#12 好きなことしか語れない
「好きなことだけを語っていれば、
いつか、語りたいことや求めている事柄に向けて、
言葉の方から、自分を導いてくれるようになるはず」
こう考えたハイデガーの歩みに戻る前に、
今回は「好きなことを語る」という所で、
いったん、立ちどまってみたいと思います。
好きなことだけを語るべきという前に、
そもそも、人は好きなことしか、
語ることができないのではないかという考えがあります。
嫌いなことを話すにしても、
「何をいいとするか」が土台にあるわけですから。
「歴史的事実については、客観的な立場で、
観客として捉えられることは、ほとんどありません。
観客にとどまる人間は、歴史を知ることさえないんです。
お客さんでいる限り、内部の事情に通じられないように、
歴史の中で、歴史を作る人間だけが、歴史を見るんです」
例えば、歴史にも好みが関わらざるをえないということは、
こうして、当然の話として、語られ続けているんです。
ダメな言葉が悪影響を広めてしまう現象に対してさえ、
「そんな発言を聞いたぐらいで行動を変える人は、
最初からそういう意見を欲していたに過ぎません」
という考えが、古くから、言われてきたわけでして。
どんなにフェアであるつもりでも、
人は経験や幻想を通して世の中を見るしかないのだから、
「今日はすごい言葉に触れた」と思ったとしても、実際に
見出したものは、自分自身の姿にすぎないかもしれません。
「今まで信じたものを集めてみると、
あなたが自分をどう信じているか、わかります」
そういう言葉が、山ほど残されてきたのを見ると、
「触れたくない考えを、人は取り入れることができない」
とさえ言えるのかもしれません。幻想や直感によって、
もともと、自分の求めてるものが半ばわかってるからこそ、
何かに感動できるんだという考えは、昔から根強いのです。
「自分の限界を乗りこえられる人は、誰一人としていない。
才能は、敵の突きを避けて身をかわすとき、隙間の中で、
どれだけ動けるか、という程度のものです。だったら、
うまく立ちまわるよりも、不器用であったほうがいい。
装飾は、私たちを毒してしまう。
私たちは装飾に幻惑され、他の残りを見過ごしてしまう」
こういった類の、
「自分自身を無理矢理に変えられないのだから、
飾ってうまくやろうとするより不器用であれ」
という言葉にしても、主観から逃れられないならば……
と考えたところから、出てきたわけでしょう。
このあたりで、前回に引き続き、
哲学者のハイデガーが二〇代に夢中になった
ニーチェの、特にくりかえした言葉を、要約で紹介します。
「大切なのは、
他人が作ったレースのトップを走ることではありません。
たとえそれができたとしても、あなたは、自分のことを、
最も優れた奴隷だと、自慢しているに過ぎないのだから。
もう少しだけ重要なのは、一人で歩くことのできる力や、
歩く道を、自分で変えることができるという力でしょう。
そもそも、なぜ、他人の役に立つ行動をする人が、
他ならぬ自分自身の役に立つ行動をしている人より、
いいと思われているのでしょうか。
私欲のない人がよしとされているわけですが、
仮に、その人が他人のためだけに行動をしたとして、
完全に自分を見失っていても、まだ、いい人ですか?
