第29回 編集の多重性のようなもの
「つくるというのは編集することなんだ」
「伝えるというのは翻訳をすることなんだ」
といった言葉に、以前どこかで触れたことがあって、
ぼくは、「そうなんだよなあ」と興奮していました。
なぜなら、つくったり伝えたりするときには、
自分に対してもそれを見るひとに対しても、
編集をして形にして翻訳してあげないと、
よくわからないままに消えちゃうだろうからなのです。
誰かと一緒におんなじものを眺めていても、
曲をきいていても、芝居を観にいったとしても、
ぼくたちがそれぞれに感じていることは、
おたがいに、あまりにも違っていますよね。
だから、観たはずの「おんなじもの」への感情は、
観たひとの数だけ多くにわかれていることになります。
つまり、そもそも、ものの見方そのものが、
ある意味での選択と言うか編集じゃないですか。
まあ、当たり前のことかもしれないですけども、
おんなじ何かを観るという行為だけにでも
観たひとの数だけの編集があるということに対して、
ぼくはけっこう愉快な気がしているのです。
今回は、そういう編集についての、
バシュラール(1884〜1962)という哲学者の言葉です。
シャガールの絵に対する感じかたを述べる部分が、
彼独特の編集のしかたをあらわしているの。
「他にも数多くある読みかたのひとつを選んだ結果、
ぼくはシャガールの作品の
すべての富を語るというわけにはゆかなかった。
もちろん画家は、絵を描くときに
何をどう選んだのかの理由を語る必要はない。
だけれども、これだけの豊かな絵を前にすると、
絵への画家の考えかたが、すごく大事だとわかる。
画家の考えかたを理解するためには、
白いキャンバスを前にしたときの作者の孤独を、
生き直してみなければならないだろう。
その孤独は大きい。
消えてしまったものの姿を再び浮き上がらせるのに、
画家に手をかしてくれるものは、何もないのだから。
引き写して済むものは、何もない。
すべて、創造しなければならないものだけである」
画家が個人的な見方で何かを生み出したあとで、
それを観たひとがまた他に思いを生んでゆくという、
ここでの、編集の連鎖反応のようなものを、
ぼくは、かなりいいなあと思いました。
バシュラールが大切にしているのは、
ある作品が、ひとに向けて
しゃべりかけているところなのだそうです。
「ひとが、そうやってしゃべりかけられたままに、
実体験を超えた夢をみることこそが、最高なんだ」
と、彼は別のところで記しています。
「目の前に真実があると自覚をしながら
夢をみることが、必要なんだ。
ぼくは深い夢に沈みこんで、
もうじぶんがどこの国にいるのか、
どこの時間のなかに埋もれているのか、
わからなくなってしまうほどになる。
ぼくのものではない過去が、ぼくに根をはって、
果てしない夢を与えてくれるんだ」
それぞれのひとの見方を、夢なんだ、ととらえるのは、
編集ということに絡めてのヒントになるよなあ、
と思って、このひとの言葉を紹介してみました。
[今日の2行]
ぼくのものではない過去が、ぼくに根をはって、
果てしない夢を与えてくれるんだ。(バシュラール)
[今日のぼくの質問]
古い本を読んで、いいなあとため息をつくときには、
上の2行のようなことが起きているように感じます。
そして、
「引き写して済むものは、何もない。
すべて、創造しなければならないものだけである」
という言葉は、編集するうえで、すごく大事だよなあ。
編集は、機械的にとりあつかえるものではなくて、
明らかに、自発的な発想を必要とするものだろうから。
編集ということやつくるということに絡めて
みなさんが感じていることを、うかがいたく思います。
・・・あ、それって、ずいぶん直球な質問ですから、
まずは、みなさんの考えの片鱗みたいなものだけでも
メールで送ってくだされば、すごくうれしいです。
その他のメールも、もちろんどうぞ。
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