おいしい店とのつきあい方。

094 飲食店の新たな姿。その14
笑顔のトレーニング

3年ほど前のこと。母が、
「最近、本当にがっかりさせられたことがあるのよ‥‥」
と、寂しげな顔で話をはじめた。
何にがっかりさせられたの? と聞くと、
「私自身にがっかりしたの」。
いったいどういう私自身にがっかりしたのか、
先週につづいてのお話です。

母は笑顔のキレイな人です。
カメラを向けると、自然と笑顔になって
「キレイに撮って」って
おねだりしているように見えるほど。
「天性のチャーミングスマイルだね」
って褒めたことがあった。
そしたら母が、いたずらっぽく微笑んで、
声を潜めてこう答えます。

「ワタシ、八重歯があるでしょう‥‥。
小さい頃からそれがチャームポイントだって
言われて育ったの。
かわいいって言われる子って、無頓着に笑うじゃない。
だからワタシは笑って育った。
学校をでて就職した先が商船会社。
本当はネ、宝塚に行きたかったんだけど
身長が足りなくって、娘役しかつかないかも‥‥、
って言われてそれで秘書を目指して商船会社。
そこでも、あなたの笑顔は本当にキレイで
職場が明るくなる‥‥、って褒められたのよ。
特に八重歯がかわいい‥‥、って。
ところがそこにアメリカかぶれの
嫌味な上司がいたのよ」

彼、いわく。

「八重歯なんてただの歯並びの悪い歯のコト。
日本人はそれを可愛いと言うけれど、
アメリカに行けば育ちの悪い人と思われるのがおち。
かわいくもなんともない」

母は会社を辞めてしまおうかって思うほどに
落ち込んだんだというのです。

「でも、そこで辞めたら女がすたる。
辞めるにしても、あの生意気な上司から、
笑顔がキレイだねと言わしめてから
辞めてやるんだと思ったのネ。
それから毎日。
暇があれば鏡をみて八重歯が目立たぬ笑い方を考えて、
トレーニングしたのよ。
人間、やる気になればなんでもできるものヨ‥‥、
八重歯が気にならないような
笑い方ができるようになって、
あの上司から『印象が変わって本当にステキになったね』
って褒めてもらった。
ちょうどそのときよ‥‥、
あなたのお父さんから求婚されたのが。
よし、辞めてやるって、笑顔で辞めた。
それからずっと自然に
その笑い方ができるようになったのネ」

‥‥、って。

つまり、母の笑顔は努力の賜物。
ステキな笑顔で人と接することは、
ステキな言葉を何百、何千と学ぶよりも効果があるの‥‥、
と、母はかねがね言っていた。
ボクもそれから「笑う」ということに対して
関心を持つようになったし、
自分の笑顔や顔の表情に気をつけるようにもなったのです。

そんな母が先日、かなしそうな顔をして言う。

「お友達から、榊さんって最近、
ひとりでさみしいの? って言われることが増えたのネ。
たしかにおとうさんを亡くして、
ちょっとさみしくはなったけど、
人の前ではいつも笑顔でいるよう心がけていたのに、
なぜだかみんなが気遣われてるって
感じるようにもなってたの。
それでね‥‥。
ひさしぶりに鏡の前に立って笑ってみたら、
本当に悲しい顔にみえるの。
歳をとると顔の筋肉が衰えるのかしら‥‥、
眉間にシワがよって頬は突っ張る。
目を大きく見開いているつもりが、
まぶたがはれぼったくなって
目があいているようにみえなかったりもするの。
あぁ、さみしそうな顔だなぁ‥‥、
って思いながら鏡に向かって
『ありがとう』って言ってみたら、
言われた自分がさみしくなった。
せっかくの言葉が相手に伝わらないってつらいコトよ。
自分で自分のことが嫌になっちゃってね、
外に出るのが嫌にまでなっちゃった。

でもこのままだとワタシ、
ひきこもりになっちゃうわ‥‥、と思ってね、
八重歯を克服したときのことを思い出したの。
鏡を見ながら目を見開いたり大きく口をあけたり、
ふくれっ面をしてみたり。
顔の筋肉を鍛えるトレーニングを一生懸命したら、
あら不思議。
昔みたいに笑えるようになってきた。
あなたもそろそろ自分の顔のトレーニングを
したほうがいいかもしれないわよ

‥‥、って。
小さいながら手鏡をかばんの片隅に入れて
仕事をするようになっております。
また来週。

2019-08-22-THU