あまりにも あたらしいものに飛びつくことは、 どこか、 心が貧しい感じがして仕方がないんです。 生活が貧しいとか、 お金がない、とかいう意味ではなくて、 心が貧しいから、 あたらしいものが常に欲しくなるし、 常に欲してしまうという。 心が豊かだったら、 あたらしいものは、 そんなに要らないような…… だから、 あたらしいものが 次々に生まれること自体が 心の貧しさの裏返し というような気がしていて、 そういうことに対して、ほんのすこし、 デザイナーからも、 世の中にメッセージを送れないだろうか、 実際の仕事で そういうメッセージをこめたい、 という気持ちも、あるわけです。 だから、 「このデザインは、10年間は、使えるハズだ」 と、はじめから想定して、たずさわるわけです。 『キシリトールガム』も、『おいしい牛乳』も、 そういう設計をしています。 10年が経つと、 接する世代が変わります。 世代が変わっても生き残るものというのは、 かなり長く生き残る可能性が、あるんです。 「3年ぐらい持つもの」ぐらいの設計では、 けっこうあぶないんです。 そういう仕事をつづけてきたなかで 「あたらしさって、何なんだろうか」 と問いなおしたら、 ほんとうに、あたらしいものなんて、 そんなにないのではないでしょうか。 ほとんどのものが、 何かの上に、生まれてきているものだから、 「あたらしさ」は、ウソをついていることも しばしばなのだと思うんです。 ほんとはあたらしくなくても、 「あたらしい」 という言葉がつくと、いいものだと思える…… その貧しい概念が浸透していて、 それに奔走させられているというか、 もしかしたら、ダマされているというか。 そういう風潮を 否定するのでもなく、 「たずさわらない」 と離れるのでもなく、 ぼくの場合は 中に食いこんでいって、 どまんなかから、 すこしでも変えられたらいいな、 と、思うところがあるんです。 気にいらないから離れよう、 イヤな世の中とは関わりを持たない、 というやりかたも ひとつのやりかただとは思います。 そういう例は、たくさんありますし、 都会を離れて、自分で食べものを作って コミューンのように……それは、それで、 ひとつの生きかただと思います。 ただ、ちゃんと仲間になって、 「大きな流れを、 ほんのすこしずつ変えていく」 というやりかたもあると思うんです。