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#5 避けられない故郷に生まれて


「今、二三歳です。
 自分で選んだ道ですが、フリーターを辞めたいです。
 フリーターどうしの飲み会に行くと、必ず誰かが、
 『いい出会いだった』『いい出会いがほしい』
 というようなことを言い、転々と職を変えています。
 それで旅行に出て帰ってきて、また飲み会があって……。
 『いい出会いだった』『いい出会いがほしい』と喋る。
 このくりかえしって、とまらないんですよね。
 そういうことがフリーターの醍醐味だとも感じますが、
 『……もう、いいんじゃないか?
  テレビを見るように他人を見て、あれこれ言うのは、
  ほんとに、もう、いいんじゃないか?
  自分が、がんばれよ』と、最近、そう思うんです」

「大学四年生で、卒論と公務員になるための勉強中です。
 ただ、どうも空回りしているというか、何かが違う。
 勉強とは別のところでも、同じような感じがあります。
 友人やいろんな人たちと話をしていると、
 『考えてるね』とよく感心されることがあるんですが、
 そんな時にも、やはり、何かが違うと感じていました。
 そして、この "#4" を読んで改めて感じたのが、
 ぼくの言葉の中には自分がいない、ということでした。
 自分から出る言葉は、外見は良いけど、中身は空っぽ。
 公務員の勉強中でも、意志が漠然としていて空回り。
 がんばっているつもりになっていました。
 ちゃんと足跡をつけて歩いてきていなかったと、
 とても、寂しくなりました。
 ただ、これから後悔しないためにも、
 今の自分の空っぽの箱を、満たしていこうと思います。
 空の箱があるから、いろいろなものを入れられるのだし」


前回の "#4" にいただいた、
たくさんのメールの中から、二通を紹介してみました。

こういうおたよりを読むと、
一学期を無駄に過ごしたと嘆き、先行きに悩む若い学生に
ある哲学者が書き送った手紙を、思い出します。

「人は、たえず驚嘆や幸福や冒険の高みに
 いつづけられるほど、単調なものではないんです。
 時代と環境が、君に対して、早くから多くのものを
 持ちこんでくるのだから、疲れやすいのも、無理はない。
 すべてのものを簡単に古びさせてしまうような時代には、
 きわめて強靱で寡黙な者だけが、
 人目を引くことも騒ぎたてることもなく、
 何かのために、力を尽くすことができるのでしょう。
 そもそも、力とは、外部から生じるものはないと思う。
 力は、自分と他人への静かな信頼から、生まれる……。
 つまり、無駄になった時間なんていうものはなくて、
 そこにあるのは、一片の『生きられた人生』なんです」


手紙を読んだ学生は、
その後、五〇年以上も、哲学に関わることになりました。
「どうしようもない分裂した印象を与えていたのに、
 学生たちは、いつも彼に夢中だった。なぜなら、
 哲学上の意欲の強烈さにかけては、彼が他のすべての
 大学哲学者たちを、遙かに抜きんでていたからである」
この哲学者について、他の学生は、そう語っています。

「哲学は、人がいかに青二才であるのかを、
 強烈に、持続的に、示してゆくものです。
 だから、哲学をする人であることは、
 初心者であること以外の何者でもないと思います」


そうつぶやきつつも、運命に翻弄され続けた
ひとりの哲学者の生涯をふりかえることには、
「避けられない運命」とかいうことを考えるヒントが
たくさん転がっているのですが、今日はその生涯の、
ごくごく一部の青年期だけを切り取って、紹介してみます。

そもそも、
「避けられない運命」と言えば、少し前の「ほぼ日」で、
「人にとって、契機と呼べるものは、
 避けられない地点からしか、来ないのではないか?」
という言葉を紹介したことがあるので、
それを覚えている方も、いらっしゃるかもしれません。

そのときには、
「避けられない宿命を、いったん認めてしまってから、
 その悩みのコブみたいなのも含めて、味わおうと思う」
という反応を、たくさんいただいたのですが、
「避けられないと思っていては、頑張れなくなっちゃう」
というメールも、いくつか、受け取っていたんです。

「避けられなかった運命は、
 ふりかえってはじめてわかるもので、
 最初から諦めて受け入れるものではないと思います。
 どの道の一流の人でも、待ってたら自分の運命がきた、
 なんて人はいませんよね?
 やらずにはいられないことを、がむしゃらに
 がんばったら、結果的に偉大なものが残せたのであって。
 私は普通のOL(三〇歳)ですが、
 受験や大学生活・仕事の中で、それなりに勉強をし、
 また、遊びもたのしんできました。
 頑張らないと試験にも通らないので、
 試験前には死ぬ気でがんばったこともあります。
 学生時代、まじめにクラシックバレエをやってましたが、
 足から血を出して、次の瞬間倒れると思ったときも、
 笑顔で舞台に立てるよう踊り続けることは当たり前です。
 結果的には、それで得られたことは、本当に大きかった。
 逃げない姿勢も身につけることができたし、
 がんばることで、人生の選択肢の幅が拡がりました。
 だから、私は、安易な、がんばらないでいいんだよ、
 という、相田みつお風の言葉が、大嫌いなのです」


こういう感想も踏まえながら、
避けられない運命についての話を、読み進めてくださいね。

……「避けられない経験」とは、言い換えるとするなら、
「自分では選べない経験」でもあると思います。

避けられない運命の中で一生懸命だったひとりの哲学者は、
どんな「自分の運命」を、言葉に乗せてゆくようになるか。
今日は、その物語を、すこしだけ、のぞいてみましょう。

