第6回 宿命を見つめるということ
「自分の意志で選んだつもりになっている道より、
選びようがなく、避けられなかった道のほうが大事だ」
この吉本隆明さんのものの考え方に、
前々回や、その前に、何度か触れてきました。
「なるほど」と思った人も、
「いまのところ、まだ納得できないところがある」
と感じた人も、どちらもいらっしゃることと思います。
この「避けられなかった道」については、
吉本さんの本をいくつも読んでいると、
じつにいろんな角度から、述べられているとわかります。
つまり、それだけたくさんの時間ぶんだけ、
吉本さんという人は、「避けられなかった道」を
見つめていたことになるわけなんですね。
そこで、今回のこのコーナーでは、
「避けられなかった道」について、
吉本さんがある角度から見つめた内容を軽く紹介しつつ、
「避けられない運命を見つめることの意味」を
考えるヒントのように、提示してみたいと思っています。
では、吉本さんが「父」について書いた本を
要約しつつ抜き書きしたものを、読んでみてください。
親との関係は、ひとつの避けられないつながりですが、
そこを、吉本さんは、どう見つめているのでしょうか?
「どんな文学者の自伝にあらわれた父の像にも、
美化するためか、一種の由緒が語られている。
ただ、わたしには、由緒のない父の像や、
それに見合った自分を描きたいという願望がある。
凡庸な父は、死ぬまで、どこにも由緒がなかったから。
鋼のような色をした父の孤独な背中が好きだった。
ただ、父とは何かと自問すると、
息苦しい体験だけがその答えになっていた。
父には、『生まれてきてよかった』と思えるように
子どもを育てたはずだという自信がなかった。
わたしも生きていることの自信がもてなかった。
父と子は、永久にそう思うにちがいないと感じられた。
わたしたちはいまも、不完全な父親であり、
不完全な子どもでありつづけていて、
そこから来る無意識の荒れを、離れられていない。
明治から現在にいたるまでの教育水準は
数百倍になっているといわれ、その途方もない速度が
日本の近代化の決め手になっているのだけども、
その速度にたえる父と子の正常な関係は、
ちょっと考えられません。
なぜ父と子の関係が難しく屈折するのかと言うと、
教育の進展の速やかさが、
途方もない膨張だったからで、これは致し方なく
きしみが出てくるだろうし、いまも親子のきしみは
うまく解消されているわけではないと思うのです。
いろいろな人が語る父の像は多様だが、
悲劇としての父の像は、それほど多様ではない。
父と子の関係がギクシャクするのも、
避けられない不当な不幸があるのも必然なのだが、
その感覚を、人は、どこでどう解放すればいいのか。
夏目漱石は、赤ん坊のときからの閲歴で
無意識が非常に荒れざるをえない経験を重ねた。
その無意識について、真正面から表現しているのが、
漱石のすごさであり、生きる上でのつらさでもあった。
逃げたり、外らしたりせずに、
自分の宿命をえぐりだすところに、漱石の作品は
ほかにはない『成就した豊かさ』を持っているんです」
避けられない運命にこそ、じつは
「その人にしかふりかからなかった独創性」があり、
本人にとって最も重要な「無意識の解放」がある……。
意識していないけど、なぜか抱えてしまったものごとを
逃げずにちゃんと見つめることが、吉本さんにとっては、
生きていくうえで、とても大事なことに思えたのでしょう。
……このへんから先は、話がいくつか枝分かれして
ややこしく感じられるところでもあるので、
今日は、いったん、ここまで紹介したところで終わります。
「避けられない運命」について、すこしだけ考えながら、
次回のこのコーナーに出る言葉を、待っていてくださいね。
あなたが、吉本さんの言葉を読んで感じたことや
「避けられなかった運命」について思うことなどは、
postman@1101.com
こちらまで、件名を「コンビニ哲学」として、
自由に、お送りください。すべてじっくり読んでますので。
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