今週は、秋から冬にかけての季節に
思い出した話を、3日ぶん、おとどけです!
どれも、何年もの思いの蓄積があるせいか、
感想メールが、とても多かったんですよ。
【女子バレー、おもしろかった】
「終わったばかりで、
直近だからということもあるけれど、
ワールドカップの女子バレー、
今年のスポーツで
いちばんおもしろかったような気がする。
弱さも含めてのおもしろさがあった。
意志やら感情やらが、
顔やしぐさに出てしまうのは、
勝負事では欠点なのかもしれないけれど、
観客には、
それは大きな表現力として伝わってきた。
赤ん坊のようによろこぶ19歳コンビから、
もっとも表情を変えないという
役回りの佐々木まで、あらゆる場面に、
「こころ」がよく見えていた。
「負けても、見たくなる選手たち」
の群れだった。
ぼくは、
最も強い選手が見たいわけではない。
もっとも勝つ選手を
好きになるわけでもない。
そういうことが、
あらためてよくわかった。
本人たちは、「見せる」ことを
目的にしているのではなく、
「勝つ」ことを望み、
そのために試合しているので、
ぼくのこういうほめ方というのは、
なんの意味も
持っていないのかもしれないけれど。
とても、よかったですよ、と。
観客席やテレビの前の人たちが、
それぞれ、自分の娘や友人や姉のように
とてもとても親しい気持ちで
あなた方を見ていましたよ、と、
そういうことだけ伝わればいいか‥‥。
そういう流れで書くのも、
変かもしれないけど、
ぼくのなかでは
つながっているのですが、
武道館でのニール・ヤングのステージ、
よかったよ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ。
中年のオヤジたちが奮い立ったよ、
あの夜から、きっと」
【ギンナンと日だまり】
「また、そういう季節になった。
街路樹として植えられた
イチョウの木の下に、
たくさんのギンナンが落ちている。
そうすると、また思い出すのだ。
このギンナンを拾って生活費にしている
「家のない人々」のことを。
東京のなかに、
ダンボールや空き瓶や古雑誌でなく、
拾ったら金に換えられるものが
あることが、なんだか、ぼくは好きだ。
ぼくの知っているいま現在の都会では、
ありとあらゆるものが、
誰かの所有物になっていて、
所有者以外の人が使ったら、
泥棒になってしまう。
よその家の外に出ている
水道の蛇口から、水を飲んだら、
それはそれで、
軽い犯罪ということなんだろう。
というくらいに、
ありとあらゆるものが、
『誰かのもの』なのに、
金目のものとしてのギンナンが、
道路にほったらかしに
なっているのが愉快だ。
誰のものでもないものが、
たくさんあることが、
『豊かさ』なのではないだろうか、と、
ちょっと思ったりもした。
空の青さも、風の気持ちよさも、
日だまりの暖かさも、
いまはまだ誰のものでもなくて、
道端に落ちている
ギンナンのように、無料だ。
せちがらい都会でさえ、
そういうこともある」
【パンチョさんの帽子】
「プロ野球のドラフト会議というものも、
いまでは
ニュース性がなくなっちゃったねぇ。
かつては、一週間も前から
話題になっていたものねぇ。
ドラフト当日にロケバスのなかで、
あれやこれや話して
盛りあがっていたことなんか、
しみじみ思い出します。
しみじみ思い出すのは、
ドラフト会議の「声」の主役。
パンチョ伊東さんです。
留守番電話も、
ファクシミリも使わない人で、
連絡先が某広告代理店だったんだよねぇ。
「なんとか連絡なんてつくもんだよ」
って‥‥。
下町っぽいべらんめぇ口調と、
アメリカ大リーグ通ということとの
バランスが、
妙にいい味を出していたよねぇ。
それにしても、ああいう
スカッとした江戸っ子が、
あの、不思議な毛髪型の帽子を
かぶっていたのは、
どういう心理だったんだろうなぁ。
本人だけがばれてないと思っている、
ということの典型的な例として、
パンチョさんの帽子のことが言われるけど、
ほんとうに、本人は、
どういう気持ちだったんだろう。
ちょっとだけいい帽子に変えたとき、
日本中の人たちが、
「これは見やすくなった」と、
自分のことのようによろこんだのを、
彼は、知っていたんだろうか。
誰か、ひとりくらいは、
そのあたりのことについての
パンチョさんの気持ちを知っていたのかな。
それとも、
誰にも聞けなかったことだったのか?
人間って、あんがい
孤独なたましいを抱えているからなぁ。」 |
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