自分のためにもなれない人は善人であるはずがない。
あらゆるものに自分を献身してしまうのは、
いいことではなくてむしろ怠慢のあらわれです。
それは、博愛の仮面をかぶった誘惑に過ぎないから。
自分で言葉を見つける途中にいる人ほど、
急いで、完成度の高い言葉を借りたがります。
つまり、自分の言葉が少しずつ熟すときを待たず、
すでに、完成されているかに見える言葉を信頼して、
一人の作家のすべての発言を読みつくそうとします。
すると、長い間その作家の考えだけを吸収するので、
実際、いろいろと学ぶのではあるのですが、その結果、
自分自身の言葉を、放棄することになってしまいます。
……自分の絵筆を持たないままの
ある党派に所属するだけの人は、こうして作られます。
そもそも、生きていくことがつらいと感じるとき、
人は疲れきってしまっているのではないでしょうか。
激務や速さや異常さや新奇なものを好む人は、
まず何よりも、自分自身の始末に困ってるのです。
そのときの勤勉は、自分を忘れるための逃避に過ぎない。
待つことができるだけの充実した内容を持っていないと、
だらだらとたのしむことさえ、できなくなります。
疲れた人というのは、他人に動かされるだけでしょう。
『何のためにこんなことをやってきたんだ。空しい……』
そう思いがちになってしまった人には、厭世的な言葉が
心地よく響くものなのですが、しかし、こうした発言は、
実はあなたに『私の言うとおりにしろ』と言っています。
倦怠感に満ちた言葉や、世界に文句を言い続ける人は、
消化不良を起こしただけだ。まず、ゆっくり休めばいい。
あまりに早くから、あわただしく、何もかも学びすぎて、
知識の食べ方が悪くて、胃を壊してしまったのでしょう。
世界が汚れていてきたないことは、確かでしょうけど、
吐き気をもとに、変わることだってできるはずですから」
あらかじめ、話しておきますと、
ニーチェが残した膨大な著作や遺稿の中から、
こんな風な言葉を、選んでしまっていることさえも、
ぼくの好みが、関係しているわけです。
そして、選んだこの言葉を、どう受け取るかには、
あなた自身の好みが、大きな役割を果たしているはずです。
だから、この言葉にしても、充分に偏見に満ちた
「自分にとってのニーチェ」という紹介ではあるのです。
ただ、自分なりには、ニーチェが残した言葉の中でも、
特にくりかえされた重要なものを紹介しているつもりです。
何を話していたとしても、嫌いなことを話していてさえも、
結局、自分にとっての好みを語ることからは逃げられない。
だとしたら、ときに心がどうしようもなく凍って、
他人を傷つけたり、ある考えに対して強く反発したり、
ダメだと感じたことにさえ、ヒントがあるかもしれません。
間違えることは、本当のことをつかむことに対して、
睡眠が覚醒に対するような関係にあるのではないか、
という言葉があります。
これは、間違いという睡眠に浸っていたからこそ、
その後に目覚めることができたのだという意味の発言です。
本当のことを言うことと間違えることとは、
実は、とても似たところから発しているのだから、
間違いは、ぞんざいにしてはいけないはず……
その場合は、間違いを捨てさった瞬間に、同時に、
本当のことも傷つけてしまう……そういう考え方なのです。
つまり、例えば、
決定的にボタンをかけ違えてしまった過去にしても、
そのときの経験を、二度と得られない独創的なものとして
捉えることができるとも、言えるのかもしれません。
「人は、何年もの沈黙の後で、途切れていた会話を続け、
古い思い出を、語りあったりすることになりますけど、
死んだ友人のかわりには、何ものもなりえることはない。
旧友を作りだすということは、誰にだって、できません。
記憶、困難な時間、嫌悪、仲直り、心のときめきの宝物。
そういうものは、二度と同じものが得られることはない。
樹を植えてから、すぐ木陰で憩うことができないように」
こんなように、かつての自分の過ちにさえ、
旧友に出会うような懐かしさがあるからこそ貴重なんだ、
という考え方も、世の中には、多く残されているのです。
だからこそ、
今は、好きなことを語るほどの余裕がまだないという人も、
自分の好き嫌いについてさえ、今は迷っているという人も、
ものごとを知るほど、疑い深くなるのではと感じてる人も、
「それもこれもが、自分の好みの領域から、逃れていない」
と気づくと、違う角度からものを見られるかもしれません。
つまり、間違えてしまった過去でさえも、
「そのときの自分の好みに合っていたもの」
と、懐かしく眺められるかもしれないのです。
嫌いなことをしゃべっていても、その先に、
「だったら、あなたは結局、どうなればいいと思うの?」
と質問をされたとしたら、どちらにしても、
好みについて話すことから、逃げられないわけです。
それなら、好きな方向に進めばいいのかもしれない……
ハイデガーが、そう考えたかどうかは、わからないですが、
岐路に立っている誰かに、そんな視点を紹介してみました。
このコーナーは、今後、少しずつ、
ハイデガーが語ったことの話題に移り変わってゆきますが、
ハイデガーの言葉だけに入りこむと、自家中毒と言うのか、
結局一歩も外に出られなくなる可能性もあるものですから、
