#1 幸せに生きるための言葉
「人は、正当な理由があって嫉妬するのではなく、
ただ疑い深いから他人を嫉むのである」
「人は、ただ勝つために戦いを求めるのであって、
決して正当だからそうするのではない」
こういった、
古来からの言葉そのもののような現実に打ちひしがれつつ、
毎日、山積みの問題に迫られている人は、いませんか?
毎日の忙しさに追われて、
たまに「これでいいのかなぁ」と思いながらも、
懸命に子供を育てて働いている人は、いませんか?
「自分の意見を何も言わず、
すでに認められているとわかりきった、
手垢のついた体裁のいい言葉で会話を埋めている奴」
に、もう飽きたという人は、いませんか?
利口者として扱われることを
守るだけでは嫌だという人は、いませんか?
そういう人たちに、語りうる言葉は、
実は、たくさんあるのではないのでしょうか。
……悩みや生死の意味を語るという意味での
哲学は通用しないと、巷では、よく言われています。
哲学そのものが、
今は細かい理論別に分断されているから、
専門家として研鑽を積めば積むほど、
自分の知る分野以外のことは見えなくなっている。
だから、哲学が語る内容は
非常に限定されたことだけにならざるをえないし、
哲学者の仕事は、だいたいは、
学校で哲学を教えること以外にはないのだ、と。
しかし、もともと歴史的に見れば、
何を論じているのかさえわからないものが、
哲学と呼ばれてきたわけです。
そもそも、デカルトの当時の職業は数学者だったし、
カントが教師になっていた科目は人類学や地理学でした。
何千年という歴史のある学問の哲学だけど、
社会的には、認められている時期のほうが少ない……。
それなら、こっそり好きなように使う
哲学の言葉があってもいいはずです。
紹介できる言葉なら、充分にたくさんあるのですから。
世の中に残って使われている言葉については、
誰が最初にそれを言いだしたのかということよりも、
言葉がちゃんとそこにあるということが、重要なんです。
使われないで埋もれている知識は、価値があっても
邪魔者扱いをされてしまっているのかもしれませんし。
あなたは、たぶん、
「多くのものごとを知っているはずなのに、
知ってるぶっているのに、一歩も動けなくなっている人」
を、何人も見たことがあるのはないでしょうか?
異議が多すぎ、相談が長すぎ、
冒険が少なく、後悔が早すぎ、
めったに仕事をやりとげず、比較検討をしすぎたあげく、
いいかげんな結果で、満足してしまう人たちの姿──。
重要なところをついている言葉でさえ、
時と方法を選ばずに
使われていいものではないと言われますが、
ただ、放置した鉄が錆び、飲まない水が腐るように、
使われない知識というものは、
どんどん、損なわれてゆくものなのかも知れません。
つまり、ひとつの考えを知ること自体は
それほど難しくはないのに、その知ったことに向けて
自分の身を投げ入れることは、かなり難しいと言いますか。
あるひとつ試みに身を投げた結果は
時が経たなければわからないのだし、
その望みが満たされるかどうかについては、
一生かからなければわからない場合もあるのですから。
でも、徒労の人生を笑う人は永遠に傍観者に過ぎない。
勇気を持っている人が、
勇気を持たない人から気持ち悪く見られてしまうように、
意志を持たない人には、そもそも、意志に身を投げた人の
経験したことを理解できないわけでして。
そんな、
「もう、学生気分で、いつまでも
他人のことを評論している時期は終わったんだ」
と思っている人に向けた言葉を、
この連載では、すこしずつおとどけしたいと思います。
たとえば、
職場の遅刻常習者に腹を立てて悩んでいる人が、
世の中には案外たくさんいて、
以前の「ほぼ日」で遅刻論を特集したときには
以下のような反響を、何十通もいただいたのですが……。
あなたは、次のような悩みの告白を耳にしたら、
その人たちに、どんな言葉をかけたいと思いますか?
「遅刻をする人がほとんどの会社にいるので、
遅刻をしないことのよさを、会社の人に語れません。
毎日真面目に出社している自分がバカらしくなります。
毎日気になっているけど、怒りを口に出してしまうと、
なんだよ真面目ぶりやがってと思われるのが怖いんです」
「会社に遅れる人はいつも同じ。
腹を立て、中間管理職なので注意もしてます。
遅刻常習の人は見通しが甘く、行き当たりばったり。
そういう生き方に不自由を感じないらしいので、
正論を言ってもなぁと思ったのですが、
仕事が進まないので注意し続けました。
遅刻の回数が減ってますが……私、煙たがられてますね」
「同僚の遅刻を会社に訴えても空回りするだけでしょう。
日常を見つめると損得がわかるのでは?
私の会社の社長が素晴らしい実績を持っているのは
『約束を守る・嘘をつかない・時間を守る』を
守っているからだと思います。特別な人ではないですが、
出会いや友人の多さも、時間の工夫から来ているのです」
こういうふうに悩んでいる人は、依然として多いし、
今日も、遅刻する人としない人の小競りあいは続いてゆく。
ウィトゲンシュタインという人は、そういった
ままならない現実を、次のように捉えたことがあるんです。
「世界で起きている現象は、すべてが起こるように起き、
世界の苦難を避けることができないというのに、
そもそもいかにして人は幸福でありうるのでしょう?」
おもしろいことに、この哲学者は、
世俗的にどんなにつらい目にあっていても、
人は幸福でいることができるんだ、と考えました。
思考できないものを、思考することはできない。
思考できないものを、語ることもまたできない。
だから、自分が感じることのできる世界こそが、
その人が感じている世界の限界そのものになる。
「だからこそ、人は幸福でいられるのです」と。
これだけでは、まだ、わかりにくいかもしれないので、
ウィトゲンシュタインの考えを、さらに補ってみましょう。
「世界はありのままにあるだけで、
世界自体には、善悪の価値は存在しません。
善悪の価値は自分がいることではじめて登場するんです。
『自分』は世界に属してはいません。
そうではなく、『自分』こそが世界の限界なんです。
だから善や悪は、自分の意志そのものだと言える……。
つまり、幸福や不幸は自分がそう意志したのであって、
幸福も不幸も世界には属していないということです。
幸福も不幸も、世界の中の性質を示すではなくて、
自分の意志を示している言葉なんです」
世界がいかに悲惨でもそれは事実にすぎず、
事実に善悪や幸不幸を見いだすのは意志なのだと、
若き日のウィトゲンシュタインは強く主張しました。
だとすると、
怒りの業火で自分の身を焼いてしまうときには、
世界が怒りの業火で燃え尽くされてほしいという意志が
そこにあるだけ、ということになるのでしょうか。
幸福も不幸も意志次第、と、
まるで神父さんのようなことを、
二〇世紀最大の哲学者のひとりとされる人物が
語っていたということを、今回は、ご紹介してみました。
……こんなふうなペースで、
いろんな境遇にいる人にヒントになりそうな連載を
しばらく続けていきたいと思いますので、
今後も、ぜひ、たのしみにしていてくださいね。
「今回のものを読んで、こういうことを思いました」
「今後は、たとえば、こういう分野の話を扱ってほしい」
といった感想は、いつでも非常に大きな参考にしています。
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曖昧なままの感想も、ぼくとしては、さらに
あなたのツボを突く言葉を探すきっかけになりますので。
木村俊介
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