第2回 あたまの病。
こんちわ。これ、10月9日(月)に書いてます。
ぼく「ほぼ日」木村は、ついさきほど、朝から渋谷で
『マルコビッチの穴』とゆう映画を観てきたところ。
「他人の体の中に入れたら、どうなるの?」
というようなものがテーマの映画だったと思うけど、
笑えたし、ぼくには、とてもおもしろかった。
で、この映画もそうだけど、
自分の体が誰かと入れ替わる物語って、
ずっと昔から語られていますよね?
しかも、ある一定のおもしろさを保ってる。
それは、なぜでしょう?
・・・たぶん、人が、それぞれ、
自分自身でしかあれないからだと思う。
今の自分でしかいられないから、
別のものに変身してみたくなったり、
別の生き物、別の性、別の人格、別の年齢に、
ぼくたちは、いつでも憧れているのではなかろーか。
あ、違った。
「憧れる」どころではないや。
たぶん、だいたい、ほとんどの人が、
実はいろんな場面で「別の人」になっていると思う。
日常の生活で言っても、
別の人格にならない人のほうが少ないんじゃない?
例えば、税務署の窓口で
「愛情たっぷりの本来の自分」を出しまくるのは、
たぶん、いろんな意味で、不都合でしょう?
人は場面によっていろんな人格を持つし、
それに、自分勝手なやりかたでならば、
過去の誰かとも、通じあえる、とぼくは思う。
つまり、役者の人は演技を通せば、
音楽家の人は別の人の書いた譜面を演奏すれば、
絵を描く人は模写をしてみれば、
少なくとも、誰かの残した何かを、
自分の体で、主観的にだけど、感じることができる。
ぼくにとっては、過去の人とつながりあえるのは、
個人的な趣味のうえから「本を読んで」が多かったです。
好きな小説に入りこんで何回も読むことで、
それを書いている時の作家の気分を、
まるでイタコのように、とりつかせてみる。
そういう体験、ぼくは、大好きで。
・・・あ。むつかしいことを言わなくても、
ジャッキー・チェンの映画を観たあとに、
もう、完全に「ジャッキー」になりきって
映画館から出てくる人が、いるでしょう? ほあちゃ。
つまり、ぼくが言いたい体験は、そんなようなものです。
もちろん、なりきっても、ジャッキーなわけがないし、
ジャッキーになれるわけがないのよ。
でも、そういう体験って、気持ちいいじゃない?
ま、そういうことです。
ここでニーチェを超訳するのも、
大ざっぱに言えば、そういうたぐいのことだと思う。
いい翻訳家ならば、自分の読んだニーチェに
自分の観点なんていうものはできるだけ通さずに、
そのまま伝えようとするのだけれど、ぼくの場合は、
「100年以上前に書かれたものの中で、
今の木村が読んでみておもしろく見えたところ」
を、自分にとっての栄養のために、超訳するんですね。
100年後に読んでいるぼくたちなのだから、
ある意味、書かれた意味のその通りになんて、
きっと、読めるはずがないのだろう・・・
ぼくの根っこにあるのは、そーゆう、あきらめです。
だけど、今読んでも、別の意味だとしても
ぼくにはとてもおもしろかったので、
受け取ったおもしろさのままを、伝えたい。
それに、新しいインスピレーションも、もらえそう。
自分勝手に読みとるからこそ、
今の自分の考えている文脈にひきつけて、
いろいろおもしろがれたりするんだ、と思ってます。
そういう、試しとしての、楽しむための、
「消費のクリエイティブ」をやってみよーかと。
ここからは、一般的には
『悦ばしき知識』という名で訳されてる本を、
大ざっぱにエンターテインメント化してみます。
では、どうぞ。
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★ あたまの病。
結論とは、慰めのことだろう?
