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#8 何に向けてがんばるか?


このコーナーで紹介した中のある言葉に、
「その言葉については、前々から考えていたんです」
という形での感想を、伝えてもらうことが、よくあります。

"#5" で「がんばらないでいい、という言葉が嫌い」という
メールを紹介した後、次のようなメールをいただきました。

「がんばらないでいい、という言葉は、
 がんばって、がんばって、がんばりすぎて、
 何のためにがんばっていたかを見失ってしまった人には、
 必要な言葉だと思いますが、自分でも
 『もう少し、がんばったほうがいいんだろうけど……』
 という程度の気分のときには、有害な言葉だと思います。
 過去、この国は、がんばりすぎる人がたくさんいました。
 がんばりすぎて、壊れてしまう人が、たくさんいました。
 その人たちのための言葉を、今、
 受け取るべきでない人たちが受け取り、
 本当に受け取ってほしかったはずの人たちには、
 結局、届いていないような気がするんです。
 言葉は、あまりに有名になりすぎて、
 多くの人の手あかにまみれると、意味がうすまったり、
 心にしみこみにくくなったりするように思います。
 『がんばらないでいいんだよ』
 がんばっていない人は『そうだよね』とうなずき、
 死ぬほどがんばっている人は
 『そうも、言ってられないんだよ』と、首をふっている。
 いつか、本当に壊れてしまうまで、首をふり続けている。
 激務のあまり自殺する人が、年に一人は出る職場に勤め、
 がんばるという言葉が、ずっと胸に引っかかっていたので
 つい、メールを送りました。
 壊れてしまった人の人数は、公の数字には出ません」


ある言葉に対して、
「あ、それについては、私は自分なりに思うけど」
というきっかけがありさえすれば、話が、
まるで何かに導かれるように、開いてゆくときがあります。

「がんばる」という言葉をめぐっては、そもそも、
かなり、たくさんのメールをいただき続けているわけです。

「次の人事考課で、何を言われるか、と考えだすと、
 夜中に目が覚めて、眠れなくなってしまってます。
 三〇人くらいの会社ですが、休みがちな人が二人、
 最近、突然、三週間も休んでしまった人が一人います。
 私自身も、緊張をほぐす薬をもらうようになりました」

「自分としては、近道もしなくていいし、
 『要領よくやりたい』とは、考えていません。
 ただ、何かを、一生懸命にやってみたいだけ。
 仕事をまったくせずに、会社にへばりついて、
 無意味に、ヘラヘラとお喋りしているだけの、
 時間を潰して悪影響を振りまいてる先輩を見ると、
 何だか、無性に腹が立ってくるんです。
 ぜんぜん、スマートだとも楽しそうとも思えない。
 私は、実力をつけたくて、仕事をしているんです。
 器を大きくして、器の大きい人たちと出会ったり、
 そんな人たちと一緒に仕事をしたりしたいんです。
 いつできるか、わからないけど」


こんなメールも、「ほぼ日」にいただいています。
がんばる意味が、わかりにくくなったときに効く言葉。
全員に届くかはわかりませんが、ご紹介してゆきましょう。

去年、
「コート・ドール」というフレンチレストランの
シェフ・斉須政雄さんから、直に話を伺い続けた結果は、
『調理場という戦場』(斉須政雄/朝日出版社)
という一冊の本の出版に、至りました。

斉須さんと、何か月も、何度も話しあったことは、
ぼくとしては、ものすごく大きな体験でして、
言葉や姿勢を、直に受け取ったものですから、
出版から一年半経っても、そのときに話したテーマは、
まだ、終わっていなかったりするんです。

出版後、斉須さんの言葉は、主に二〇代から四〇代の、
仕事について、喜んだり迷ったりしてがんばっている
真っ最中の人に、水がしみこむように届いたようでした。
この本に寄せられた感想を、いくつか、挙げてみると……。

「斉須さんのひとことひとことを、噛みしめて読みました。
 電車の中で『はしがき』を読んだら涙が出てしまったので
 一度閉じて、深呼吸してから再び読みはじめました。
 流し読みだけはしたくなかったので、
 同じ文を、くりかえし読み進めていました。
 自分の今の仕事に対するスタンスと照らし合わせて、
 斉須さんの人生を振り返りながら、
 自分の人生を見ていました。
 今は、仕事の悩みが大きすぎて、
 恋愛とか、将来設計とか、何も思い浮かびません。
 でも、今は、それでいいと思っています。
 悔いのないよう、すべてを注ぎ込んでやるつもりです」

