第3回 十年間、持つデザインとは?
ほぼ日 あたらしいデザインが
つぎつぎに入れ替わるなかで、
「長く持つデザイン」というのは、
どういうものだと考えていますか?

変えないと、やる気がないと思われる

佐藤 形とか、色とかだけではない、
「もの自体の基本設計」を
デザインなのだと思っていますが、
基本設計を変えないままで、
あたらしい通信技術に対応できるものを
長く使っていただく、
ということは、やはりあると思うんです。

だから、たとえば、
携帯電話の仕事をさせていただいたときに、
「ベーシックなものを作りたい」
と思いました。
基本的で、しかし中味は、
いろいろカスタマイズできる……
そういう考えかたがあってもいいのでは、
と思ったんです。

このあいだ、
携帯電話のP702 iDというあたらしい機種が
発表になりました。

世の中が
すごくはやいサイクルで刺激を受けていて、
刺激に慣れさせられていると感じたのは、
その発表後に、あるブログを見たときでした。

あたらしい機種は、
「同じサイズで、
 でっぱりをなくして使いやすくする。
 必要以上に、
 薄くしたりちいさくしたりはしない」

というものだったんですけど、
インターネット上の評判の中には
「なんて、
 やる気のない商品開発だろう」
「次のP702 iDは、やる気ねぇー」
と、若い子の文章が出ていたんです。
変わってないと「やる気がない」と、
受けとめる人がいるんですよね。
変えないほうがいいという方向には、
もう至れない状況がある。

常に、劇薬を渡しつづけているかのような……。
そういう人がいるのは、事実なんですよね。

もちろん、
それにあわせて変えることはできます。
変える、なんていうのは、カンタンです。
変えることができなかったら、
プロではないですから。
どんなところも変えられるのがプロですし、
それをやるかやらないか
判断するのも、プロですし……。

「デザインとは、
 あたらしいものを作ることだ」
という概念が浸透してゆく先に、
「あたらしさ」を盲目的に良しとする風潮が、
いつのまにか、定着してしまっているんですよね。

だから、
「新製品」というキャッチフレーズが、
あたらしい商品には、かならずつくし、
それが刺激剤になって、次から次へと、
「あたらしい=前よりもいい」
と、習慣的に、考えるようになっているわけです。
「それって、ほんとうにそうなの?」
ということを、真剣に考えてもいいと思うんです。

ほんとうの変化、とはなんだろう?

佐藤

あまりにも
あたらしいものに飛びつくことは、
どこか、
心が貧しい感じがして仕方がないんです。
生活が貧しいとか、
お金がない、とかいう意味ではなくて、
心が貧しいから、
あたらしいものが常に欲しくなるし、
常に欲してしまうという。

心が豊かだったら、
あたらしいものは、
そんなに要らないような……
だから、
あたらしいものが
次々に生まれること自体が
心の貧しさの裏返し

というような気がしていて、
そういうことに対して、ほんのすこし、
デザイナーからも、
世の中にメッセージを送れないだろうか、
実際の仕事で
そういうメッセージをこめたい、
という気持ちも、あるわけです。

だから、
「このデザインは、10年間は、使えるハズだ」
と、はじめから想定して、たずさわるわけです。
『キシリトールガム』も、『おいしい牛乳』も、
そういう設計をしています。

10年が経つと、
接する世代が変わります。
世代が変わっても生き残るものというのは、
かなり長く生き残る可能性が、あるんです。
「3年ぐらい持つもの」ぐらいの設計では、
けっこうあぶないんです。

そういう仕事をつづけてきたなかで
「あたらしさって、何なんだろうか」
と問いなおしたら、
ほんとうに、あたらしいものなんて、
そんなにないのではないでしょうか。

ほとんどのものが、
何かの上に、生まれてきているものだから、
「あたらしさ」は、ウソをついていることも
しばしばなのだと思うんです。

ほんとはあたらしくなくても、
「あたらしい」
という言葉がつくと、いいものだと思える……
その貧しい概念が浸透していて、
それに奔走させられているというか、
もしかしたら、ダマされているというか。

