。
そればっかりになるのは、どうかとも感じるけども。


[今日の2行]
どうとでもなれ、どんな嵐の日でも、時は経つ。
時は、おろかなひとの塵にまみれているだけだ。
              (シェイクスピア)

[今日のぼくの質問]
怠けたり許したり開き直ったりすることについての
メールをいただけると、とてもうれしく思います
あと、実はNさんのメールは、くりかえして読むと、
今回の話題にとどまらない深さがあるのです。
ですから、Nさんの文章への感想も、
もちろん、よろこんでお待ちしています。

mail→ postman@1101.com

2000-05-12-FRI

 
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