「『調理場という戦場』を読みました。
 わたしが、昔、躍起になって、がんばったことや、
 頑張っても報われなかったことや、あきらめたこと……。
 そんな言葉や、形に表しにくいささやかな気持ちを、
 まっすぐな言葉で本にしてくださったというか。
 今も三〇歳を越えたのに、私には、形になるような
 仕事や足跡が、なにも残らなかったこと。
 中途半端であきらめやすい私の性格を
 叱責するのでなく、諭してくださったというか。
 そのときどきでこの本を読んだ時に、きっと、
 いろんな気持ちになるんだろうなと思いました。
 ときどき、思い出して読み返したい本になりました」

「『人に喜んでもらえることを、
  すごく嬉しいと思える人ならどこまでも行ける。
  どこまでも行ってほしい』
 調理場の斎須さんのこの言葉を読んだとき、泣きました。
 今の私には、仕事以外、何にもない。
 守ってくれるものも、守るべきものも、
 失いたくないものも、何にもない。ただ、あるのは、
 私の持っている力を、必要としてくれるのなら、
 全力投球で仕事をしていきたいという気持ちだけ」

「私はずっと接客業で、コンビニからはじまり、
 ホテルコンパニオン、銀座ホステス、雑貨屋にて
 アルバイトから店長まで、『よいしょっ』と、
 一九歳の時にトップを経験しました。
 二十歳の時、その雑貨屋のラフォーレ原宿、
 渋谷パルコなどを駆けまわり、海外買いつけも出かけ、
 バイトスタッフの教育、店作り……。
 吐き気がするほどの忙しさと緊張感とプレッシャー。
 いつも考えるのは、お客様の笑顔でした。
 その為にスタッフの環境整備。
 自分の目指す方向も、会社の方針も、ビル側の姿勢も。
 全部が違うベクトルだったのです。
 流行を生むこと。お客様の笑顔。充実していました。
 でも、円形脱毛ができちゃって、絶望しました。
 それなりに華やかな暮らしをしていたけれど、
 ほとんどが、自分が店長であることへのおまけだったと、
 すべてを失って、はじめてわかりました。
 
 店長でないわたしのまわりからは、誰もいなくなった。
 自分で這い上がるしかなくて、お店を辞めることは
 決意したけど、ハゲただけでは辞めたくなかったのです。
 『ラフォーレのバーゲンで、過去に無い売上記録を作る』
 それを目標に睡眠時間をなくして、準備し、作戦を練り、
 必死に走っていました。伝説のと言われるほどの
 数字は取れたけど、私の中は空っぽでした。辞めました。
 もう、接客はやめようかとも考えましたが、結局また、
 4年後に違う場所で店長として仕事をすることになるまで
 ずっと接客業でした。どんなに打ちのめされても、
 私は人と関わっていたくて、人の笑顔が見たいんです。
 今もその気持ちで、商品開発をやらせてもらっていますが
 商品を作る先に、誰かの笑顔を思い浮かべています。

 やって、倒れて、自分に限界があることを知りました。
 ふりかえれば、人とぶつかるのも、当たり前だったし、
 上手く行かなくていっぱい泣いていた、
 二〇歳の頃の自分を抱きしめてあげたいと思っています。
 『四年後にリベンジできるから、泣くなって』と。
 『調理場という戦場』を読み、私は泣きっぱなしでした。
 つい『いい子』で『らくちん』に逃げそうな日々の中で、
 『おぉっと、いけねぇ』と背筋が伸びる思いでした。
 私は、また走りはじめます。
 いつか、自分で『ここまできた』と実感できたら、
 コート・ドールで食事をしたいです。
 三〇歳までにはどうにかなっていたいとは思いますけど。
 どうなってるのかはわかりませんが、
 笑っていたいと思います。
 つい、実力以上のことをできるフリをしてしまうので、
 しっかり、実力を育てていきたいです」


がんばるとか、一生懸命とかについて、
こんな風に、丁寧に伝えてくださっているのなら、
時間が経った今も、充実した生活をしているといいな、
と思いつつ、これらのメールを読みかえすことがあります。

ただ、前に、
職場の遅刻の特集を組んだときに
そういうおたよりをたくさんいただいたのですが、
がんばった自分は変わっていく可能性があるけど、
まわりは、変わるものではないのかもしれません。
「結局、何があっても数人以外は堂々と遅刻する職場」
であり続けたりして、ひょっとしたら、おのおのの、
怒りを感じる対象は、減らないのではないでしょうか?

