コンビニ哲学発売中。

#28 過去を問い直す方法


自分が過去に理解できていたことを確認するだけでは、
どう問いなおしたとしても、新しいものは生まれないかも。
……そういう話を、前回のこのページで、お届けしました。

過去を問い直すためには、
「理解できなかった自分の行動や、
 理解できなかった人の行動を静かに見つめ直すこと」
が有効になるかもしれないという内容も、お伝えしました。

さらに、前回は、
「早期の思考を後期の思考で覆ってしまう」
と言われるような、今の考えですべてを塗りつぶすために
過去をふりかえるならば、過去についての発見は遠くなる、
というような話にも、触れていきました。

今日は、そういった話をもとにして、さらに、
過去を探るための取っ掛かりを、紹介してゆきますね。

あなたが、もしも、
誰かによって決められたレースのトップを走ることや、
そのレースに合わせて自分を変えることに飽きたのならば、
「一人で歩くことのできる力や、
 歩く道を自分で変えることができるという力」
を、身につけたくなってきませんか?

その場合、過去をふりかえるというのは、
あながち、消極的な行動ではなくなりそうです。

もともと、
「ある人の考える内容は、
 その人の年齢と切り離せない程度の、
 今しか考えられないものだからこそ、貴重なんだ」
という考えは、古くから、語られ続けてきています。

だけど、過去の自分が考えたことを、
今の自分が考えたことと同程度の価値としてに扱うのは、
「進化しているんだ」と思いこんでいる自分にとっては、
とても難しいですよね。

もちろん、昔を「理想的だった」と懐かしむだけでは、
今の不自由な現状からの逃避にしかすぎずに、
かつての自分を理想化しすぎだから、ダメかもしれません。
もちろん、
「充分に経験を積んだ人ならば、現在の幸せが、
 愛した場所を離れたからこそ存在するとわかっている。
 だから、敢えて愛した故郷に帰ろうとしないのだ」
なんていう言葉も、昔から言い伝えられてきましたし、
確かに、美しい思い出に生きるだけでは仕方がありません。

ただ、過去の行動をちゃんと眺めてみると、
現在との行動の基準の違いに、まず気づくかもしれません。

「生きていく上での問題の解決策を見つけると、
 これで楽になったぞ、といいたくなる。
 だけど、それはまちがいでしょう。
 解決策が見つかってなかったときにだって、
 人は生きていくことができていたはずだから。
 論理学の問題を解決したといったって、
 こういうようなことを肝に銘じておくべきだと思う。
 その問題は、かつては未解決だった。
 だけどそのときにだって、人は、
 生きることも考えることもできていたはずだ」


例えば、こういう言葉を残した哲学者がいるように、
いかに、過去の自分が目的もないまま暮らしてこれたか、
問題を解決しないままたのしくやっていけたかに気づく、
という人も、いるかもしれません。

行動をやりおえてはじめて目的とわかるものが沢山ある、
と知る可能性だって、増えてくると思います。
これは、目的を見失って困っている人には、効きそうです。

さらに、あなたの過去の行動をじっくり見つめると、
「そのとき、それまでの自分を超えられたか、
 それとも、そのときは自分を放任して諦めてしまったか」
が、よくわかりませんか?
そうした行為が、あなたの自信の限度になってませんか?

「自分が強いのか弱いのか」「称賛に値するかどうか」
「自分が他人の評価を恐れなければいけない人間か、
 それとも自分自身で光を当てて自分を示せる人間か」
こうした自己評価は、大抵、過去の行動から生まれる──。
そう知るだけでも、少しは新しい視点が得られそうです。

「あなたの、過去のその都度の目的って、
 結局は誰かのコピーになることだった」
と気づくことも、転回のきっかけになるかもしれません。
最終的に、最高に目標を達成した結果が、
誰かのコピーになるという程度なら、悲しいでしょうし。

さらに、過去の行動をふりかえると、
そのときの個人的な印象の豊かさに驚くかもしれません。
独断的な考えから行動に走ってしまったことの
おもしろさを発見する人だって、きっと沢山いそうです。

「外にあるものを自分なりに捉えてみないと、
 『あれの印象は、こうだった』
 とさえ思うことができません。
 誰かの書いたものごとを、
 個人的な印象を抜きにして
 客観的に、そのまんま翻訳しようとするならば、
 個人的な印象に従って生き生きと書かれた内容も、
 ミイラのように生気を失ったものに
 なってしまうでしょう。
 ……書かれたものの真実味や客観性よりも、
 『書かれたものごとにこめられた異常な衝動』や、
 『書こうとするにいたった個人的な世界の捉え方』
 のほうが、読み手にはずっと魅力的に映るのです」


こんな古い哲学者の言葉や、さらには、

「どんなにフェアであるつもりでも、
 人間はそれぞれの寓話という糸で世界をつむいでます。
 距離を誇張し、色をあまりにも厚くぬりすぎ、
 輝くものをより本当らしいとみなし、そのうえ、
 敵を持ちたがり、恐怖によって動機を立ててきたという
 太古からの傾向を持って生まれたのが、私たちですから」


これも古い哲学者の言葉ですが、こういった内容に
近い体験が、既に自分自身の過去に沢山あるということに、
よくよく子ども時代をふりかえると、気づいてきませんか?

過去の行動をふりかえるときには、
「その行動が、個人的な欠陥を克服するためだった」か、
「その行動が、豊かさを発揮するためのものだった」か
を見ると、わかりやすくなるかもしれません。

自分の欠陥を克服するために考えるときには、
それが救済であれ、支えであれ、慰めであれ、
考えることは、「必要なもの」になっているはずです。

しかし、豊かな地点からものを考えられる人にとっては、
思考は、ただ単に一つの「ぜいたくな遊び」に過ぎません。
その時、考えることは、「よろこび」になっているはずで。

実は人の考えている内容というのは、そのほとんどが、
欠陥を克服するために、考えを生もうとしているものなの?

欠陥を克服する考えは、マイナスをゼロに戻すものだから、
充実感には、ゼロからプラスを生む考えが必要になるかも?

──一例ですが、過去をふりかえるときには、
こんな風に、ゆっくりと疑問を重ねてゆくのもいいですよ、
と、今回は、そんなことをお伝えしてみました。

あなたなりの、過去のふりかえり方はどういうものですか?

実際に「過去をふりかえったメール」を
紹介することなどは、次回にしてみますね。

次回に、続きます。

読んだ感想メールをくださると、うれしく思います。
postman@1101.com
件名を「コンビニ哲学」として、送ってくださいませ!


                  木村俊介


このコーナーを読んだ感想などは、
メールの件名に「コンビニ哲学」と書いて、
postman@1101.com
こちらまで、お送りくださいませ。

2003-11-25-TUE

BACK
戻る