哲学者が生まれたのは、
湖と山脈と河川に囲まれた小さな町。

カトリック教会どうしの争いがやまない中で、
彼の両親は、非常に保守的な派閥に、留まっていました。

哲学者の父は、教会の堂守も勤める、
実直で無口で目立たない、樽職人の親方。
父は、自分の勤める教会と同じ名前を哲学者に名づけた。

母は、農家出身の自覚を強く持ち、
いつも前掛けと頭巾をつけていた働き者。
「人生は、すばらしくあつらえてあるので、
 いつも何かをたのしみに待つことができる」
と話すのが口癖の、快活な女性でした。

哲学者の少年時代は、常に、教会とともにありました。
まじめで優秀な彼は、教会の司祭に見込まれて、
ラテン語の個人指導も受けています。

「教会のお祭りの日々。夜の祈りの日々。
 季節の歩みや、毎日の朝や昼や夕を
 たがいにつなぎあわせる、不思議な継ぎ目。
 子供の夢と遊びの中を通りすぎる、教会の鐘の響き。
 そこには魅惑的で平穏な、いつまでも続く秘密があった」

「学校の湖の上に船をうかべて、
 こうして水の上を走っているときのすばらしさは、
 母の目と手で囲まれた世界の上にこそあるのであって、
 すべての岸辺を後にしてさまよう放浪の旅については、
 私は、まだ、何ひとつ知らずにいた」


本人が後になって思いかえしてみても
神父になるために生まれたような、幸せな少年時代。
周囲は、まじめな彼が神父になる将来を、疑わなかった。

田舎町で一番の秀才が、
「私は学問の生涯をカトリックの思想のために捧げます」
という奨学金願書を書いて、遠方の学校に通うようになる。
それは、町の誇りでもあったようでして。
彼が大学入学資格を得たとき、当時の地元の新聞は、
ニュースとして、そのことを取りあげていました。

「当地の教会堂守の息子、
 ギムナジウムの最終学年である青年が、
 フライブルクで卒業試験に極めて優秀な成績で合格した。
 大変な努力家で、才能にも恵まれたこの若者は、
 神学の研究に身を捧げたいとの意向である」


卒業後、彼は、大学の神学部に進むよりも、
すぐに修道院に入って神父になりたいと考えました。

しかし、修道院の生活がはじまったとたん、
山歩きの途中に心臓が痛いと訴えてしまったせいで、
「身体面で不充分」と判断され、わずか二週間で
修道院を去らざるをえなくなってしまいました。

失敗しらずの秀才の、二〇歳の挫折。

小さな出来事に、大きなショックを受けた彼は、
それだけが原因ではないのですが、歳を追うごとに、
すこしずつ、カトリックから離れてゆくことになります。

その後は、大学の神学部に入学したものの、
親の強い反対を押しきって、哲学部に転部。
彼の哲学は、次第に、カトリックの教義とは
まっこうから対立するものになってゆきました。

後年の彼の哲学からしてみれば、一見、
まわり道にしかなっていないように見える
生まれて以来のカトリックへの没入は、むしろ、
彼に、考えることの切実さを与えたのかもしれません。

周囲の何もかもが調和していた頃の、
両親や司祭たちとの世界を捨てても、考えてみたいこと。
修道院の挫折がなければ、生まれるはずもなかった哲学。

「人生は、すばらしくしつらえてあるはず」
そう言っていた母に、わざわざ背いてしまった彼は、
二〇世紀最大の哲学者の一人、と呼ばれるようになります。
ただ、彼の両親は、その世評を知ることなく、
彼の書いた本をひとつも知らず、亡くなってゆきました。

「本当に自由な考えの出発点に立とうとする者は、
 神さえも、放棄しなければなりません。
 つまり、それを得ようとする者はそれを失い、
 それを捨てる者こそ、それを見いだすであろう、と。
 ひとたび、すべてを捨て、自分もすべてに捨てられた者、
 すべてを奪い取られ、はてしなく自分を見つめた者こそ、
 自分自身の根拠の底を、極めたことになるのでしょう」


こういう先人の言葉を、後年の彼は、共感しつつ
自分自身の物語に乗せて、大学の講義で引用しています。

信じきって、入りこんで、まじめに自分を投げだして、
しかし、広言していた夢をひとつも叶えられないまま、
そこから、離れなければならなくなってしまった世界。

故郷と呼ばれるものは、それぞれにとって、
避けられないし、選ぶことができないものでしょう。
「故郷がなく転々とした」みたいな形であったとしても、
「そうでしかありえなかった」という記憶は残るはずで。

あなたにとって、そういう、具体的にも精神的にも
離れなければいけなかった故郷は、どこですか?

安心できる土地で、かつて思っていたことと、今、
ふだん考えていることは、どんなところが違いますか?

故郷は、
「避けられないもの」なのか、
「ただひとつのもの」なのか、
それは、個人によっても、言い方によっても、
変わるものなのでしょうが、
この哲学者、マルティン・ハイデガーの場合には、
「幼少期に浸った世界を思うことから、考えがはじまる」
という姿勢は、ずっと変わることはありませんでした。

今回は、そういうことがあった、と、
まず、参考までに、お伝えしておきますね。

時間があったら、ここまで読んだ後に、冒頭の
「ハイデガーが、悩む学生に向けて書いた手紙」
を、ぜひ、もう一度、読んでみてくださいませ。
個人的な、ささやかな決意の言葉にさえ、見えませんか?

ハイデガーにとって、離れなければいけなかった地点は、
幼少期のカトリック世界以外にも、他に、少なくとも
三つはあるのですが、それはまた別の日の話題にしますね。

次回に、続きます。

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                  木村俊介
 

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2003-10-03-FRI

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