「腹が立って言うべきことは、ちゃんと相手に主張する」

「ふりあげたこぶしを相手に向けても問題は解決しない」

現れてくる問題によっては、あなたが
このどちらを取るかの選択を迫られることは、
けっこうあるのではないでしょうか。

ここで、参考までに、前回にも登場の
哲学者・ハイデガーの考えを、紹介してみましょう。
彼は、何に向けてがんばるのか、が問題なのだと言います。

「一度、敵対関係に入ってしまうと、
 そこで勝とうが負けようが、見失うものが出てしまう。
 敵対している相手のことばかりを考えはじめると、
 却って、敵対心というものの奴隷になるからです。
 財産のうちで、もっとも危険なのは言葉だと思いますが、
 それは、言葉が、あまりに多くのことを隠すからでなく、
 『語られていないもの』を放棄してしまうからなんです。
 今までの自分の考え方をこえてゆくことが、
 何かを獲得するということだとしたら、
 未知のものに出会う心の準備がある場合にのみ、
 本当の意味で語ることができるのではないでしょうか。

 たとえば、語るテーマについて、
 気を使えば使うほど、がんばってしまえばしまうほど、
 私たちは、テーマを見失うという場合が、よくあります。
 狭いテーマの横にある、大切なものを、見失うからです。
 逆に、先入観を持たず、会話の自由な歩みに任せていると
 私たちの前に、語られるべきものが、
 それ自身によって、目の前に近づく可能性があるわけで。
 
 だから、もしもやるのならば、
 好きなことに関して話したり行動したりするに限ります。
 ものを無理矢理に暴こうとすると、しばしばその行為は、
 中身の発見ではなくて『包み』を壊すというものになる。
 人は、言葉が自ら語りはじめる状態を待つことによって、
 そして、言葉に注意深くなりつつ、感謝することにより、
 自分の知っていること以上のことを
 語ることができる瞬間に出会うときがあるんです。

 自分の言葉の、あらかじめの予想のつけがたさに
 驚き、自分の発した言葉に圧倒されることさえあります。
 自分の発言が、たとえ、しばらくは、
 既に知られていることのくりかえしであったとしても、
 問いの目的を縛りすぎて、答えを出すために急がずに、
 まずは、静かに待たなければならないでしょう。

 どんなに同じことをしゃべっていても、いいんです。
 紆余曲折の末、前と同じ結論に辿り着いていたとしても、
 あなたが、まだ、同じことをしゃべりたいとするならば、
 それこそ、目指している場所に近づいてきているという
 印かもしれないのですから。

 自分が、あるひとつの考えを乗りこえたときには、
 偉大な過去の人たちの発言が、もはや活動していないと
 信じられないほど、リアルに見えてくることがあります。
 偉大な者は、偉大な者にだけしか、影響を与えない。
 至らないときの自分には、その発言は響いてこなかった。
 そうなってくると、他人に勝つかどうかは関係なくなり、
 自分に、どれだけの偉大さを調達しなければならないか、
 そういうことについて、思いを馳せるようになるんです」


これが、ハイデガーの、晩年に近いときの考察なんです。

答えを出すためにがんばるのではもなく、
他人に勝つためにがんばるのでもなくて、
自分の納得のいく言葉や考えを待つことにがんばる姿勢。

怒りのあまりふりあげた拳を、
人に向けるのではなく、それをむしろ踏み台にして、
自分でも知るはずのなかった「偉大さの調達」に向かう。

未知で、最初は一見おそろしいものに見えたとしていても、
自分にとって、可能性を拓いてくれる考えならば、それを
見逃さないよう手をつくし、リラックスして待つこと……。

若い頃の論文を読み直したとき、
ハイデガーは、次のように語っています。

「この、文字通りの頼りない論文を執筆した当時、
 私は、後の私の思索に迫ってくるものについて、
 まだ、何ひとつ、知ることはありませんでした。
 それにも関わらず、試しに書いた論文を読むと、
 当時の私には閉ざされていたはずの道が、そこで
 はじまっていると、はっきり伝わってくるのです。
 手探りのままであっても、考えることを学んだ道として」


ハイデガーの初期の論文集は、
ほんとに、それだけを作者不明のものとして読むなら、
「わけのわからない結論」が書かれていると言っても
よいほどのものと言われています。
しかし、後からふりかえってみると、
何も知らなかったけど、懸命に書いていたその論文には、
自分にとっての大切な考えが、既に、
いくつも降りてきているということがわかる、と……。

もちろん、ここでぼくは、
「怒ることは意味がない」とか、
「自然にまかせたほうがいい」とか
「高みを目指すなら、拳をふりおろしていたらキリがない」
とかいう主張だけを、伝えたいというわけではないのです。
「がんばる」についての話は、まだ、終わっていません。

ただ、まず、がんばっている最中の人にとっては、
「待つ」という考えが、何かの手がかりになるかもしれない
と思って、紹介してみたのでした。

あなたは、ハイデガーの考えに触れ、何を思いましたか?

あなたにとって「がんばる」とは、どういうことですか?

あなたが、現時点で「待っていたいもの」は、何ですか?

この「待つ」という考えは、もうすこし詳しく述べると、
ハイデガーという哲学者が、なぜ独創的と呼ばれるかの
理由に、そのまま、つながってゆくのですけれど、
そのことについては、また、いつか、おとどけしますね。

次回に、続きます。

感想を寄せてくださると、とてもうれしく思います。
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                  木村俊介
 

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2003-10-11-SAT

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