#9 目標を立てるということ
土曜日に掲載した "#8" の「がんばるって何?」に
いただいたメールの一部を、まずは、紹介してみます。
「私の『がんばる』は、自分を充実させるとっかかりです。
自分がやらない限り、何も生み出さないのだし、
何やってもわからなかったことが、
何かの拍子に、ああ、そうか、とわかることがあります。
風景が一変するほど、その事柄が自分のものになる感覚。
がんばっているときに遭遇すればうれしい感覚ですけど、
なかなか出会うこともむずかしい。だけど、私は、
それに出会うために、がんばっているのだと思います。
だから、たぶん、十年前の、働きはじめたばかりで
つたない考えでいろいろとやっている私が近くにいても、
今の私は、その姿を、黙って見ていると思うんですね。
なぜなら、すべてのまわり道は、今に通じていたから」
「このごろ、自分のためにがんばるってどういうことだ、
と思うようになりました。若さと体力が十分にある頃は、
他人の為にやることさえ、自分のためと思えるのですが、
加齢とともに、だんだんそうは思えなくなってきて……。
ただ、他人のためとすれば、行動の報われなさ加減に、
肉体的にも精神的にも、へこたれてくると思うんです。
そして、へこたれてくると、
『せめて、自分が何かの役にたってると思いたい』
という悪連鎖に、はまっていくように感じます。
ただ、そうしかできない自分を、すこし俯瞰して眺めて、
『なんて不器用なやつ。おかしいけど、かわいい』と
笑える自分がどこかにいれば、まだ救われるのでしょう」
「何となく大学に入った私は、専門の勉強についていけず、
所属してる学科が、やりたい分野なのかもわかりません。
正直、逃げています。逃げるというのは、先を見過ぎて、
懸命にならないことだと思います。今がんばらなければ、
この先もがんばることができないような不安があります」
「私は、がんばりすぎて壊れたことがありました。
がんばらなくていいと、家族や友人や会社の人に言われ、
ものすごく迷ったんです。
懸命にやってきたことから解放されることが不安でした。
これまでやってきたことが無意味に思え、
足元が崩れていくような喪失感がありましたので。
がんばらなくていいと告げられるのは、つらいことです。
今は、唯一の居場所だと思っていた
がんばっていた自分の目的が何なのかに、
真剣に、向かいあわなくてはいけなくなりました。
あの頃に描いていたゴールまでの道を捨てることは、
がんばっていたぶんだけ、
そう簡単に、うまく切り替えることはできません。
今は、かつてのように責任も重くなくて、
ストレスは激減しましたし、楽しく、不満はありません。
けれど、不安です。
自分がこれからどうなっていくのか。何をしたいのか。
忙しいときにはあれほど欲しかった
『自分の時間』に浸っていながら、その答えが出せない」
今、これを読んでいるあなたに、
ちょっと、想像してもらいたいことがあります。
あなたは、このいくつかのメールに、どう思いましたか?
自分自身の、今日や明日の『がんばる』ことは何ですか?
それをいったん定めた上で、先を、読んでみてください。
なぜ、あらかじめの想像があったほうがいいのかというと、
持っているカードと、出すカードを決断することの間には、
実は、大きな違いがある、と、ぼくが考えているからです。
ある程度の経験を持っている人なら、誰でも、たぶん、
まったく正反対の考えや、おびただしい量の情報を、
自分では見通すことができないほど抱えていると思います。
だからこそ、何かの言葉に出会ったとき、
「これは聞いたことのある考えだ」「そうは言うけど」
と反論を出すことは、簡単なんです。
そのつど、違う論調を出して、立ちむかえばいいので。
ただ、
「そのつど違う角度から反論を出すこと」と、
「大量の事実が、毎日押し寄せてくる中で決断すること」
は、ずいぶん、違うんです。
「自分自身で決断をし続けている人に、
決断をしていない人が言えることは少ない」
という言葉を前に紹介したのは、そういう思いからでした。
「すべての真実とされているものは、幻想ですが、
人は、どれかの幻想を信じて行動せざるをえません」
たとえば、このように考えた
哲学者・ハイデガーの発言そのものさえ、
もちろん、幻想と捉えて無視することができます。
ただ、この考えの力点がどこにあるかというと、
「幻想」にではなく、
「幻想に、自分を乗せる」ということにあるのでして。
自分が決めた選択が、
どんなに、ありきたりな行動でも、
どんなに、バカにされるような思いこみだとしても、
そのうえ、いろいろ妥協した末の決断であってさえも、
「その考えに、今の自分自身を乗せて過ごす一日」
には、ひとつとして、同じものはないはずだと思います。
そういうことを思いながら、
前回に反響のあった「がんばる」の話の続きを、
ハイデガーの考えを、参考までに紹介するという形で、
おとどけしたいと思います。
「何のためにがんばるのか?」
「そもそも、目的は何なのか?」
がんばるという話題に、よく登場するのが、
「目的」や「目標」といった言葉です。
ハイデガーは、哲学の講義を続けている途中で、
この「目標」に、かなりこだわったときがありました。
昔の哲学者が述べた、
「目標は、結果であって、原因ではない」
という、ややこしい言葉をきっかけに、彼は考えます。
ハイデガーは、
「目的は、結果であって、目的ではない」という
奇妙な言葉を強調した哲学者の文献を読みあさります。
その結果、どうやら、例えば、
「山頂を目指さなければ、山頂には辿りつけない」
という意味での、掲げられた目標そのものを、
否定したい言葉ではないと、自分の本に書いています。
それなら、この発言は、何を意味しているのでしょう?
