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#2 自分のすべてを乗せる器


前回の「コンビニ哲学」宛てに、ありがたいことに、
実感に根ざしたおたよりを、たくさん、いただきました。

「気まぐれで、昼に読んでみてよかった。読んだ後、
 『虚しさを感じるだけだから考えないようにしよう』
 といつも思ってるはずなのに、
 ある人に対して嫌な感情が沸いてくる自分のことを考え、
 そして結論が出ました。
 やはり、相手をするだけ時間の無駄です。放っておこう。
 あーすっきり!」

「ウィトゲンシュタインの言ったことから反れますが、
 『自分こそが、世界の限界』ということは、つまり、
 『自分の数だけ世界がある』ということになるので
 『人が現れて以来、どれだけの世界があったのだろう?』
 と想像しつつ現実逃避してみたら、仕事のストレスから
 一時的に解放されて、ちょっと楽になりました」

「今日のウィトゲンシュタインの言葉は、
 最近考えていたことに妙にハマり、納得いたしました。
 そうですよね。幸福も不幸も自分の意志なんですね。
 ところで、以前から疑問に思っているのですが、
 美には客観的な基準があるのでしょうか?
 ゴッホは生前一点しか絵が売れなかったのに、
 現代のオークションに出品されれば何十億の値がつく。
 美の基準に類することに、かつて、
 明快な答えを与えてくれる人がいたのでしょうか」

「読んでいるうちに、中国の故事を思い出しました。
 『黄河の流れをみて、愚かな人はこれを火とみる。
  人間はこれを川とみる。賢人はこれを宝とみる』
 言葉も、受け取る側の状態次第で、よくも悪くもなると。
 手垢にまみれて口にするのも恥ずかしかった『哲学』は、
 近頃、諸外国から、哲学なき国と揶揄されはじめてから、
 また、大切なものになりつつあるような気がしています。
 哲学は、評論でなく、人間って何、幸福って何、という
 素朴な学問のはずでしょうが、いわゆる哲学書の中には、
 言葉の力に頼りすぎるものもあり、人に一番近い哲学が、
 人からどんどん遠のいてしまったような印象があります。
 人間的な成長に寄与したり、
 豊かな生活に寄与したりする哲学が、あってほしいです」


「その感想から次の話をはじめたい」というおたよりを、
他にも、ほんとうにたっぷりと、いただいたのですけど、
今回は、最後のおたよりの「言葉の力」というところから、
話を、はじめていきたいと思います。

(ちなみに、三番目のメールの「美の基準」については、
 ウィトゲンシュタイン本人としては、
 「美とは、まさに、幸福にするもののことである」
 という、ついつい気になる手記を残していたことを、
 参考までにお伝えしておきます。近い将来、ここで、
 その話をするかもしれませんので、おたのしみに……)

言葉の力に頼りすぎてしまったあまり、
現実に効かないというか、胸に染み入らない主張は、
とてもたくさんある。そう感じている人は多いと思います。

言葉は要らない、言葉は不充分、目は口ほどにものを言う?

「言葉にしちゃうと、自分のイメージの限界を作るから、
 自分のやることは言葉にしないようにしている」という
スポーツ選手もいるほど、評判の悪いものが、言葉で……。

ぼくも、そういう主張を、直接に聞いたことがあります。
農業の現場で、とてもおいしい野菜を作るおじいさんから。
あちことの農地や、離島に向かう船の中や、夜の山小屋で、
静かに聞いた話の一部を、参考までに紹介してみます。

「今、例えば、大学の農学部では、
 栽培についてのあれこれを知らないまま、
 学者然とした人間が大きな顔をしてモノを言ってます。
 数字に強ければ、論文は、じょうずに書けますな。
 ところが、現場で実現ができない理論は要らんのです。
 学者が根拠にしている実験データは、現実に合わない。
 自転車も乗ってみないとわからない所があるように、
 野菜も実際に育てなければわからないことがある。

 たとえば、一家の事業として失敗してはじめて、
 情報のありがたさがわかる。生活がかかっているから。
 私も、あちこちの栽培の現場で、
 理屈を説明するように求められる時があります。
 技術的な意味づけは何? 科学的にはどう説明できる?
 そう問われても、私が言えることは、ひとつ──。
 理屈がわからなくても、やむをえない。これだけです。
 理論的な裏づけがないとしても、
 『ただ、そうなっている』という事実をもとにせず、
 他に何を見たらいいのでしょうか。
 わたしのやっているのは農業です。農学ではない。

 若い頃に戦争が終わってから、知性とか理屈とか、
 立派なことを言うヒマがなかったんですよ。
 投げこまれてしまった危機感しかなかった。
 父は敗戦前に死に、私に残されたのは痩せた土地だけ。
 それを利用するか、家業をやめるか。それしかない。
 痩せた土地がおいしい野菜を生み出すと発見したのは、
 偶然です。私に残された土地がそれしかなかっただけ。
 知らないことは、知らないままでいいのではないですか。
 ……率直に申しますと、
 文字だけ読んで死ぬような人間が多すぎるんですよ。
 本を読むなとは言いませんけど、
 そっちが先じゃないんだよということが大切なんです。
 人間として生きる方が、本よりも先ですからね。

