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#20 不安という名のかがり火


「コンビニ哲学で触れられていたので、
 それをきっかけにして、ハイデガーの本を読んでみたら、
 一ページ目から、何だかわけのわからない用語が続いて、
 いきなり、読めなくなってしまいました。なぜですか?」

そういうメールを、実は最近、いくつかいただいています。
読みはじめてみたら、そうなるかもしれないとは思います。

ハイデガーが書いた本というものは、
当時も今も、多くの人が読んでいるものでは、ありません。
しかも、読み通せないからとは言え、本に書かれた内容が、
特別に難しいとか偉大だとかいうことは、ないと思います。
よくも悪くも「そういう書かれ方」なのでしょう。
ややこしく書いている書き方だからこそ、
人気が出たり評判が生まれた本だとさえ、言えるからです。

これまでの哲学者とは、まったく違う形で言葉を定義して、
その厳密に定義した言葉を展開することで、考えを進める。
ハイデガーが若い頃に夢中になって教えを受けた哲学者も、
そういうことをはじめた人だし、
彼はまたその先生とはまったく違う形での言葉の定義から、
哲学に関する本を、興奮しながら、書いていた人なのです。
そういう書き方は、当時は、求められていたのでしょう。

「わかりにくいけど、今までにない角度での言葉の使い方」

「結論に辿りつくかどうかはわからないけど、
 いちばん壮大に考えを進めることを願う、言葉の使い方」

彼のこういう方針が、
当時の哲学の世界で、支持されていたところがあるのです。
むしろ、ちゃんと結論まで辿りつけるかどうかがわからず、
子どもが無闇に壮大な冒険を計画してしまったかのような
器の大きさに、人は熱狂していたところがあると思います。

ところが、今はそういう難しい用語の使い方は流行らない。
少なくとも、等身大のままちゃんと考えたいという人には、
用語の使い方の新しさや、新しい形での定義の仕方などは、
面倒くさいものとして映るだけなのかもしれません。

今となっては、哲学界でのハイデガーの扱いは、
結論はわからないけど言いきってしまうことで進むという
若者の勇敢な試みとしてではなくて、
「とても立派な人が、偉大だからこそ辿りついた考え」
と、捉えられてしまうことが、とても多くなっています。

ただ、ハイデガーが考えている内容に対しての期待は、
大きすぎる夢を主張する子どもに対して、
「おまえ、できるの?」と詰問するようなおもしろさが、
いちばん似ているように思うのですけど、哲学の世界では、
そういうふうな捉えられ方は、もうあまりされていません。
彼が死んでずいぶん経つと、つい、神棚に祭られてしまい、
実際に彼の考えを使うことが、忘れられそうになるのです。

それが、「もったいない」と思うので、
このコーナーで、複雑に思える用語を省いた形で、自分が
彼の言葉をこう読んだという話を、紹介しているのです。

憧れ続けていた先生を、後には裏切って罵倒し続け、
妻を裏切っては年の離れた教え子とつきあい続けて、
思想を突き詰めている最中にナチス党にモロに加担する、
などという、過ちだらけの生涯を送りながらも、
考えた内容の志の高さだけならば、
他人に負けていなかったのかもしれないという人物。

二〇世紀を代表する哲学者と言われた
一人の人間の青臭い考えを、青臭いまま追うということは、
ふだん、似たようなメディアで、似たような発言ばかりを
耳にしている人にとっては、参考になるのではないか……?
そう考えて、今、彼の考えを扱っているところなのです。

例えば、後年には罵倒することになったとしても、
ハイデガーの、かつての、師匠の著作に対する憧れは、
彼の哲学書に、ちゃんと封じこめられていたりするので、
そういう彼の考えの数々を丁寧に追いかけると、
難解な用語以外に、何が見えるのかを試してみたいのです。

ハイデガーの師匠筋にあたるのは、
フッサールという哲学者です。
「現象学」という学問を作った人と言われています。
フッサールの著書は、出された当初、
学生たちには見向きもされなかったようですが、
「自分ぐらいしか借りなかったその新しい哲学書を、
 自分自身も、まだ、半分くらいしか理解できないまま、
 学生寮の自分の部屋の机の上に、置いていた」
ハイデガーは、このようにふりかえります。