「目標を立てること」の意味そのものを
見つめたところから、生まれた言葉なのだというのが、
ハイデガーの解釈になりました。彼は次のように語ります。
「人が願ったほんとうの目的は、歴史の中において、
実際に、かなえられたことがないようにさえ、思えます。
人類の歴史を見つめていると、すべての目標や意志とは、
どの目標にも至らず、何も達成していないように見える。
この観点から見れば、
常に、期待は裏切られることになります。
いかなる努力を、払おうが払うまいが、人は滅びてゆく。
目標を設定することは、意味がないのではないだろうか?
……しかし、目標を、そもそも、達成するためのものと
捉えないとしたら、いったい、何を考えられるでしょう。
かならず失敗するものとして目標を捉えてみるとすると、
目標に対する見方が、変わってゆくことはありませんか」
ハイデガーは、ある講義で、このような問いかけしました。
彼の「目標」についての言葉は、
その後、違う話に展開したので、この続きはないのですが、
たとえば、この問いかけの時点から、
自分にとっての「目標」を考えはじめることだって、
充分、可能なんです。
「立てた目標は、ハイデガーの言っているように、
ほんとうの意味では実現されることはないかもしれない。
しかし、目標を立てて行動するあいだに生まれる意志を、
人が、そもそも欲していると考えたらどうなるだろうか?
『その瞬間だけには、自分自身のすべてが賭けられる』
というのが、目標を立てることから生まれる価値ならば、
目標を持って動くことそのものが、価値かもしれない。
だとしたら、達成されなかった目標でさえ、
『目標を立てる』という結果に、辿りついているのかも」
例えば、
こんなふうに、受け取れる可能性だって、あるわけです。
誰かの言葉を読むことを途中でやめて、
今回の「目標」だとかいう、自分なりに気になる言葉から、
それぞれの人なりの勝手な思いを展開してしまうことも、
もしかしたら、誰かのヒントになるのではないか、と思い、
今日は、変な形で、ハイデガーの言葉を紹介してみました。
世の中に溢れている古今東西の哲学者の言葉は、
おたがいに前提にしてる土俵が、あまりにも違いすぎます。
でも、少なくとも、自分自身にとって重要に思えて、
「このことについて、ちょっと考えたい」と感じたならば、
そこからスタートしてしまって、かまわないはずですから。
このシリーズで、
とてもたくさんの人のメールや発言を紹介しているのは、
そういう、途中から考えが、
たくさん起こる余地を残したい、と思っているからです。
このことは、ハイデガーが主張したことでもありますけど。
ハイデガーの独創性は、次の見解にあると言われています。
「事実をいくら集めても、世界そのものにはなりません。
それでは、取りこぼしてしまうものが、あるのですから。
言語によって語りうる事実を、いくら科学的に集めても、
それは、世界とイコールには、なるはずがありません。
かと言って、事実ではない、人間の意識そのものだけが、
大きな問題になるはずもありません。
見るべきなのは『言葉が使われている現場』なんです。
言語は、道具に過ぎません。
言語自体をいくら眺めても、それは
動かない自転車を眺め続けていることと何ら変わらない。
自転車を使いこなすことは、自転車に乗る技術なんか、
完全に忘れて、手足のように乗りまわしているときに、
はじめて訪れているはずです。
それならば、言葉も、社会的な裏づけや文化の上で、
それぞれの人が自由に使われているその場面を見ることで
了解をしてゆくしかありません」
言葉という道具自体を見つめずに、
ふつうの生活の中で使われている言葉の中にヒントを探す。
こういう言葉に、かつて触れていたからこそ、
多くの発言やメールを、紹介し続けてきているわけでして。
次回に、続きます。
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木村俊介
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