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第26回 不器用な表現について

たくさんのメールを、ありがとうございます。
ある作家の言葉に、こんなのがあります。

「ぼくは読む。読んでいると思いこんでいる。
 だけど、読みかえすたびに、決まって、
 実は読んでいなかったことに気づく。
 その時々のぼくらの気分に一致しなければ、
 ぼくらは、読んでいても、よいとは思わない。
 読むひとの望みは、じぶんを読むことなんだ」

ぼく個人に関して言えば、
まったくそうだよなあと思います。
みなさんから来たメールに触れるときにも、
それに、ひとに会って話すというときにだって、
気持ちの状態に左右されながら、
いろんなことを受け取めているので。

読んだはずのメールなのに、
読みかえすと、まったく別のもののようで
ひどく驚いてしまうときも、しばしばなのです。

そのような気分のままで、
今回は、あるかたのメールを、
ぜひ紹介したいなあと思いました。
このコーナーの第24回にいただいたものです。

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眠りから覚めたような、
目覚めることのない、どんよりとした夢から
おこしてもらえた感覚を感じたことがありました。

私は、小さい頃に身につけてしまった、
「人に頼ると自分を見失うことがある」
という考えを持ち、20年間生きてきました。
だから、人に深く関わること
(説得するとか意志決定に関与するなど)をしないし、
自分の本当に苦しんでいることは
わからないから相談もしない、と思ってました。
こんな、心を抱えて、理由なき不安感のもと、
私はこれからどうなっていくのだろう。
そんな感じで、いました。

ある時、友人の友達(会って間もない)と、
人との距離の置き方について話しました。

たまたま。

私の話を聞いて、
「つらくなる考え方をしてる。
 助けてあげたい。どうにかしたい」
と言いました。

私は、自分のこの感情を、理由も知らないのに、
どうにかしてあげたいと言われたことで、
救われた気がしました。

私は、人に頼らないぞ、信用しないぞと、
本来の自分にいいきかせてたんだなぁ。
別に、なんてことはないことと思われますが、
私にとって
「なんとかしてあげたい」
っていう気持ちが、
こんなに大事なものなんだって知れて、
不安がとけたんです。

解決方法を出してくれなくても、
感情の共有が大事なんだって気づきました。
よく、そうゆうことは言うけど、
こうゆうものなんだって感じました。

Y
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Yさんのメールには、
とても心がこもっていたから、
ぼくは読んだあとに、冒頭にも言葉を紹介した作家、
コクトー(1889〜1963)のしゃべりを思い出しました。

「じぶんの限界を乗りこえられるひとは、
 誰ひとりとしていない。
 才能は、敵の突きを避けて
 身をかわすときのわずかな隙間のなかで、
 どれだけ動けるか、という程度のものなんだ。
 だったら、うまく立ちまわるよりも、 
 不器用であったほうがいい。

 装飾は、ぼくらを毒している。
 ぼくらは装飾に幻惑され、
 他の残りを見過ごしてしまう」

ひとに頼りすぎるとじぶんを見失う、
そういうYさんの深い決心みたいなのがあって、
20年もつづくハードなものだったわけですよね。
でも、すごくいいひとと出会ったみたいで
「心がとけました」
「よく、そうゆうことは言うけど、
 こうゆうもんなんだなって感じました」
とあたたかい文章がそこにあった。
ぼくはそれを読んで、うれしいなあと思ったの。

Yさんの飾り気がない素直で本当な言葉に対して、
何だかものすごく「ほっ」としました。よかったー。


[今日の2行]
じぶんの限界を乗りこえられるひとは、誰もいない。
だったら、無器用であったほうがいい。(コクトー)

[今日のぼくの質問]
Yさんのメールは、素朴と言えば素朴な表現だけど、
でも、読んでいて、すごく胸に来た。
こうゆうのが表現なんだよなあ、と思いました。

心から思ったことを、
表現のしすぎで濁してしまう場面がありますよね。
それを語ること自体が、むつかしいのだけれども。
表現はすべてつくられたものだとも言えなくないし、
表現しすぎと表現がうまいとは、また違うし・・・。

不器用な表現や素直な表現などなどへの、
考え途中のメールをお待ちしています。

mail→ postman@1101.com

2000-05-27-SAT

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