そういう風潮を
否定するのでもなく、
「たずさわらない」
と離れるのでもなく、
ぼくの場合は
中に食いこんでいって、
どまんなかから、
すこしでも変えられたらいいな、
と、思うところがあるんです。


気にいらないから離れよう、
イヤな世の中とは関わりを持たない、
というやりかたも
ひとつのやりかただとは思います。
そういう例は、たくさんありますし、
都会を離れて、自分で食べものを作って
コミューンのように……それは、それで、
ひとつの生きかただと思います。

ただ、ちゃんと仲間になって、
「大きな流れを、
 ほんのすこしずつ変えていく」
というやりかたもあると思うんです。


あとからふりかえると、わかること

佐藤 長くやらないと
わからないこともありますし、
時間が経たないと
わからないこともありますよね。
渦中にいるときには、
いろいろなことが、
あまりにもわかりませんから。


たとえば、
ぼくの場合には
具体的に、何かができなくなる、
という意味では、
「絵が描けなくなった」ということが
若いころにあったんですけど、
「描けなくなったこと」は、ずいぶん
あとにならないとわかりませんでした。

大学に入るために、
デッサンを勉強していったころには、
だんだん器用になっていきました。
手にワザがついていくわけですから、
どうしようもないよろこびがあるんです。
すると、もうすこし、先へ先へと……

高校のころの
石膏デッサンというのは、
ぼくには、自分を高めていく過程でしたし、
精神統一の時間、でもありました。

1日、3時間なら3時間ほど、
他のことは考えずに
デッサンをすることに
ものすごく集中する……
短い時間に集中力を養えたんです。

ただ、大学に入る、そして社会に出て、
「自由に絵を描いてみたいな」と思ったり、
「自由に描いていいよ」と言われたりすると、
大学時代も社会人時代も、
描きはするけど、
「どこかが、よくない」
と、自分でわかるんですよね。
手先で、描けちゃう……。
それがよくないんだ、とわかるのは、
じつは、かなりあとのことです。

学生のころから
実際には、描けなくなってたんですが、
描けない、とわかるようになったのは、
30代の、前半ぐらいかな。

ある著名なイラストレーターのかたに
「卓ちゃんって絵が描けないね。
 絵がヘタだよ。よくないよね」
と、言われて、けっこうガーンと来て……。

高校生ぐらいまでは、
技術も知らないし、
教えてもらったこともないし、
もう、ほんとに自由に油絵を描いていました。

キャンパスに向かって
自分で、勝手に描いて……
人から、ほめられたりしていたけど、
そこには、もう、戻れなくなったんだな、
と、そのときに、ようやくわかりました。

それを、ずいぶん経ってから
認識せざるをえなかったときには、
ショックでした。

「自分は、絵は描けないから、描かない」

これは、それ以来、
今でも、そうなんですよ。
これから先に、
ワザみたいなものから抜けられたら、
描けるんだろうな、とは、思うんですけどね。

だから、
絵も描けるし、デザインもできる、
という人は、ほんとに、うらやましいんです。
「うらやましい」
という言葉は、オトナになったら、
あんまり使わないじゃないですか。

若いときなら、
「あの人は、あれを持っててうらやましい」
「あの人の、あんな生活は、うらやましい」
と思いましたが、
だんだん、年をとってくると、
お金をたくさん持っていても、
うらやましくもなくなってくるじゃないですか。
だから、なかなか
「うらやましい」とは言わないんですけど、
「絵が描けて、デザインもできる」というのは、
ほんとにうらやましいな、と思うんですよ。

(次回に、つづきます)


佐藤卓さんのこれまでの
ほとんどの仕事を見られる大規模な展覧会は、
週末に開催されはじめました。
これから3か月間、おこなわれてゆきます。

この3か月のあいだに、
みなさんからのデザインについての質問や
佐藤卓さんの言葉への感想などを、
卓さんに伝えてゆこうと考えておりますので
質問や、感想など、ぜひ、
postman@1101.com
こちらまで、件名を「日常のデザイン」として
お送りいただけると、さいわいです。

2006-10-27-FRI

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