はじめて哲学に触れる人にとって、後になってから、
「浴びておいてよかった」と思えるかもしれない言葉を、
合間に、たくさん紹介してゆきたいと思います。
そういう意味で、通常、
ハイデガーと同じものさしでは語られることがない哲学者、
ウィトゲンシュタインの言葉を、今日は、紹介します。
ハイデガーの考えとは何の関係もない発言に見えますけど、
あなたが、自分で「好きなことを語りはじめること」には、
ひょっとしたら、参考になるのかもしれませんし、
そもそも、かつて「ほぼ日」で紹介したときに、
大きな反響があった言葉なので……。
「私は、感心されるよりも、愛されたい」
「時代に、先行しているだけの人は、
いつか、時代に追いこされてしまいます」
「哲学のレースで勝つのは、いちばんゆっくりと走って、
ゴールにいちばん最後に着く人だと思う」
「ここには、話相手がひとりもいない。
いいことでもあるが、ある意味では困る。
ときどき、打ち解けて話しあえる相手がいれば、
ありがたいんだがね。いや、話すまででもない。
たまに笑いかけられる人さえ、いればいいんだけど」
「問いに答えることより、問いを立てることが常に適切だ。
問いに答えようとすると、人は間違いがちなのですけど、
別の問題を問うことで前の問いに決着をつけられるから」
「新しい考え方ができたら、それまでの問題は消えます。
新しい考え方のもとでは、そもそも、
それまでの問題をとらえ直すことがむつかしくなります。
『問題』は『あらわしかた』にひそんでいるんですから」
断片的な言葉ですが、あなたが読んだ後に、何か、
ヒントとして感じるものがあるならうれしいです。
今回の最後に、「好きなことを語る」ということに
関係があるかもしれない実際の発言を、紹介してみます。
二つとも、かつてぼくが職人さんから直に聞いた言葉で、
「前の時代から伝わったもの」についての話ですけど、
とてもよろこんだ顔で、語っていたことだったのです。
「昔の人たちの何がすごかったかと言えば、
精神力と言いますか、作ろうという信念だと思います。
今の時代の自分らだって、その精神だけを追いかけたら、
すごくいろんなことを感じられるんじゃないでしょうか。
例えば、こんなことも思うんです。
今の時代まで千年も残った作品なんて、
みんな、偶然で今まで持ってきているだ、と。
千年以上も前の人たちは、なにも、
維持させるためにものを作ったわけではないでしょう。
ただ一生懸命作って、それが持っちゃったんですよね。
途中で、どんなに涙を流すようなことがあったとしても、
それにやっぱり、苦しいことがあるかもしれないけど、
最後に、カタチになってきて、できあがる。
そうしたら、その時にはイヤなことをぜんぶ忘れて、
もう、うれしいことしか残っていない。
伝統的な職人の技術を残すなんてことは、要らなくて、
作品を残しさえすれば、おのずから何かは伝わります。
それを伝統と呼ぶんなら、呼んでもいいけれども、
決まりきった教科書どおりのことを伝えることとは、
ぜんぜん、違う話なんです。
もともと、やることは、未熟であってもいいんですよ。
技術的には未熟であっても、うそ偽りのないものを作って
一生懸命やってやってやって、やりきって、
そうやって作ったものなら、やっぱし、
何百年後に、職人がその仕事の意味を読み取りますから。
できあがったものには、何もかも、そのままが残る。
知識がなくても精一杯だったかどうかもぜんぶ残る。
それは後で見てもわかる。過去のものを見ると、
当時に作った人らの顔を見ているようなもんですわ。
声が聞こえてくるような古い人との会話は、楽しいです。
『何にも道具がないのに、よう作ったなぁ』
『自分だったらこうつくる、自分だったらこうやる』
絶えずそういうことをやるのが、いちばんおもしろいわ」
「ありがとうという言葉の意味を、
ぼくは、三七歳になってはじめてわかりました。
陰ながら目標にしてた人に、ようやく感謝を伝えられた。
『ありがとうと伝えることは、こんなにうれしいのか!』
言った瞬間、自分でも驚くぐらい、うれしかったんです。
感謝の言葉が世界中にある秘密が、わかったんですよね。
言われた人より、言う人のほうが、ずっとうれしい言葉。
自分で仕事をしてきた上で、最初に影響を受けた人に、
ありがとうございましたと伝えられるということは、
例えば、一〇代の頃に、その人の本を読んだ直後に、
すぐ興奮を手紙で書くということとは、少し違っていて。
時間っていいものだなぁ、と思います。
時間が経ったから言える『ありがとう』でした。
最近は、時間がかかることのすばらしさや、
時間がもたらすことの尊さが、ほんとによくわかる。
時間が経つということが、こわくなくなるんです。
『時間が経つほどおもしろいことって、あるなぁ』
とか、そんなことを思っているところです」
今日紹介した言葉に対して、あなたは、何を感じましたか?
今の時点でのあなたにとって、
「好きなものを語る」ということは、どういうものですか?
次回に、続きます。
感想を寄せてくださると、とてもうれしく思います。
postman@1101.com
件名を「コンビニ哲学」として、送ってくださいませ。
木村俊介
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