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HAL研究所が山梨にいるということの
有利とか不利というのはあったんですか? |
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今から考えると、
山梨にいなかったら、開発チームが初期に
「草刈場」に、なっていたかもしれません。
つまり、優秀な人たちがつぎつぎと
ひっこぬかれて別の会社にいってしまうという。
わたしにさえ、社長になる前に
スカウトの電話がきましたから。
それから明らかに、
ちょっと外からコンタクトがありそうだな
という人も見えましたし。
会社との信頼関係があれば
人は残ってくれますけど、
「ここにいても芽が出ない」とか
「ここにいても不幸になる」と思ったら、
誰でも出ていくじゃないですか。
もしくは
「明日から給料出ないよ」となったら、
みんなそれは他の仕事探しますからね。
だから草刈場にならないで済んだというのは、
山梨にいたからだなとはちょっと思いますね。 |
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山梨にいて、
他の似たような会社もなければ、
情報源もない。
HAL研の場所は山梨といっても
町のなかではないわけで。 |
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まぁ、ちょっとはずれていますからね。
あの環境は逆に、ものを作るのに
集中するにはとてもいい場所なんですよ。 |
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当時はまだインターネットも
使われていないからよかったですよね。
世の中のへんな噂がきこえてきたりしない。
一方では任天堂が京都にあって、
もう一方では山梨の山の中にHAL研があって、
たまたま東京じゃない場所どうしのつながりが、
ラッキーな物語を生んでくれていた、
というのもあったのでしょうね。 |
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東京にあったら、
会社がぎくしゃくして、
いくら誰が旗をふっても
つづかなかったかもしれません。
わからないですけどね。 |
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「いま、なにをするべきか?」
についても、もしも東京にいたら、
岩田さんという三十二歳の若い社長に
ご親切にいろいろ教えてくれちゃう人が、
いたかもしれません。
でも山梨と京都を往復しているかぎりでは、
なんていうか……「平凡な野心」は、
持たなくて済むじゃないですか、たぶん。 |
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ものを作ることに集中できていたな、
ということはなんとなくおぼえていますね。 |
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ずっと合宿してるみたいなものですよね……
きっといまこの話を文字で読んでいる人は、
HAL研究所の場所を
ぼんやり想像しているとは思うんですけど、
「その想像よりもすごい場所だよ!」
とぼくは言いたいです。
まずは、坂をのぼっていくんですよね。 |
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そこから甲府盆地が一望できます。
甲府盆地の向こう側に富士山が見えるんです。
すごい眺めですよ。 |
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(笑)そうそう!
『MOTHER2』のなかに、
「ふじさんのみえるソフトハウス」
という看板を立てましたけど
ほんとにそうで、
観光地にいるような気分になるんです。 |
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観光地の展望台でも、
あんなに景色のいいところは、
あんまりありません(笑)。 |
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ぼくがHAL研究所とつきあうようになって、
チームの人たちがつぎつぎに
HAL研で合宿的に仕事をするときになると、
いつも「どこに温泉があって」とかいっていて。 |
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「温泉とか夜景がどうとか、
おまえらどこに行ってんだ!
ほかにはなにかないの?」
「ほかには、ないんです」
マダガスカル島じゃないですけど、
血が混ざらないおかげで、
実験をずっとつづけることが
できた場所、ですよね。
岩田さんはそのときに、
開発のエースをやりながら
社長をやってたわけで、
これはよく、両方もできましたよね……。 |
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開発専業の会社で
作っているものの数が少ないから、
やるべきことという点では
開発のエースであるということと
社長であることのかさなりが
すごく、おおきかったんです。
一生懸命にプログラムをして、
それから会社のいろんなことを決めて、
現場でいざこざが起これば
両方の話をきいて、
両方が納得できるように説明して、
半年に一回全員と面談して、
みんながなにがハッピーで
なにがアンハッピーで
これからどうなりたいのかをきいて、
そのためには
どうしたらいいのかをいって……
ということをずっとくりかえすわけです。
わたしはそのとき、
自分を常にいちばん忙しいところにおくと
決めていたんですよ。 |
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社内にチームはいくつかあって
いそがしさのピークはズレているわけですが、
わたしはいちばんいそがしいチームに
応援しにいくことにしていました。
そうしたのは、まずは、
「そのときにどんな課題があるのかを
見つけて分析して解決する力」が、
当時、わたしが社内の開発者としては
いちばんあると思っていたんです。
いちばんたいへんなところに
自分がいくのが、会社の生産性にとって
もっとも合理的であると……それと同時に、
「岩田にものを決められること」
に会社の人たちが納得するためには、
問題解決の姿を目の前で見せることが、
いちばんいいじゃないですか。
「あの人が決めてもオッケー」
「あの人が決めるならまあ納得しよう」
といってもらうのに、
こんなにいい方法はないんですよ。 |
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なるほど、
開発の会社だということが
ものすごくあらわになったがゆえに
とれた方針だったんですね。 |
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バブルが終わったあとに、
選択と集中という言葉が
よくいわれるようになるんですけど、
一九九一年の時点で、
わたしたちは選択と集中を決断しているんです。 |
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してますねぇ。ぼくも教わりました。
経営についてきいたら
「あんまり教えることはないんです。
ぼくが長年やってわかったことは、
なにが得意でなにが不得意かを知ることと、
得意なことに向けてひた走ることの
ふたつなんですよね」
とおっしゃったんです。 |
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ええ、
糸井さんが「ほぼ日」をはじめるころに、
その話をしてるんですけど。 |
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「ほかにもあるといえばあるんですが
あえていうとすれば、それだけです」
みたいにおっしゃったんですけど、
たしかにゲームを作っているときに
横で見てると、
岩田さんはいつでもそうしているんです。
ここで重要なのは
「いつでも」というところだと思うんですが。 |
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はい。
わたしはそうしていないと
気が済まないんです。
いろんなことを見ますと、なるべく
「なぜそうなるのか」がわかりたいんです。
なぜこういうことが起こるのか、
なぜこの人はこんなことをいって
こんなことをするのか、
なぜ世の中がこうなっているのか……
自分のなかで、なるべく
「これはこうだからこうなんだよ」
とわかりたいんですね。 |
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事実を見たら、
常になぜそうなるのかの仮説を立てるんです。
仮説をたてては検証してみて……
当然人間がやっていますから
しょっちゅうまちがうんですけどね。
でも仮説を立てては検証して、
とくりかえしているうちに、
やっぱり、より遠くが見えるようになったり、
前には見られなかった角度で
ものが見られるようになったりするんです。
これはわたしが
糸井さんに学んだことなのですが、
わたしは糸井さんに
「なんでこれが流行ることが
半年前にわかったんですか」
と何度もきいているんですよね。
そしたらいつもおっしゃるのは
「ぼくは未来を予言していないよ。
世の中が変わったことに、
人より先に気づいているだけなんだよ」
ということでした。
それをきいて、わたしは
自分がそれをできるようにするには
どうすればいいのかと思ったんですね。
それで仮説を立てては
検証をするというくりかえしをしてきました。
人がまだ変化を感じていないうちに
気づくということは、わたしは
あの当時よりもずっと今はできていると思います。 |
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