表紙を眺めるだけで、憧れの気持ちが沸いてきたという、
ハイデガーにとっての哲学のはじまりの時点だけは、
その後に、先生から深く教えを受けるようになっても、
その後、思想的にも政治的にも敵になってしまってさえ、
色あせないのではないでしょうか。
そういう色あせない考えが閉じこめられているところを、
ぼくは、ハイデガーが残した本から、
いくつでも、汲み取ってゆきたいと思っているのです。

彼の壮大な構想とともに書かれたとされる著作の
『存在と時間』という哲学書は、前編を出したたままで、
未完成の失敗作として、終わってしまっています。
彼が死んで、遺品もすべて整理された今となっては、
本人が出す新しい理論は、もう、ないとわかっています。

つまり、その未完の試みだけで、
多くの哲学者やアーティストに影響を与えたというのが、
彼の難解とされる「哲学」の実情なわけでして……。

みなさんからの感想メールを読んでいると
建築した建物が完成しないけれども評価をされている
ガウディのような、志の高さだけでも味わいたい人は、
意外と、たくさんいるのではないかと感じるのです。

忙しい日々を過ごしていたりするからこそ、
極端な人の考えを、参考にできるかもしれないと言うか、
本人が使い尽くすことができなかった考えの遺産は、
後に残された人が、存分に使えるかもしれないと言うか。

彼の考えたことは、ちゃんと読んでみれば、
そのほとんどが青臭い十代の悩みを、緊張感を持ったまま
進めたようなものばかりです。

自分の掴みたいものは何も掴んでいないけれども、
意志だけはあるんだという人や、
一生懸命生活をしている自負はちゃんとあるけれども、
毎日が過ぎ去っていく中では、たまに、
「これでいいのか?」と思うときがあるという人にこそ、
きっと、彼の考えた内容は身にしみてゆくと感じています。

誰かと出会って話しているような軽い気持ちで、
ふと手にとった雑誌のインタビューを読むようなつもりで
ハイデガーの言葉に触れて、それでも刺激があるとしたら、
それは、本当に人を動かす言葉と言えるかもしれないので、
そういう言葉なのかどうかを、試したいとも思っています。
ふだん、メディアで話をするような人とは、
かなり違う角度からの話に、なってゆくだろうからです。

非常に青臭く純朴な疑問を推し進めたにも関わらず、
彼の、当時の流行の「ややこしい書き方」のままでは、
彼の本は、つまらなく見えるだけになってしまいますが、
「彼の本を通してこんな風に受けとった」という話を、
ここで続けて読んだ後にハイデガーの本に戻ったのならば、
もしかしたら、それぞれの人なりに
おもしろく読めてしまうかもしれない、とも思っています。

そのときには、あなたは、
ハイデガーの独特の頑固さだとか、夢見がちなところさえ、
難解とされる文章の合間に、はっきり読み取れるようにも
なっているかもしれません。

ただ、もちろん、ハイデガーに触れないままでも、
あなたの「哲学」を育む上では、何の問題もないですけど。

同じ人に会っても、それぞれ違う感想を持つように、
同じような事柄について、少しずつ違う考えを伝えあう。
そういうものが「哲学」なのだとするならば、
何も、実際に難しい哲学書に触れずとも、たとえばここで
何かを感じた時点から生まれるものでも、いいのですから。

今回は、彼がとても青臭かったことの
一つの例になりそうな言葉を、紹介してみたいと思います。
もちろん、難しそうな用語を噛み砕いたものですから、
「ぼくが、自分で読みたいように読んだ言葉」
というものにしか、過ぎないのかもしれませんけれど……。

「何かを語るとき、私たちは、
 語らないものを指摘することができません。
 学問は、いろいろなものに目的や照準を定め続けたけど、
 語っていないもの、言っていないものや、無については、
 最初から放棄してきました。
 学問や会話の性質が、何を求めていたとしても、
 無を求めて考え続ける人は、これまでどこにもいない。
 しかし、学問や会話は、
 『少なくともこうではない』という言葉を重ねたり、
 いつも無に触れることによって、何かを述べています。