ひとは誰でも、じぶんの思想を
完全に言葉にすることはできない。
・・・そして、多くのひとは、
じぶんがいかに富んでいるかを知らない。
あらゆるひとの前にあるものなのに、
まだ名前を持たず、名づけられていないものがある。
独創性とは、そういうものに名前をつけて、
それを、人に、はじめて見せてあげることである。
ぼくは、ひとをいつも辱めようとする者を悪と呼ぶ。
ぼくは、恥ずかしい思いをさせないことを人間的と呼ぶ。
ぼくは、もはや自分自身に恥じないことを、自由と呼ぶ。
* * *
人は、それぞれなりの考えかたを持っているけれど、
考えることが、個人的な欠陥に根ざしている場合と、
豊かさや力に根ざしている場合の、ふたつがあると思う。
そこで、じぶんの欠陥を克服するために
考えることをしはじめる人たちにとっては、
それが救済であれ、支えであれ、慰めであれ、
「考えること」=「必要なもの」になっている。
でも、豊かさからものを考えられる人にとって、
思考は、ただ単に、ひとつの「ぜいたく」に過ぎない。
その時は「考えること」=「感謝・よろこび」になる。
このふたつの手順の差は大きい。
しかも実は、大多数の考えというのは、
思想家が病んでいる中のプレッシャーの下で、
頭のなかに運びこまれたものに過ぎないのである。
欠陥を克服するために
考えを生もうとしている時には、
ぼくたちは、自分の心も体も病気にゆだねてしまう。
すると、病気ではない時のじぶんに、
目を閉ざして、眠ってしまうのである。
病気という名の眠りだけに身を委ねてしまい、
眠りの中からのみ考えを生もうとするのだから、
起きている時に役に立つ考えなんて、
きっと、出てこないだろう。
つまり、今までのほとんどの思想は、
病から生まれたものなんだと思う。
病んでいる肉体が、精神に何を要求するか。
・・・太陽、静寂、穏和、忍耐、医薬、興奮剤。
「精神の平和を、精神の戦争よりも
すばらしいと考える感じかた」や、
「消極的なよろこびこそが幸福だと思う感性」や、
「何がなんでも『よりよいもの』を求める渇望」は、
おそらく、病気からインスピレーションを得て
哲学者のあたまに生まれたものではなかろうか?
・・・えーっと、いづれにしても、不健康だ。
「よりよいもの」を求める動きは、
客観的なものだとされているけれど、
実は、ただ単に、生理的な欲求を
「客観」のマントで包んだだけだと思う。
つまり、今までの哲学は、
人間のからだを間違えて解釈するところから、
生まれてしまったのではないだろうか。
おそらく、哲学を考えるうえで重要な問いは、
「それは正しいのか、正しくないのか?」よりも、
「それは健康なのか?」「それは生きているか?」
といったものなのではないかと、ぼくは思う。
からだを病んだ教養人たちが
消耗の中でつとめて味わおうとする
薄汚れた享楽なんて、もう、どうでもいい。
重箱の隅をつつくような奇形なものや、
おそれおおくて崇高なものに対しては、
ぼくは別に、興味を持っていない。
いじましさから生まれたものではなくて、
快活さから生まれたものが、欲しいんだ。
ぼくたちは既に、ものごとを
知りすぎるほどに知っている。
だけど、今からは、よく忘れることや、
よく知らないでいることを、学ぶべきで。
「どんな犠牲を払ってでも、真実を得たい」
と考えがちな、若気の至りの錯乱を、
ぼくはもう、まるで嫌になってしまったのだ。
「真実を知りたいんだ」という理由で
夜中に神殿にしのびこんで
覆われているベールを剥ぎとり、彫刻を
裸にして容赦なく明るみにさらしてしまうような、
そんな若者のあやまちを、もう、犯したくない。
そんなことを恐れをしらずにしてしまうにしては、
ぼくたちは、あまりにも経験を積み過ぎ、まじめで、
快活で、火傷を負い、深くなリ過ぎている・・・。
「ベールを剥がされたとしても
なおかつ真実で留まるものがある」なんて、
もはや、ぼくたちには、信じることができないんだ。
そんなことを信じるにしては、
ぼくたちは、あまりにもたっぷり生きてきた。
なにもかもを裸にして見ようとしないこと、
あらゆるものの近くにいようとしないこと、
なにもかもを理解して知ろうとしないこと・・・
こういうことは、礼節の問題だ。
そういう恥じらいを、
ぼくたちはもっと尊重すべきだと思う。
すべてを剥ぎ取って真実に達することよりも、
表面に踏みとどまって、表面上の形式や
そこに流れている音色や、使われる仮の言葉を、
表面的に味わうことが、ほんとは必要だったんだ。
表面上の形式や音色や言葉にとどまる、
その地点に、ぼくは戻ってみたいと思う。
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↑このあたり、読んでみて、どう?
こりかたまった考えに埋もれて、
「いっぱいいっぱい」になる人が多い今の時代には、
このへんの記述は、おもしろいんじゃないかなあ?
あたまが病んでいる時に、その病気に集中して
あれやこれや考えても、元気になった時には
まったくおもしろくないものになる、っていうのが、
個人的には、ちょっと気持ちがよかったんだけど。
それに、何もかも「真実」を追い求めようとして
ベールをはがすことにも、下品さを感じるでしょう?
というか、ベールをはがすことで、
それまで「隠す」という様式に含まれて存在していた
「とってもいい何か」を、失っちゃうんだろうなあ。
ぼくは、そんなことを思って、訳していたよ。
[今日の2行]
ベールを剥がされても真実に留まるものがあるなんて、
もはや、ぼくたちには、信じることができないんだ。
※このコーナーは「コンビニ哲学」の特別篇なので、
今回の<あたまの病>を読んで、
みなさんがどう感じたのかをメールでくだされば、
それをまた参考にしたいとも、ぼくは思っています。
mail→ postman@1101.com
(つづく)
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