 たとえば射撃にしても、社会的には
 『あの射撃バカが!』と言われるぐらいの人の方が、
 迷いが少なくて射撃がうまかったりするじゃないですか。
 そういう人の方が素直ですぐ覚える。農業もそれと同じ。
 パッと飛びこむ度胸のある人なら、
 こちらが教えることも微調整で済みますが、
 理屈ばかり考えて何もせんような人に農業を教えるのは、
 とてもむずかしいのです。
 農業って、動きまわらなきゃできないし、
 非常に落ち着きのないものですから」


一生懸命に、現場で、
何十年も農業を続けているおじいさんだからこそ、
農学者の言葉に制約されたくないんだと思ったようで、
そのこと自体は、よくわかると感じつつ、聞いていました。

ただ、ぼくは、
この尊敬すべきおじいさんの話を認めているはずなのに、
「文字だけ読んで死ぬような人が多い」
と聞いてる最中に、
「文字だけ読んで死ぬようなのもいい」
と、ふと一瞬、感じてしまった……。

なぜか。

もちろん、人を巻きこみすぎたり、
人に命令をし続けたりする言葉は、
あまり気持ちのいいものではないと思います。

そういう言葉は、いくら最初には
こういうことは直したほうがいいよと穏やかであっても、
そのうち、前に言った言葉では刺激が足りなくなってゆき、
まるで、革命政府がいつも流血の惨事を生んでいくように、
言葉で人を奴隷のような状態に縛りつけたがるから。

ただ、こういった「制約を押しつける言葉」とは、
まったく逆の「制約からスタートする言葉」もあるんです。

人は、自分を取り囲む人やものから影響を受けていて、
さまざまな身のまわりのことに気兼ねしている存在です。
「外界が、自分を萎縮させるか、のびのびさせるか」
人は、それによって、つまらなくも偉大にもなりえる……。

生まれおちたとたん、世界は人に影響を与え続ける。
それは死ぬまで続くのだから、
何が自分のものかと問われてしまうと、
結局、ひとつずつの影響をはぎとってしまえば、
意欲や肉体の力以外、ありえないという考えもあるわけで。

ただ、誰もが限られた境遇におかれているからこそ、
その特殊さから発見する、生き生きとした言葉があると、
そんなように、ぼくは感じたのでした。

一般的なものにとどまっている限りは、
誰にでもマネされてしまうけど、特殊さは独創的で、
しかも、特殊さの中にどっぷり浸っているからこそ、
普遍的な価値にたどりついてしまうということもある。
そんなふうに、自分の個人的な境遇を、
乗せきってしまった言葉は、かつても今も、たくさんある。

そして、そういう言葉は、
誰の口からも、出る可能性があるのではないでしょうか。

哲学者のドゥルーズは、かつて、
「哲学とは、コンセプトを作ったり考え出す技術です」
と言いました。さらに、
「哲学者は、他の哲学者の問うた考えを溶かして、
 自分の問いに必要なものを獲得していくものなんです。
 他人と同じ問いに答える必要はありません」

そんなことも、主張しています。

……はからずも、冒頭に紹介した、読者の方の感想、
「人が現れて以来、どれだけの世界があったのだろう?」
という話に、近づいてきました。

考えるうえで誰に気兼ねすることなく、しかも、
自分の制約条件は「自分だけの個性」として捉え、
そういう限られた存在である自分が、
いちばん大切だと思う方針に、現時点のすべてを乗せる。

そういうことをやり続けることのできる器が、
「言葉を綴って考える」ということではないでしょうか。

哲学者のフーコーは、次のようなことを言っています。

「限界を定めない文化などありません。
 たえず限定するのが文化の基本構造で、
 それぞれの文化は、それぞれの限界の歴史が現れている。
 超えてはいけない境界線とともに、文化ははじまります」


あなたが、あなたに固有の境遇や体験を経ている中で、
現時点で、いちばん大切だと感じている方針は、何ですか?

哲学と呼ぶには、あまりにも俗っぽいことですが、
「自分なりに抱えている制約から考えはじめて、日々、
 何をいちばん念頭に置いて過ごすかを言葉で決めてみる」
一度、こういう作業をやってみることも、オススメなのです。

もちろん、その時点での方針は、時間が経つとすぐに、
新しい制約と新しい望みによって変化するのでしょうが、
やってみるとみないのとでは、違いがあると思いますので。

今回は、
読者の方のメールをきっかけに、
「こういうことも、哲学のきっかけになるかも」
と思えることを、紹介してみました。

あなたにとって、自分のすべてを乗せる器は、何ですか?

あなたが、もし、今回に触れた
「現時点での制約を明らかにして、そこで、
 現時点での自分の生活の方針を言葉で決めること」
を、やってみたのならば、ぜひ、
postman@1101.com
こちらまで、件名を「コンビニ哲学」として、
こっそり、伝えてみてください。
プライベートに関わることについては、
特定できる形でそのまま掲載したりしないので、ご安心を。

それから、
「読んで、こんなことを思った」
「次は、こういう分野を取りあげてほしい」
などといった感想や要望も、もちろん、お待ちしています。
postman@1101.com
こちらの同じアドレスに、
件名を「コンビニ哲学」として、お送りくださいませ。
一通ずつ、じっくり読んで、参考にしたいと思っています。


                   木村俊介

このコーナーを読んだ感想などは、
メールの件名に「コンビニ哲学」と書いて、
postman@1101.com
こちらまで、お送りくださいませ。

2003-09-24-WED

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