柳瀬 |
ぼく、じつは、自分でも
写真を撮っているんですが、
いい写真ってなにか? っていうのが、
ぜんっぜんわかんないんですよ。 |
横里 |
ああ、ぼくもわかりません。 |
柳瀬 |
写真評論的世界の「いい写真」って、
あるじゃないですか。
いろんな難しいことをおっしゃってて
ぼく、あれがモヤモヤわかんなくて。
逆に、なんか、素直に、なんかこの写真、
いい写真だなっていうものっていうのは、
ぜんぜん独立していて。
活字が好きだから、
活字の人の言うことに左右されて
写真を見ちゃったり
するんですよね(笑)。
『Say Hello!』を見ると素直に、
ああ、いいなーって言うんだけど、
ぼくにはこれを語る言葉は、ない。
でも自信を持って勧められるんです。
そうすると、今まで
写真を語ってきた言葉って
なんだったんだろう? |
糸井 |
荒木さんになぞらえて語ることが、
たぶんこれから多くなると思うんです。
つまり、デジタル写真以後っていうのは、
荒木さんが何してたんだろう?
っていうことを
考えることでわかってくる、
みたいなところがあって。
荒木さんについてひとつ、
「ああ、その言い方はすごいな」
と思ったのは、
橋爪大三郎さんが、
「荒木さんは、たとえて言えば、
手にカメラがついてるんですね」と。
つまり、この手を向けたら、
そこが写ってるっていうかたちで、
要するにカメラが
肉体化してるっていうことを
言いたかったんだと思うんだけど。
脳から手って
離れてるじゃないですか。
手には触覚の意味があって、
そこにカメラがついてるっていうふうな
言い方をしたときに、
ああ、それは時代として、
もう違っちゃってるんだなと思ったんです。 |
横里 |
あぁ‥‥。 |
糸井 |
『センチメンタルな旅‥‥』でも、
写真を撮ってるんじゃなくて、
陽子さんを撮ってるんだって
言いたいってとこあるじゃないですか。
「おれは写真を撮ってるんじゃない」って、
いっつでもあの人は
そういうところがあるんだけど、
ほんっとにそうだと思うんですよね。
その二重性がね、あるんだと思う。
『Say Hello!』だと、
荒木さんほど手になってる
わけじゃないかもしれないけれど、
おれは好きな犬を撮ってるんだ、
っていうところで、
荒木さんの息子さんに
なってるんじゃないか。 |
横里 |
なるほどねぇー。 |
糸井 |
写真を撮ってるんじゃない。
でも、撮ってるんだよなぁ。
そこが、だから、残るんですよね。
写真を撮るっていうことをしなかったら
見なかったっていうのも、
さっきの、荒木さんの、
撮んないと忘れちゃうって話と
同じですよね。 |
柳瀬 |
うん、ですよね。 |
糸井 |
あとね、陽子さんが亡くなって
わりとすぐのパーティーで、
荒木さんを励ます、みたいな会があって。
みんなで励まそう、悲しんでないで、
とか言っていたんだけど、
「そういうことはやめてくれ」
と、荒木さんが言うんだよ。
「今、せっかく、
この悲しい気持ちを
いい気持ちで
味わってるんだから、
励まさないでくれ。
悲しくなくさせないでくれ」。
ざわめくパーティーの狭い会場で、
壇上から、荒木さん、
威張って言ってたんだけど、
ほんっとに感心した。
それと写真の話と、おんなじだよね。 |
横里 |
そうですね。 |
糸井 |
ぼくね、そのセリフのおかげで、
いっぱい習ったもの。
その気持ちでいるときにしか、
できないことがあるって。 |
横里 |
『Say Hello!』って、
‥‥どんどんこういうものが
出てくるんでしょうかね。 |
糸井 |
出てくると思うんですよね、きっと。
『Say Hello!』って、すごく、
誘(いざな)ってる本に
なったと思うんですよ。
つまり、誰かをよく見るっていうことへの
いざないだったり、もっと気軽に、
バリバリ写真を撮っちゃうことへの
いざないだったり、
犬を飼うっていうことへのいざないだったり。
もっと言えば、ぼくらの仕事も含めて、
どんどん本にしちゃうことへの
いざないだったり(笑)。
なんか、ものすごくいざなってると思う(笑)。 |
横里 |
そうですね。 |
柳瀬 |
なんかこう、さまざまな
ハードルみたいなのが、ポーンと、
とれちゃったみたいだ。
これでいいんだー! って。 |