 あなたが、無に近づいているかどうかの基準は、
 不安を感じているかどうか、にあるのかもしれません。
 不安は、あるものが、無になってしまうのではないかと
 自分の何かをおびやかすものとして、出てきますので。
 不安は、なんらかの気味の悪さと共にあるのですけれど、
 どう気味が悪いかは、言えないことの場合が多いのです。
 『すがるところがない』という感覚が私たちを襲うから。
 
 しかし、この『すがるところがない』という振動にこそ、
 今のままでは満足しきれないからどこかに行くだとか、
 今はまだ持っていない自由を求めて手探りをするとか、
 そういうものが、現れはじめるのではないでしょうか。

 多忙なまま、不安を感じる暇もないまま過ぎる時間は、
 後から考えると、眠っているだけのような期間である、
 ということだって、ありえます。
 それに、勇敢な気持ちから生まれる不安には、むしろ、
 快活さが、そこに一緒に伴うのではないでしょうか?」


このような言葉に触れた後、あなたは、どう感じましたか?
高校生が感じるような不安を、ここに、読みとれませんか?

今回の最後に、いつものように、
ぼくが直接に聞いた言葉の中から、
参考になるかもしれないものを紹介してみたいと思います。

「ない」ことへの不安を感じていないときには、
「ある」ことの方もおろそかになってしまっているように、
「自分」のことばかりを考えすぎてしまうと、実際には、
世界とのつながりさえもが、裁たれてしまうかもしれない。
哲学好きな十代は、こんな風に考えることが多いものです。

本なら、ずいぶんたくさん読んだし、理解は深まったけど、
実社会をしたたかに生きている人たちが持っているものに、
自分だけは、純粋培養の中で気づいていないのではないか?

そういうふうに心配する人にとって、
実際に社会で活躍している人の言葉を読み続けることは、
ある程度、「効く」のではないでしょうか。そんな意味で、
他人と仕事をする人の言葉を、二つ、おとどけしましょう。
やはり、ある専門職に就いている人たちの語ったことです。

「自分に自信があると、人と組めますよね。
 人と組むことときには、自分の持っているものを、
 より明確に出さないといけなくなりますし。
 『こういうことが、ぼくのやれることで、
  だからぼくは、君と組んで何かをするんです』
 ということをアピールしないといけないし、相手が
 乗ってくるものを出さないと、要らないと言わるから。
 ぼくは、自分のために人と組むというのが、大前提です。
 その人が、自分とどういう関わりを持ちたいのか、
 持たせてくれるか、主導権は、どこで誰がとるのか……。
 楽しいとか、場に魅力があるとか、吸収できるというか、
 普段ならできないことをやるためだとか、
 自分が更にどこかに行くきっかけを、探しています。
 自分のいる音楽の世界では、いくら速く弾けるか、とか、
 悩む人は、ちゃんと、技術だけならいかに価値がないかを
 いつも悩んでいることだと思います。
 練習したから気持ちはこもるものでもないし、だからこそ
 だからこそ余計に、音楽は、誰にでもできるものでして。
 例えば今ここにいる数人の中で、絶対に誰でも
 五分でできるようになることをやってみても、
 ぼくがやると他の人とはぜんぜん違う結果になるし、
 あなたがやると他とは違うことが表現できるものでして。

 もちろん、音楽をやることには生活がかかっているので、
 ああ、残念だなって姿をまわりで見ることも、多いです。
 楽しみではじめたはずなのに、勉強になってしまう人は、
 きっと、ものすごくいます。
 『ぼくより百万倍ぐらい技術があるのに』
 と、残念に思います。
 『いかに速く、いかに正確に』ということだけでも、
 音楽を演奏する大義名分にはなりますが、
 やっぱり、それだけだと、おもしろいことにはならない。
 ぼくも、技術を買われて演奏するときは、あります。
 『今回は、そういう目的で呼ばれたんだな』
 とぼくも年に一回くらい感じますし、ありがたいから
 お金はいただきますけれども、
 でも、精神的には、ものすごい不健康なことになります。
 音楽を職業にしていて、それでお金をもらっているので、
 生活とは切り離せなくもなるんだけど、
 それだけになっていくと終わるぞ、という例を、
 ぼくはほんとにたくさん見てきましたので。
 楽器を弾くことは、すごい技術職ではあるのですけども、
 精神的な面が、それ以上に大きい。向かう姿勢だとか。

 人と一緒にやる仕事だからこそ、
 これはイヤだと思ったり、これはいいなと思ったり、
 それはどっちか、ちゃんと思ったほうがいいでしょう。
 自分としては、
 『どうでもいいや』という言葉がいちばんイヤですね。
 自分のしていることを判断される立場にいるのだから、
 いいのか、その人には合わないのかを、
 印象づけたいと思っています。
 はっきりした意見が出るほうが、
 『よくわかんなかった』と言われるよりはいい。
 ぼくが、『どちらでもいい』と思うときだって、
 やっぱりそれは、ものに興味がなくなる場合ですからね。
 イヤだなってはっきり思ったあとに、
 『そうは、したくない』という出発点から
 自分の価値にもなっていくとぼくは思うので、
 だから、イヤだとか違うとか思うことは、
 それはそれで、ぼくにとっては、大切と言いますか。
 うまいとかヘタだとかいうことさえも目立たないままで、
 いい時間が過ぎるのが、いちばんすごいと思っています。
 『うまい』と言われるよりも、
 『何か分からないけど、すごいコンサートだった』
 と言われるほうが、うれしいんです。
 その音楽の中にいられたということが、すごい、
 というようなものが、ぼくが聴くにしても、最高です」

「美意識って、何か、問題ありますよね。
 あんまりいいものだとは、ぼくには、思えません。
 凝ったりしすぎると、自分でも気持ちが悪いんですよ。
 作ったものが、何か、見たくないものになってしまう。
 で、ほんと、いいかげんにやって
 いい感じにしあがると、いい感じなんですよ。
 ヘタに細かくやると、なんか、気持ちが悪いよね……。
 近親相姦的なものというか、
 何ていったらいいかわからないけど、病的だと思います。
 グラフィックを見ても、広告とかでも、
 こうこうこういうことでこういう広告になったんだよ、
 というのが感じられてしまうと、何か醒めてしまいます。
 間違いのない方向に、説明できる方向に行ってしまうと、
 見ていても、魅力が減ってきますよね?
 芸術と愛とは、近いというか、愛にしても、結局は
 何かわからないものが、ゆらゆらしてるのがいいわけで。
 おもしろいのは、使いものにならない時間ですよね。
 子どもの過ごす時間のように……。
 子どもって、バカバカしかったり、変だったりするし、
 話していると、言葉もめちゃくちゃに、なりますよね。
 しかも、何を言ってるかわからない言葉のほうが、
 割と、子どもには、伝わりやすかったりしますよね。
 説明とか言葉って、もしかしたら、
 たのしくていいかげんなことをやるためには、
 あったほうがいいというくらいのものだと思っています。
 もっとだらだらと、ぼんやりしながら、
 おいしいものを食べながら、寝たりして、
 そればっかりやってても、たぶん飽きちゃうから、
 変わったことをしたり……そうやって仕事をしたいです」


自分の能力を上げて、他人の中で専門職として暮らす人が、
「技術を超えた時間」や「使いものにならない時間」を
求めるという話を、あなたは、何を感じて、読みましたか?

次回に、続きます。

あなたが、読んだ後に感じたことや考えたことなどを、
メールで送ってくださると、とてもうれしく思います。
postman@1101.com
件名を「コンビニ哲学」として、送ってくださいませ。


                  木村俊介

このコーナーを読んだ感想などは、
メールの件名に「コンビニ哲学」と書いて、
postman@1101.com
こちらまで、お送りくださいませ。

2003-11-06-THU

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